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海外で活躍した名もなき日本人

2003年、イギリス人のフォールさんが来日し、

初めて日本で語られた物語がある

●420人の敵国兵を救った駆逐艦 雷の艦長:工藤俊作

1901年、山形県高畠町に生まれた工藤俊作

19歳の時、広島県にある江田島の海軍兵学校に入学

そこで後の総理大臣となる鈴木貫太郎 校長から

「惻隠の情」という言葉を受けた

戦った戦士たちが戦闘を終えた後 互いの健闘を称え合い 勝者が敗者を労う

自分より弱い人間を理解し 共感や思いやりが必要という考え方

弱き者を助ける精神こそ日本の武士道と教わった

海軍兵学校を卒業後、海軍少佐に昇進

41歳の時に駆逐艦 雷の艦長に就任した

武士道を実践するべく工藤は、鉄拳制裁を禁止した

鉄拳制裁が横行していた当時の日本海軍において異例の訓示だった

工藤の下、駆逐艦 雷は結束力を強めた

1942年、太平洋戦争の真っただ中、日本は連合国と戦争

インドネシア ジャワ島の北東スラバヤ沖で激しい戦いを繰り広げていた

工藤が艦長を務める駆逐艦 雷も参戦

当時の戦況は日本海軍が圧倒的に優勢

 

イギリスをはじめとする連合国海軍は猛攻撃を受け

フォール少尉が乗る艦エンカウンターは日本軍の戦闘艦に包囲されていた

砲弾がエンカウンターに命中しエンジンが停止

もはや脱出する以外 方法はなかった

こうしてイギリス兵 全員が救命ボートで脱出

その直後、エンカウンターは日本海軍の攻撃によって炎上 海に沈んだ

近くには沈没した他の船の乗組員も含め400名以上が漂流

救命ボートは8隻しかなく全員が乗るには不十分

オランダ軍が助けてくれる、と信じていた

逃げる前に近くにいた味方のオランダ軍の基地にSOS救助要請の無線を打っていた

しかし漂流から20時間経っても助けは来なかった

誰もが死を覚悟していたその時、フォールの前に現れたのが駆逐艦 雷だった

乗組員220人の小型軍艦だが、連合軍の船を3隻も撃沈していた

 

この辺りは前日 日本の輸送船が潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没したばかりの危険な海域

漂流物を発見した工藤は戦闘用意を命令

潜水艦に注意するよう指示、漂流物を射程距離に捕らえた

工藤が見たのはボートに掴まり必死に助けを求める400名のイギリス兵

 

目の前に現れたのは敵国の艦、イギリス兵たちは死を覚悟した

しかしどういうわけか攻撃を仕掛けてこない日本軍

その時、工藤は苦悩していた…

目の前で必死に助けを求めるイギリス兵がいる

日本軍戦闘艦の艦長という立場でありながら、もしも救助活動中に攻撃を受け、

艦が沈没するようなことが起きれば処罰され職を失う

工藤が下した決断は「敵兵を救助せよ!」

工藤は武士道の惻隠の情を貫いた

こうして始まった世紀の救助劇

飲まず蔵図で漂流し続けたイギリス兵は縄梯子も昇れない状況

「船の動かすのに必要な最低限の人間だけを残し、あとは全員 救助に向かえ!」

それは日本海軍史上、極めて異例の命令だった

危険海域でありながら戦闘のための人員を裂いて敵を救う

自らの命を顧みない捨て身の救助

さらに日本兵たちは自ら海に飛び込み、体力の限界を迎えていたイギリス兵を救助

自力で上がることができないイギリス兵は体にロープを巻き付けて引き上げた

甲板では油や汚物にまみれているイギリス兵の体を優しく拭き労わる

日本海軍にとっても貴重な食料や真水を与えた

「目の前で救いの手を求めている人間を救う事より大切なことなどない」

と、さらなる漂流者の救助を支持

工藤は溺れていた全てのイギリス兵を救助、その数422人

「諸官は勇敢に戦われた 我々はあなた方を殺めるような事はしない 戦いが終わった今 諸官たちは日本海軍の名誉あるゲストである」

工藤は武士道の精神をもって弱っているイギリス兵たちを労い、最大限の敬意を払った

その後、422人のイギリス兵は、翌日にボルネオ島の病院へ引き渡された

 

