●ある高校の先生が作った感動するテスト

 

テストを作成したのは静岡県立 静岡商業高校の澤井一博 先生

 

卒業を控える生徒たちにとって高校生活 最後となるテストだった

「答えをしっかり確かめなさいよ」

それだけ生徒に伝え、澤井先生は教室を出た

 

25問もの選択問題が出題されていたのだが、生徒はある事に気付く

 

問題を全て解き終え、答えを確認した生徒の顔が皆、思わず笑顔に包まれた

 

1、ゆ 2、め 3、と 4、き 5、ぼ 6、う 7、を

8、も 9、つ 10、て

11、が 12、ん 13、ば 14、れ 15、よ

16、さ 17、よ 18、う 19、な 20、ら

21、ま 22、た 23、あ 24、お 25、う

 

解答をつなげるとメッセージになっていた

卒業して社会へと巣立つ教え子へのエール

 

「頑張れよという思いが、どうすれば生徒に伝わるか」

 

教師になって38年間、澤井先生は

3年生最後のテストで必ずこうしたメッセージを送っている

 

40人のクラスで1割ぐらいは間違うため、メッセージが伝わらないという

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●耳の聞こえない彼女の夢を叶えた彼の愛

1977年、山形県米沢市に生まれた清美さん

清美さんは生まれながらにして重度の難聴、そのレベルは1種2級

人が話す言葉や音楽は聞き取れない

しかし母の猛特訓により幼稚園に上がる頃には、

人の口元を見て言葉を読み取れるように…

小学生になった清美さんはテレビに釘付け

視線の先は松田聖子

歌声は聞こえなくても松田聖子は輝いていた

私も歌を歌いたい、でも耳が聞こえない清美さんには歌うことなどできない

高校を卒業し就職

 

2002年6月、清美さんは北千住の駅前で

一人のストリートミュージシャンと出逢う

耳の聞こえない清美さんに不思議なことが…

目の前で歌う彼の声が清美さんの体を震わせた

そして“私は耳が聞こえませんが今度隣で手歌で歌の表現をさせて下さい”

と手紙を渡した

清美さんの強い想いに動かされ、申し入れは受け入れられることに

彼の名前は佐々木厚

2人は北千住の駅前で路上ライブをやる事に…

厚さんは歌を、清美さんは手話でサインボーカルを

何度も路上ライブを重ねていく中で、

清美さんはやっぱり歌姫になりたい、あの夢が甦る

その想いを聞いた厚さんは清美さんの夢を叶えるための詩を書いた

曲の名は「キセキ」

耳の聞こえない清美さんには音程を取ることなど不可能

何度も何度も繰り返し間隔だけで音程を覚えるしかない

3ヵ月間、猛特訓が続き2002年9月、ついに念願の初ライブの時がやって来た

しかし上手く音程を取る事は出来なかった

彼女は限界を感じていた…

しかしそんな時、厚さんがかけたのは前向きな言葉ばかり

厚さんは決して諦めようとはしなかった

どんなに時間がかかってもいい、2人で奇跡を起こそうと誓った

 

2003年、2人の夢だったレコーディングが実現

レコーディングは簡単にはいかなかったが、厚さんは諦めない

清美さんの傍でずっと励まし続けた

そして2004年11月、「♪キセキ」でメジャーデビューを果たした

 

しかし音楽の世界は甘くはなかった

徐々に仕事も減り、厚さんはバイトをしながら地道に活動を続ける事に…

 

