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奇跡体験!アンビリバボーで紹介された男に心が揺さぶられた

●23年ぶりの奇跡のライブ

伝説のバンド:ROGUEの奥野は今…

群馬県にある障碍者支援施設で重度の障害者として暮らしている

正常に動くのは胸から上の部分だけ、肘から先の手も自由がきかない

 

同じ群馬県で生まれた奥野敦士と香川誠は18歳で上京

音楽の専門学校で出会った彼らは意気投合、共にメジャーデビューを目指した

安アパートで一緒に暮らすギリギリの生活

それでも夢だけは諦めなかった

●1985年、2人が中心となり結成したROGUEがメジャーデビューを果たす

代表作は奥野が作詞作曲を手掛けた「終わりのない歌」

1989年、日本武道館で行われた単独ライブで8000人を動員

伝説のバンドとなった

しかし翌年、ROGUEは突如解散

それは奥野の一方的な理由からだった

「解散しようと思ってるんだよね。そろそろ自分のやりたい音楽とかさ、やりたい時期に来てるんだよね」

2人はわだかまりを抱えながら決別

それぞれ新しい道を歩み始めた

奥野はソロ活動のかたわら役者としても活躍、その活動は多岐に渡った

一方、香川もギタリストとして氷室京介らと共演など成功をおさめた

月日が流れるにつれ奥野は、

現実の厳しさを思い知らされるようになっていた

徐々に仕事が減り、生活は荒んでいった

いつしかバンドの仲間が恋しくなっていた

同じくROGUE復活を望んでいた香川

再結成のために荒んだ生活から脱却したい奥野は酒を断つことを決意

解体業の仕事を始め、生活を一変させた

そして夜は復活ライブに向け、曲作りに精を出した

●2008年9月11日、奥野は地上7mの屋根から地面に転落した

目を覚ましたのは事故から数時間後のこと

診断結果は頚椎損傷…奥野は胸から下が全く機能せず、

トイレにも行けない完全介護の身となった

厳しいリハビリが始まった

それは歩けるようになる為ではなく

腕や手なの動く可能性が残っている筋肉をほぐし、

僅かな改善を目的としたものだった

事故から2か月が過ぎた頃、奥野は一人屋上に出た

歌が歌えるか確認するため…だが、

歌を歌うための腹式呼吸ができなくなっていた

その後、香川は一度だけ奥野の見舞いに訪れた

しかし2度と行くことはなかった

2009年4月、ベルトでお腹の圧力を加えれば声が出る事が分かり、

以来、声のリハビリを繰り返した

歌のリハビリを開始してから1年半が過ぎた頃、

奥野は自分が歌っている姿を撮影した

●「終わりのない歌」とは?

上京してみると思い描いていた都会とはちょっと違う

寂しい思いもいっぱいしている、孤独感とか

そういう思いを曲に出来たらなと思って…

歌詞にある“臆病者の鳩がガード下で群れを成して”は

上京した直後の上野駅で見た光景だった

孤独に負けていたら何もできない人生は自分との闘いなんだ

●2018年8月、ミスチルの桜井が車いすで歌う奥野について熱く語った

「奥野さんのような状況になってもクシャクシャの笑顔で楽しくハッピーに歌を歌っていたい」

香川はこのライブを偶然、目にした

会場で流れた映像で初めて奥野の歌声を聴いた

「何だ歌えるんじゃん」

そして香川は奥野の元に向かった

「奥野、ROGUEを再結成しないか?」

どうせやるならと香川の発案でチャリティーコンサートして開催

収益金で福士車両を購入し、前橋市に寄付することになった

 

 

●2013年10月19日、23年ぶりにROGUEが復活した

2013年12月29日、群馬県高崎市で行われたイベントには1000人のファンが訪れていた

再結成を記念してCDが発売されていた

香川「新曲を出し続けないと意味がない」

奥野「ROGUEとしての活動はずっと続けていこうと思う」と語った

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●ある高校の先生が作った感動するテスト

 

