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●親子で全国制覇を成し遂げた富山第一高校サッカー部:大塚一朗・翔 親子

富山第一高校サッカー部:大塚一朗・翔 親子

2014年1月、全国高校サッカー選手権で優勝を飾った監督:大塚一朗

そしてキャプテンであり息子の大塚翔

今から31年前、父:一朗も富山第一高校でキャプテンとして出場

名門 古川電工の選手として活躍

息子:翔は15歳の時にU-16日本代表に選出

家では監督と選手ではなくサッカー好きの親子

そんな仲の良い親子にサッカーを辞めようと思うほどの大きな試練があった

 

2年前、富山第一は県大会決勝に進出

勝てば全国大会出場が決まる大事な試合、翔は1年生ながら途中出場

しかし試合終了間際の大チャンスに失敗…全国大会出場は夢と散った

すると当時、父がコーチだった事で翔は世間から容赦ないバッシングを浴びた

サッカーを辞めようと思うまで追い詰められた翔

そんな息子に父は「サッカーで受けた悔しさはサッカーで返すしかない」

この言葉で今まで以上に練習に打ち込んだ翔は、

3年生になり部員全員の意志でキャプテンに選ばれた

2014年1月13日、全国高校サッカー選手権 決勝

相手は石川県代表:星稜高校

父がつけていたキャプテンマークを31年後に受け継いだ息子

1点ビハインドで試合時間は残り1分…PKを獲得

決めれば同点、外せば負けが決まる場面

PKを蹴るのはキャプテンの翔、膝をついて祈る父

仲間と父の思いを乗せた同点ゴールだった

勢いに乗る富山第一は延長戦でゴール、初優勝を決めた

「チームとして同点になってほしい。PK外したらまた悪口を書かれる。少し父親としての思いが膝をついて祈るような気持ちになってしまった」と父が語った

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介された倒産寸前の十勝バスが起こした奇跡

それは地方の路線バス会社が日本で初めて起こした奇跡だった

北海道帯広市にある十勝バス

社長:野村文吾の誠実さと諦めない心は老舗バス会社の常識を打ち破った

 

十勝バス創業家の長男として生まれる

学生時代はテニス部で活躍、一時はプロを目指すほどの腕前だった

東京の本社を持つ大手ホテルチェーンに入社

広報としてキャリアを積んだ後、札幌に異動

エリートビジネスマンとして活躍する一方、

結婚し子供にも恵まれマンションも購入

順風満帆な日々を送っていた

 

●倒産寸前のバス会社

1998年、帯広でバス会社を経営する父が突然訪ねてきた

「会社をたたむことにした…」

十勝バスは帯広を中心に十勝地方全域に展開している路線バス

市民の足として70年に渡り愛され続けてきた

しかしマイカーブームの到来と共に利用者は減り続け、

その数は全盛期の3割まで落ち込んでいた

「それには筆頭株主のお前の了解が必要なんだ」

2代目社長だった祖父の株は、全て孫の文吾の名義になっていた

バス会社が無くなっても何も困らない…

しかし父がやってきたバス会社があったからこそ

今こうして自分はこの上ない幸せな日々を送れているのではないか

野村は決意した

翌日、父を呼び出しバス会社を継ぎたいと申し出をする

このまま十勝バスの危機を見過ごせない

こうして34歳で十勝バスに入社した野村は、

経営企画本部長として280人の社員の陣頭指揮をとることになった

その頃の十勝バスは補助金なしでは運営できない状況

だがその補助金も利用者が減り続ければ給付されなくなる可能性もある

一刻も早く立て直さなければ倒産するのは必然だった

野村は営業強化とサービス向上を訴えた

当時、十勝バスでは利用者の減少を自然減と呼んでいた

社員の誰もが客の減少は時代の流れ、

何をしても乗客が増えることなどないと諦めていた

それゆえ立て直しを図ろうとする野村と社員が対立するのも当たり前だった

野村は帯広青年会議所に入会した

先輩経営者たちとの交流をきっかけに会社を立て直すヒントを得たい、その一心だった

そんな野村の相談にいつも付き合ってくれたのが会議所の長原氏と笠原氏

毎晩、深夜まで会社再建について話し合った

ある日の事、野村はいつものように社員と父親の愚痴を聞いてもらっていた

「お前いい加減気付けよ。お前が会社をダメにしてるんだ」

「一緒に働いている人の事を愛せよ。従業員の皆さんを愛するって今ここで誓え」

胸を一突きにされた気分だった

今まで精いっぱいやっていいるつもりで大切なことが見えてなかった

「従業員の皆さんを愛します」この言葉にすがるしかなかった

翌日、野村はすぐに行動に移した

社員の前で「僕は間違っていました。すみませんでした」

早朝は出勤する社員全員に挨拶

暇を見つけては自分から歩み寄り、社員との距離を縮める努力をした

そして彼らの意見に耳を傾け、直接自分の想いを語った

その一方でわずかに残った会社の資産を売却するなど、

十勝バス存続のためにできることは全てやった

相変わらず赤字は続き、厳しい経営状態ではあったが、

野村の働きかけにより社員たちが少しずつ変わり始めた

 