実は、これは第二次世界大戦から21世紀になるまで世に出る事のない知られざる話だった

工藤が敵兵を救助した1942年は第二次世界大戦中、

420人もの敵国兵を救った、という話を公表してしまうと

工藤は非国民扱いされ非難の的になる可能性があった

工藤から報告を受けた当時の上官:南雲忠一 中将は、

「この話を公のするのはやめよう、お前は非国民扱いされてしまう。しかしお前は決して間違っていない」

理解ある上司に工藤は庇われ、結果 話は半世紀に渡り 世に出る事はなかった

その後、工藤は雷を降り、別の艦の艦長に就任

直後、雷は敵の攻撃を受け沈没 可愛がっていた当時の部下全員が死亡

そのショックから終戦後 工藤は戦友と連絡をとらず

ひっそりと余生を過ごし、1979年、77年の生涯を終えた

 

フォール少尉は終戦後、イギリスに帰国

1996年、フォールは自叙伝を出版

これにより54年の時を経て、奇跡の物語が世に知られることになった

本の1ページ目には工藤艦長への感謝の念がつづられている

その後、心臓病を患い自らの命が長くないと悟ったフォールは2003年に来日

外務省に出迎えられたフォールは半世紀前の救助劇を語り、

初めて奇跡の物語は日本に伝えられた

その時、工藤の消息を誰も知らず、再会を果たす事は叶わなかった

その5年後、工藤のお墓が判明

するとフォールは、2008年に再び来日し工藤の墓を参った

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海外で活躍した名もなき日本人

 

ガーナの人を貧困から救いために人生を捧げ、村の長老となり

わずか27歳という若さでこの世を去った武辺寛則

 

●長老になり貧しい村を救い27歳で亡くなった武辺寛則

 

1961年、長崎県佐世保市で生まれた武辺寛則

武辺は10歳の時、ある新聞記事に目が止まった

それはアフリカの貧しい人たちのために助ける日本人の記事

僕もアフリカの貧しい人たちを助けたい、幼い頃からの彼の夢だった

大学卒業後、福岡の商社へ就職、順風満帆な生活を送っていた

しかし商社に入社して2年が経った ある日、武辺は辞表を出し会社を辞めた

「辞めてどうするんだ?」「アフリカに行きます」

安定した職を捨てアフリカへ行くことを決意

1986年、25歳の時、ボランティア団体を通じてガーナへ渡った

当時のガーナは主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況

アフリカの中でも最も貧しい国の一つだった

武辺が訪れたアチュア村は電気や水道も通っていない特に貧しい村

彼がまず行ったのは農業の改革だった

「みなさん、まずは焼き畑農業を止めないといけません」

焼き畑農業は、草木を焼いた灰が肥料になり土壌を改良するが、

数年で地力は落ち、収穫量が減少してしまう

その提案に村人たちは

「俺たちはずっとこのやり方でやってきたんだ。焼き畑農業を止めて今さら何をすればいいんだ」

農業の素人だった武辺はすぐに有効な答えを提示できなかった

しかし彼は村の発展を第一に考え、何度も根気強く村人たちと話し合いを重ねた

その数、半年間で100回

武辺の真摯な姿勢に村人も心を動かされ、いつしか信頼関係が生まれていった

村人たちとの信頼関係を築き、

これからきっとこの村は良い方向に向かう、と思っていた矢先、

大干ばつ(1987年6月)が村を襲った

雨期になっても雨が全く降らず日照り続き

タピオカの原料であるキャッサバやコーンなどの主要作物のほとんどが枯れた

貴重な食料源を失い、村の生活はさらに苦しい状態となり多くの人が村を去った…

武辺は決して下を向く事なく、この難題にも解決策を探し始めた

すると大干ばつで全ての農作物が壊滅する中、

希望の光となるパイナップルを見つけた

それは細長く果汁たっぷりのファンティパイナップル

特徴は干ばつにも負けない暑さへの耐性

それまで村でパイナップルを作っていたのは、わずかに5~6人ほど

しかもその農業技術は未熟で多く作れず自分たちが食べる為だけに栽培していた

「みんなで干ばつに強い このパイナップルを作ろうじゃないか!」

 