テストを作成したのは静岡県立 静岡商業高校の澤井一博 先生

 

卒業を控える生徒たちにとって高校生活 最後となるテストだった

「答えをしっかり確かめなさいよ」

それだけ生徒に伝え、澤井先生は教室を出た

 

25問もの選択問題が出題されていたのだが、生徒はある事に気付く

 

問題を全て解き終え、答えを確認した生徒の顔が皆、思わず笑顔に包まれた

 

1、ゆ 2、め 3、と 4、き 5、ぼ 6、う 7、を

8、も 9、つ 10、て

11、が 12、ん 13、ば 14、れ 15、よ

16、さ 17、よ 18、う 19、な 20、ら

21、ま 22、た 23、あ 24、お 25、う

 

解答をつなげるとメッセージになっていた

卒業して社会へと巣立つ教え子へのエール

 

「頑張れよという思いが、どうすれば生徒に伝わるか」

 

教師になって38年間、澤井先生は

3年生最後のテストで必ずこうしたメッセージを送っている

 

40人のクラスで1割ぐらいは間違うため、メッセージが伝わらないという

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●耳の聞こえない彼女の夢を叶えた彼の愛

1977年、山形県米沢市に生まれた清美さん

清美さんは生まれながらにして重度の難聴、そのレベルは1種2級

人が話す言葉や音楽は聞き取れない

しかし母の猛特訓により幼稚園に上がる頃には、

人の口元を見て言葉を読み取れるように…

小学生になった清美さんはテレビに釘付け

視線の先は松田聖子

歌声は聞こえなくても松田聖子は輝いていた

私も歌を歌いたい、でも耳が聞こえない清美さんには歌うことなどできない

高校を卒業し就職

 

2002年6月、清美さんは北千住の駅前で

一人のストリートミュージシャンと出逢う

耳の聞こえない清美さんに不思議なことが…

目の前で歌う彼の声が清美さんの体を震わせた

そして“私は耳が聞こえませんが今度隣で手歌で歌の表現をさせて下さい”

と手紙を渡した

清美さんの強い想いに動かされ、申し入れは受け入れられることに

彼の名前は佐々木厚

2人は北千住の駅前で路上ライブをやる事に…

厚さんは歌を、清美さんは手話でサインボーカルを

何度も路上ライブを重ねていく中で、

清美さんはやっぱり歌姫になりたい、あの夢が甦る

その想いを聞いた厚さんは清美さんの夢を叶えるための詩を書いた

曲の名は「キセキ」

耳の聞こえない清美さんには音程を取ることなど不可能

何度も何度も繰り返し間隔だけで音程を覚えるしかない

3ヵ月間、猛特訓が続き2002年9月、ついに念願の初ライブの時がやって来た

しかし上手く音程を取る事は出来なかった

彼女は限界を感じていた…

しかしそんな時、厚さんがかけたのは前向きな言葉ばかり

厚さんは決して諦めようとはしなかった

どんなに時間がかかってもいい、2人で奇跡を起こそうと誓った

 

2003年、2人の夢だったレコーディングが実現

レコーディングは簡単にはいかなかったが、厚さんは諦めない

清美さんの傍でずっと励まし続けた

そして2004年11月、「♪キセキ」でメジャーデビューを果たした

 

しかし音楽の世界は甘くはなかった

徐々に仕事も減り、厚さんはバイトをしながら地道に活動を続ける事に…

 

気付けば9年の時が過ぎていた

清美さんの歌の活動も少なくなり、2人が会う事はなくなっていった

会わなかった空白の時間が、清美さんは厚さんが、

厚さんは清美さんが、1番大切な人だと気付かせてくれた

出会って12年、長い時間がかかったが2人は結ばれることに

結婚式に向けた清美さんは生まれて初めて歌詞を書いた

自分の夢の実現のために常に傍で励まし続けてくれた厚さんに感謝の気持ちを込めて

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日本が世界に誇る50人で紹介

 