そんな頃、野村は正式に社長に就任

まさにこれからと思っていた矢先、最大に危機が襲う

世界的な原油価格の上昇で燃料費が高騰

十勝バスはついに破産寸前に追い込まれた

さすがの野村も覚悟した

しかし、社員から「営業を強化するしかないですよね」の意見

それは10年前に野村が提案し社員に一蹴された営業強化、

しかも現状維持を望んでいた社員が前を向き始めた

社員らは自主的に各家庭に時刻表と路線図を配る準備を始めた

これはかつてどこの路線バス会社もやったことがない日本初のアイデアだった

実行に移せば新しい顧客開発に効果がある、野村はそう確信した

「チラシは白樺通19条停留所の周辺だけに配ります」

せっかくのアイデアだったが配布するのは一つの停留所、その周辺だけ

社員の中にまだ営業に対する拒絶感が残っていた

それは野村の想像の1/10程の範囲だったが、

社員自らが出した初めての提案にかけてみる事にした

十勝バス初めての営業、無論 社員たちにとっても初めての経験

緊張と恥ずかしさでポストに投函するだけでも勇気が必要だった

嫌な顔をする住人は一人もいなかった

逆にいろいろ質問されることの方が多かった

そして数日後…

「社長、最近何かありました?いつも素通りする停留所に客がいるんです」

「どこの停留所ですか?」「白樺通19条です」

それはまさに社員たちが自分の足で営業した停留所だった

これをきっかけに社員たちから様々なアイデアが出るようになった

通院や買い物する利用者のために目的別の路線図を作った

定期を利用する乗客には土日乗り放題のサービスを始めた

それらは皆 利用者の立場で考えたモノ

乗客にとって新しく魅力的なバスの利用法が生まれた

社員を愛すると決めてから6年余り、

その想いはいつしか利用者を愛する事に繋がっていた

そして十勝バスの乗客は自然と増加していった

十勝バスを取り巻く環境が少しずつ変わっていく

自分たちは必要とされている、その誇りが社員一人一人を支えた

野村が入社してから13年目の2011年、ついに十勝バスは増収に転じた

地方の路線バスの増収は全国初の快挙だった

さらに2014年2月、十勝バスの奮闘ぶりがミュージカル「KACHI BUS」となり、

地元帯広で上演された

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ありえへん∞世界で紹介された

●タジキスタンの内戦を止めたラストサムライ:秋野豊

1990年代初頭、ソ連から独立したばかりのタジキスタンは、

政府側と反政府勢力で激しい内戦が繰り広げられていた

1994年に停戦合意がなされるも、内戦は続き、

幼い子供までも銃を持ち戦地に駆り出されていた

40代だった秋野は、筑波大学で旧ソ連圏に関する歴史を教えていた

彼は大学教授として型破りだった

ソ連崩壊から間もない激動の時代を自らの肌で感じるため、

旧ソ連圏を自分の足で見て廻る現場主義の人だった

そんな秋野が当時、最も関心を寄せ心を痛めていた事こそが、

タジキスタンで激化する内戦…

1998年、日本の外務省がタジキスタンの紛争解決のため専門家を募った

秋野の元にも外務省からの誘いが届いた

秋野には愛すべき妻と2人の娘がいる

紛争解決の力になりたかったが、

家族のことを考えるとどうしても決断することが出来なかったという

悩み抜いた末、遠い異国の平和のためにタジキスタンに渡る事を決意した

大学へ辞表を出しタジキスタンへ旅立った

現地に着いた秋野は、凄まじい内戦の惨状を知った

100万人の国民が他国に亡命、5万人以上が戦争で命を落とし、

5万人以上の子供が孤児となった

この紛争を止めるために国連職員として政府側であった彼は、

反政府軍のリーダーたちの元へ足を運び、解決のための対話を試みた

そのリーダーたちは野戦司令官と呼ばれ大小様々な規模のグループが存在していた

秋野は彼らに いつ銃口を向けられてもおかしくない状況で、

平和的な解決のために果敢に話し合いへ向かった

秋野は彼らに取り入るためにほとんど下戸にも関わらず

野戦司令官と酒を酌み交わし、何とかして距離を近づけようとした

当時500人以上を束ねた大型グループの野戦司令官:ニゾーモフ氏によると

「秋野さんは何回も私の家を訪ねてきては一緒に食事をしたりサッカーをよく一緒にしたね。私の部下の事をよく考えてくれて、いかに平和的な条件で和解することが出来るか、政府と反政府だった私たちの間を愛情を持って最後まで取り持ってくれた。それまで政府に秋野さんのような人はいなかった」

こうした秋野の活動はのべ90日間にわたり、10人以上の反政府軍リーダーと対話した

するとそれまで和平交渉に一切応じる事がなかった反政府軍の中に武装解除し降伏する者たちが現れ始めた

それは遠い異国からやってきた日本人が起こした奇跡だった

終わりの見えなかった内戦が和平へ向かった大きな第一歩

そんな彼に現地のタジキスタン人は尊敬の意を込めてラストサムライと呼ぶように

そして最後の大物 野戦司令官:ミルゾ・ジヨーエフとの和平交渉が成立

和平に向け大きな手ごたえを感じていた秋野

“あともう少しだ きっとこの国は平和になる”