安定した収入源になるようパイナップルを村の期間農業にする事業を始めた

武辺が働きかけたところ、村の1/3にあたる65人もの村人が協力

武辺は誰よりも率先して身を粉にして懸命に働いた

希望に光が見えかけたそんな時、武辺はマラリアを発症

過酷な肉体労働で体が弱っていた武辺は1年間に3度もマラリアにかかった

生死の境をさまよった武辺は、マラリアから生還するとすぐに畑を耕し始めた

パイナップル作りを始めて半年経った頃、資金不足に陥った

武辺はガーナの日本大使館へ資金援助の要請に行った

大使館からは思ったような良い返事が得られず、万策尽きたかに思えた

しかし武辺は決して諦めなかった

武辺にとって縁もゆかりもない他の国の大使館にかけあい、

アチュア村への資金援助をお願いした

断られても断られても足を運び、誠意を伝え続け、

ある国の大使館から資金援助の約束をとりつけた

こうして武辺がとりつけた援助のお陰でパイナップルの栽培を続けることができた

 

ある日、武辺は村の首長から呼び出された

「あなたはこの村の最大の恩人です。この村の長老になってほしい」

「貧しいこの村で なたに恩返しができるのは長老という名誉ぐらいしかないのです」

「ぜひ私たちの長老になってください」

こうして武辺は村で首長の次に偉い長老という名誉を与えれることになった

1988年9月24日、26歳の武辺は長老に就任

 

念願のパイナップルの収穫まであと半年…

夢の実現まであとわずかと迫った時…

車を運転することが出来た武辺は、

急病の村人を病院まで運ぶようお願いされた

舗装もされていない道を病院まで猛スピードで走っていたその時、車が横転

武辺はすぐに病院に搬送されたものの手遅れだった

 

武辺寛則 急逝、まだ27歳の若さだった

武辺は志半ばにして短い人生に幕を閉じた

武辺という日本人のリーダーを失ってからも村人は武辺の遺志を継ぎ、

懸命にパイナップル栽培を続けた

そして武辺の死から半年後、念願のパイナップルが実った

しかも畑はそれまでの50倍以上の広さに

25年後、生産量は年間5000トン

パイナップルの収益で村の生活も向上した

ガーナで最も貧しいと言われた村は、今では電気も水道も完備された

 

村は武辺への感謝の気持ちを世代を超えて伝える為にパイナップルの石碑をたてた

石碑には“今は亡き 武辺寛則に捧ぐ…”と刻まれている

亡くなって25年経った今でも村人から彼への感謝の言葉が止まることが無い

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●ブータンで国葬された西岡京冶

1933年、医師の父と看護師長の母の家庭に生まれた

12歳の時、終戦

物が不足する日本で食べる物もなく貧しい生活を送った

高校卒業後、大阪府立大学 農学部へ進学

そこで専門的に研究することになったのが、ヒマラヤの農業

当時、未知なる秘境だったヒマラヤの農作物に興味を持ち、

卒業後もネパール学術探検隊に参加する活動を行っていた

 

1964年、ブータン政府から農業技術支援の要請を受ける

ブータンは高地で気候も厳しく国土の大変は山と谷で

田畑に使えるのは1割程度

そのため極めて低い農業自給率だった

それを知った西岡は、ブータンへ農業指導を行う派遣要請を快諾

 

31歳の時、妻:里子さんと共にブータンへ渡った

しかし農業指導するために政府から提供された土地はわずか60坪

さらに農業指導をするのは政府が集めた少年たち3人だけだった

当時、農業自給率が低かったブータンは農作物を収穫できる農地は貴重であり

研究用に貸すことが出来たのはわずかな土地のみ

成人男性は貴重な労働力とされ研究のためにさける人材は子供だけ

しかし西岡は、ブータンをおかれた厳しい状況を理解していたので

不満も一つもらさず受け入れた

成果を上げれば農業技術はブータンで受け入れられるはず

西岡はまず日本から持ってきた大根の種を蒔いた

それから3か月後、畑に出来上がったのは大きな大根

少年たちはその技術に驚き、歓喜した

その後、西岡の農業技術は評判となり取り巻く環境が起きく変わった

 