●羽生結弦を救った金メダリスト

 

2種類の4回転ジャンプを有するフィギュアスケート選手:羽生結弦

子供の頃、彼はスケートを辞めるかもしれない状況に追い込まれていた

2004年、全日本選手権 9歳から11歳の部門で優勝

仙台の天才少年の将来に期待が集まった

 

そのわずか1ヶ月後、練習していた勝山リンクが財政難で閉鎖されてしまった

その報せを聞いて号泣、スケートを辞めなくちゃいけないのか?と悲嘆した

 

しかし奇跡が起きる…2006年、トリノオリンピック

イナバウアーで世界を魅了した荒川静香

オリンピックのフィギュアスケートで日本人初の金メダルを輝いた

直後の会見、荒川は世界のメディアを前に

「私が基礎を作り上げてきたリンクは閉鎖されてしまいまして、小さい子たちが練習場所を探すのに非常に困っている状況です…」

荒川は仙台育ち、羽生と同じリンクで練習していた

「リンクの状況が今後良くなっていくことをいつも願っています」

 

金メダリストの訴えは、一気に事態を動かした

宮城県と仙台市が合わせて1億円を支援

金メダリストを育てたリンクは2007年に再開された

 

その1ヶ月後、再開されたリンクで金メダリスト:荒川がスケート教室を開いた

そこには当時12歳の羽生の姿が…

羽生は荒川の前で得意のイナバウアーを披露してみせた

 

男子のトップ選手でイナバウアーをやるのは羽生以外にはいない

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●日本人捕虜が建設した奇跡の劇場

1947年に完成したウズベキスタンのオペラ劇場:ナヴォイ劇場

旧ソ連では世界3大オペラ劇場と呼ばれるほど

この劇場建設には500人の日本人が携わっていたという

 

 

1945年、第二次世界大戦が終戦した

60万人がシベリアに強制連行され捕虜となる

当時、ソ連だったウズベキスタンでも

2万5千人もの日本人が強制労働を課せられた

劣悪な労働環境、零下30度を下回る

極寒の地で寒さに震えながら凍った木を切り出す

決められたノルマを果たさなければ食べ物すら与えられない

長時間の労働に加え、飢えとの戦い

過酷な強制労働にも関わらず日本人捕虜たちは手を抜かず仕事を全うした

それよりも彼らは工場や運河など

建設不可能と思われていた施設を次々と建設していく

真面目に働き続ける日本人捕虜の姿に現地の人は次第に心を惹かれていった

 

1945年、ナヴォイ劇場の建設が開始

この大規模なプロジェクトには500人の日本人捕虜が建設にあたった

作業は過酷を極め79人もの日本人捕虜が作業中に亡くなった

しかし日本人捕虜は手を抜く事なく作業を続けた

そんな彼らにはある合言葉があったという

それは「日本に必ず帰ってもう1度桜を見よう」

クレーンなどはなく手作業だったにも関わらず驚異的な速さで作業は進み、

3年はかかるだろうと思われた作業が、わずか2年足らずで劇場は完成した

与えられた仕事をやればいいという強制労働だったにも関わらず、

細部の彫刻に至るまで手の込んだ作りにするなど、

日本人としての誇りをもって作った完璧な出来栄え

 

劇場が完成してから20年後…1966年に起きたタシュケント大地震

市内では78000棟が倒壊する大惨事、未曽有の大災害

しかし、日本人が建設した建物は倒壊する事はなかった

ナヴォイ劇場は無傷だったため、市民たちの避難場所として多くの命を救った

日本人捕虜の真面目な仕事ぶりはウズベキスタン国民の心を打ち、

「日本人のように真面目な子になりなさい」と子供たちに教えた

 

1996年、カリモフ大統領が劇場建設に関わった日本人を称えるプレートを設置

大統領はプレートを作成する時、「彼らは恩人だ間違っても捕虜と書くんじゃない」と指示

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