その帰り道…秋野は20発以上の銃弾を受けた状態で交渉の翌日 谷底から発見される

それは和平を望まないゲリラ組織の若者による犯行だった

1998年7月20日、享年48

秋野は大きな夢を実現させるその直前、志半ばで帰らぬ人に

タジキスタン国内では秋野の死が大きく報じられ、

彼と関わった全ての人間は敵味方関係なく悲しみに暮れた

秋野の死から2年後、内戦が終結した

秋野の平和への活動はタジキスタン政府より感謝され、

2006年7月にタジキスタン大統領から友好勲章を授与された

さらに秋野の名がついた大学が建てられるなど、

亡くなって16年経った今でも彼はタジキスタンの人々から尊敬され愛されている

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タカトシの涙が止まらナイトで紹介された

●ウェディングプランナー:大和田浩子さんが泣いた結婚式

「家族の持つエネルギーとかすごいなと実感した1日でした」

2013年4月14日…

「1週間後に病院で結婚式を挙げたいと思ってるんですが…可能でしょうか?」

それは15年付き合っている新郎:鈴木善久と新婦:鈴木麻耶からの依頼

麻耶さんの父親はガンを患い、入院中で余命宣告を受けていた

 

新婦の父:貞臣さんは大学院の研究室にいた時に

アルバイトできた由美子さんと出会い、大恋愛の末に結婚

長女:麻耶さんと長男をもうけ、

一度もケンカした事がない仲睦まじい夫婦だった

しかし15年前、麻耶さんが短大生の時に母:由美子さんがガンで他界

それ以来、男手一つで2人を育てる事になった父

母亡き後も父は全く落ち込む様子もなく、高校に通う長男の弁当を作り、

明るい前のまま父親として子供たちに接してきた

そんなある日、「由美子…」亡き母の名を呼ぶ父の寝言だった

 

そんな父が脳のガンに侵され入院

家にいると心配で眠れなくなる日々が続いた麻耶さんは、

病院に泊まり込むことにした

1ヵ月間、父の面倒を見ながら会社に通う生活が続いていた

入院して1週間で危険な状態が続いて、その後、少し体調が戻った

結婚式をやるなら今しかないと思い、大和田さんに連絡

「家族だけで慎ましくやりたいと思ってるんです」

結婚式まで1週間、ドレスの衣装合わせ、ヘアメイクの打ち合わせなど

急ピッチで準備が進められていった

「花束贈呈の音楽は希望ありますか?」

「サタデーナイトフィーバーを使いたいんです。父と母の初めてのデートで観た映画で、思い出の曲みたいで」

 

そして2013年4月27日 結婚式当日…

父の体調面や他の患者の迷惑を考慮し、

病院内で結婚式を挙げる事に難色を示していた医者やナースも

麻耶さんの想いに胸を打たれたのか、

病室の向かいの小さな部屋を着替えやヘアメイク用に貸してくれた

 

そして父の病室に新郎新婦が入場

「娘の花嫁姿を見たい」という最後の父の願いを叶えた

父を泣かせるつもりが、父の姿を見た途端、

麻耶さんの方が感激し泣いてしまった

父はベッドから起き上がる事も出来ない状態にも関わらず、

全ての力を振り絞って手を叩いていた

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タカトシの涙が止まらナイトで紹介された

●ある母親が娘に初めて語った「この世で一番大切な日」の物語

 

私達の結婚生活はゼロからのスタートでした

両家の反対を押し切り、駆け落ち同然ではじめた結婚生活は、

まるで絵に描いたような貧乏生活だった

「ごめんな、ちょっと待ってな」

指輪なんて無くても私は幸せでした…

 

営業マンだった夫は朝から晩まで身を粉にして働き、

私もパートで働き、それはもう大変な生活でした

 

結婚10年目で出来た娘は、素直ないい子に育ち、

贅沢ではないけど幸せってこんな事なんだなぁ

って実感する毎日を過ごしていた時でした…

 

ある日、夫が入院…

医師から夫はもう助からないと知らされました

夫には言えませんでした…

しかし夫はもう助からない事を悟っていたのかもしれません

 

「今日、何日やった?」「2月…3日…」「誕生日おめでとう。そこ…」

衰弱した夫が弱々しく指した棚の中にあったのは…指輪…

「16年も待たせて、ごめん…」

夫は友人に頼んで指輪を用意してくれていたのです

1ヶ月後、夫は眠るように天国へと旅立ちました

 

たった16年で終わった結婚生活

貧乏で不幸だったと言われたらそうだったかもしれません

でも振り返ってみると浮かんでくるのは幸せな瞬間ばかりなんです

最初で最後の誕生日プレゼント

それはいつか約束した小さなダイヤが一つだけ付いた綺麗な指輪でした

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