ある日、第3代ブータン国王は西岡を会食に招いた

「大根の種を私にくれませんか?大根を作ってみたいのです」

西岡の農業の成果を認めた国王は国として大根作りに乗り出したいと伝えた

国として農業支援に乗り出した国王は、それまでの400倍の農業試験場を与えた

その試験場でブータンにはなかった白菜、キャベツ、人参などの野菜を栽培

またブータンになかった日本式の稲作を開始

当時 ブータンの稲作は苗と苗の感覚がバラバラで収穫率が低かった

苗を同じ間隔で植え、収穫率が高い日本式の稲作を取り入れた

すると西岡の狙い通り収穫量が4割向上した

 

やがて試験場にはブータン各地から多くの役人が訪れ、

西岡の農業技術は役人が農民に教える事によりブータン中に広がっていった

 

ブータンに来て8年目の1972年、第3代国王が急逝し、

当時16歳だった皇太子が国王に即位した

若き国王から西岡はある相談を持ちかけられる

「あなたの手で忘れられた土地を救ってほしい」

忘れられた土地とは、ブータン南部にあるシェムガンという地域のこと

そこは首都から車で丸1日走り、険しい山道に入ってから徒歩で4日もかかる辺境の地

妻の里子さんは体調を崩したこともあり、シェムガンに連れて行くことは不可能

もちろん6歳と1歳にあんる子供たちも連れて行けない

西岡は大切な家族と離れ離れになってもブータンの為に働く事を決意

愛する家族を日本に帰し、忘れられた土地シェムガンへ向かった

そこは平地がほとんどなく荒れ果てた斜面ばかりで農業を行うのが困難な土地だった

そんな中、西岡の農業技術の指導が始まった

村人たちに焼き畑を止め、稲作に切り替えるように説得した

全く聞く耳を持たない村人たち…

西岡は農業技術を教える前に、村人たちが抱えている問題を解決し、

村人たちと信頼関係を築く事から取り組んだ

それから西岡は村が抱えた問題を一つずつ解決していった

繰り返し行った村人たちとの話し合いは5年間にわたり800回にも及んだ

そんな真摯な姿勢は村人たちの心を動かし、協力関係を築いた

 

そしてついに開墾が始まった

荒れた土地を切り開く事は困難を極めた

水田の水を引くため水路を作るのに竹を利用

366本の水路を作り、人や荷物を運ぶための吊り橋も17本作り上げた

また平行して学校や診療所も開設

そして、忘れられた土地は大きく姿を変えた

2年後、荒れ果てた土地に18万もの水田が生まれ、稲穂がたわわに実った

 

その後、西岡はよりブータンの気候に合うよう野菜の品種改良に取り組んだ

西岡がやって来るまでブータンになかった様々な野菜が市場に並ぶように

約60%だったブータンの食糧自給率は86%にまで上昇した

 

1992年、西岡は59歳で急逝 現在、日本では治療ができる肺血症が死因だった

西岡は国葬されブータン人5000人が参列した

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2013年、歌手:島倉千代子が惜しまれつつこの世を去った

昭和歌謡界の大スターだった島倉千代子

しかしそんな彼女の人生は不幸の連続だった

●堕胎

昭和30年、「♪この世の花」でデビューし200万枚の大ヒット

NHK紅白歌合戦には昭和32年から30年連続出場

昭和38年、人気絶頂だった島倉は結婚

相手は当時活躍していた阪神タイガースの藤本勝巳

結婚して程なく藤本は引退し、キャバレークラブを開店

店の経営は全くの素人…赤字が膨らんでいった

そんな苦しい生活の中、島倉は妊娠

アイドル的な存在だった島倉が出産することは、引退を意味した

歌えなければ生活も支えられない…苦悩の末、堕胎する道を選んだ

その後、次第に藤本とも上手くいかなくなり昭和43年に離婚

夫が作った6000万円もの借金を背負った

●16億円の借金

ある日、島倉は事故に遭い失明寸前の大ケガをした

そのケガから救ってくれた眼科医に、いつしか恋心を抱くように

間もなく2人は交際を始めるが、

交際相手からビル建設事業のための資金援助を持ちかけられる

島倉は相手を信じ、多額の資金を援助

さらに島倉は相手に実印を渡してしまう

数か月後、男性は忽然と姿を消し、一切の連絡が取れなくなった

そして島倉の元に残ったのは男性が島倉の名義で作った16億円の借金

現在の価値に換算すると58億円に相当

●死の直前に遺した島倉千代子の最後の歌声

2010年、肝臓ガンを発症

実は長い間、C型肝炎を抱えており、本来は手術が必要だったが、

メスを入れると歌に影響を及ぼす可能性があり、手術は行わなかった

手術をしない選択をした事で病は進行、肝臓ガンを発症した

3年後、病状は末期まで進行

残された時間で何ができるのか?ある決断をする

(死ぬ前に新曲を歌いたい)

島倉は尊敬する南こうせつに新曲を依頼

2013年6月、南こうせつが病床を訪れ、

未完成ながらも新曲のワンフレーズを聞かせた

「この歌は絶対にお蔵入りさせたくないからよろしくお願いします」

レコーディングは半年後の11月15日に決まった

(この歌を歌うまでは死ねない)

ガンと闘いながらも病床で新曲の練習を欠かせなかった

(絶対にレコーディングの日まで生き抜く)

しかし、レコーディングの2週間前、南こうせつの元に島倉から電話が…

「レコーディングを早めてください。私の声が15日まで持たない…」

2013年11月5日、新曲のレコーディングが島倉の自宅で行われた

それは病気を微塵も感じさせない魂のこもった歌声だった

(最後に最高の歌を遺したい)

こうして最後の新曲「♪からたちの小径」は完成した

2013年11月8日、島倉千代子はその生涯を全うした

葬儀で島倉の最後の肉声が初めて公にされた

「私の部屋の中にスタジオが出来て、私は出来る限りの声で歌いました。自分の人生の最後に歌を入れられるってこんな幸せはありません。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」

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タカトシの涙が止まらナイトで紹介された妻の遺影と旅行する男性の話

 

キャビンアテンダントして15年…私には忘れられない出来事があります

それは成田発、カナダのバンクーバーに向かう機内での事

客室乗務員として乗務していた私は、

何とも言えない寂しそうな顔をしたお客様のことが気になりました

体調でも悪いのか、確認のため私は座席に向かいました

 

その男性の座席の隣には、女性の遺影が…

 

実は家内なんですよ…

結婚30年の記念に初めて女房を

海外旅行に連れて行ってあげる約束をしてたんですが…

旅行の1か月前に…突然 脳内出血で亡くなってしまって…

 

旅行を本当に楽しみにしていた、お母さんを旅行に連れて行ってあげて、

と娘に諭され、男性は妻の遺影を持ち込みこの飛行機に乗り込んだ

さらに、席の隣にお母さん以外の人が座ったら、お母さんやきもち焼くと思う

横の席 買ってでもいいからお母さんの席を作ってあげて

 

出発の時にお前が待ち望んでいた海外旅行に連れて行ってやるぞ

と声をかけたんですが…返事が無いのがこんなに寂しいとは思わなかったです

 

あの寂しそうな顔は返事がないことの寂しさを痛感した瞬間の顔だったのです

私はこの人のために何ができるだろう、と考えました

「奥様がここに居られましたら何をお飲みになりましたか?」

「赤ワインが好きな女房でした」

「承知いたしました」と、奥様の分も赤ワインをご用意しました

この夫婦のために一体 何が出来るのか?

話を聞いた他の客室乗務員は、夫婦が少しでも旅を楽しんでもらいたいと、

飛行機の中にある花を全て集めて奥様の遺影の前に贈ったのです

 

「本当に良い旅行になりました。女房も喜んでいると思います」

「いってらっしゃいませ」

あの後姿を私は一生忘れる事はありません

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