気付けば9年の時が過ぎていた

清美さんの歌の活動も少なくなり、2人が会う事はなくなっていった

会わなかった空白の時間が、清美さんは厚さんが、

厚さんは清美さんが、1番大切な人だと気付かせてくれた

出会って12年、長い時間がかかったが2人は結ばれることに

結婚式に向けた清美さんは生まれて初めて歌詞を書いた

自分の夢の実現のために常に傍で励まし続けてくれた厚さんに感謝の気持ちを込めて

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地球上で最も広いサハラ砂漠

●たった1人で砂漠を森に変えた男:ヤクーバ・サワドゴ

絶え間ない干ばつと飢饉…

広がり続ける砂漠から非難する人が後を絶たない

そんな場所にある小さな国:ブルキナファソ

今から50年前、当時7歳のヤクーバは、

家族の元を離れ寄宿制の学校に通っていた

卒業後は機械の部品を売る店を開いた

1908年ごろ、ヤクーバの故郷:ゴルマ村は、干ばつにより深刻な食糧難に

そのためもっと肥沃な土地を求め、移住していく人が後を絶たなかった

村民の1/4が村を捨てた

村のピンチにヤクーバは店をたたみ、故郷へ戻る事を決意

故郷に帰るとそこは荒れ果てた土地に変わっていた

ヤクーバは一人、村の土地を耕した

この地域には古くからの伝統的な農法があった

それは雨期直前のある決められた日に小さな穴を掘って種を植えるというもの

しかし、この方法を試しても状況は変わらなかった

そこでヤクーバは、皆が休んでいる乾期の時期から、

大きな穴をたくさん掘り、

その中に動物の糞など堆肥を入れる方法を試した

さらにシロアリを農地に放し、

巣を作らせることで土を柔らかくする方法も取り入れた

雨期が来るまでの間、一人この作業に明け暮れた

これまで雨水は硬い土の上をあっという間に流れていくだけだった

そこで石を並べ低い堤防を作り、雨水をせき止めてしまえば、

ゆっくりと土に吸収させることが出来ると考えた

自分が信じたやり方で一人荒れた土地を耕し続けるヤクーバ

すると耕した穴から植物が育ち、多くの農作物を収穫することが出来た

この農法はザイ農法と呼ばれ、

ヤクーバは村のために来る日も来る日も耕し続けた

その姿はいつしか村人の心をうち、賛同者が現れ、

規模は次第に大きくなっていく

仲間が増えヤクーバはザイ農法を使い、

砂漠に種を植えて木を生やそうと試みた

すると数年後、サッカーグラウンド12面分もの広大な緑地ができた

ヤクーバは木が一本も生えていなかった砂漠に森を作る事に成功した

1990年、再び大規模な干ばつに襲われたのだが、

作物を収穫できたのはザイ農法を取り入れた土地だけだった

20年余りの歳月をかけてヤクーバが砂漠に作った緑地は、

サッカーグラウンド30面分にまで広がっていた

そんなある日、ゴルマ村近くの町を拡張する国の計画が持ち上がり、

ヤクーバが必死に開拓してきたのうちヤモリが潰されることとなった

そこへヤクーバが砂漠に森を作ったニュースが世界に届いた

貧困地域支援団体オックスファムから

ザイ農法について話してほしいとアメリカに招待された

そこには多くのNGOスタッフや政府関係者の姿が…

彼はアメリカの様々な場所で体験談を語り大成功を収めた

ヤクーバの試みが世界に認められたのか、

都市拡張計画が変更され農地や森は潰されない事になった

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

中国全土が涙した奇跡

●母の車いすを押した3300キロの旅

北京で母親と一匹の犬と暮らすハン・モウさん(26歳)

仕事では失敗続き、さらに4年間付き合っていた彼女にもフラれ、失意のどん底にいた

しかし塞ぎこんでいても仕方がない、そう思ったハンさんは旅行に行くことにした

母親のコウ・ビンクンさんは、幼い頃、小児マヒを患い足に障害が残っていた

さらに心臓に持病を抱え、飛行機や車での長距離移動も出来なかった

そのため彼女は生まれてから一度も旅行に行ったことがなかった

そんな彼女が、一度は行ってみたいと思っていたのが、中国南部のシーサンパンナ

タイ族などの少数民族が独自の文化を築き、

暖かい気候と美しい自然に溢れた観光地

ハンさんは母親を連れてシーサンパンナまで旅をする事に…

旅の目的を傷心旅行から母へ捧げる親孝行の旅へと変えた

登山リュック、テント、寝袋などをはじめ合計150キロの荷物を用意した

北京からシーサンパンナまでは3000キロ以上

飛行機や長距離バスに乗れない母のために車いすを押し、歩いて旅行する事にした

2012年7月11日、果てしない旅がスタートした

母と愛犬、そして150キロの荷物を車いすに乗せて

水や食料は必要な分だけを買い込み、無くなるたびに補給

夜は宿泊施設が無ければ道端にテントを張って野宿した

7月14日、3日間ずっと押し続けたハンさんの靴下は破れ、

足にはいくつものマメができていた

 

1959年、ハルピン市に生まれた母が北京に引っ越したのは2歳の時

ほどなくして小児マヒにより杖がなくては歩けない体になってしまった

そんな彼女を慰めようと父親が見せてくれたのが、

シーサンパンナのお祭りを撮影した映像だった

その美しい光景に目を奪われた

シーサンパンナは、いつしか彼女の中で憧れの地となっていた

 

旅を始めてから1月ほどするとハンさんの肉体は逞しく成長

1日に進む距離もどんどん上がっていった

車いすのタイヤは穴が開くたびに修理し、擦り減ったら予備のタイヤに付け替えて進んだ

9月24日、サーサンパンナまで730キロ

険しい山道の連続に車いすの車輪が壊れてしまった

あたりに人が住んでいる気配はなく予備のタイヤも底を尽いていた

何度か修理を試みたが、これ以上車いすで進むことが出来ないのは明らかだった

旅を諦めるしかない、と思ったその時、

見ず知らずの人が新品の車いすを持って現れた

「書き込みを見てるよ」

実はハンさんは道中の様子を中国版ツイッター(ウエイボー)に書き込んでいた

そして車いすが壊れた事も…

ハンさんの書き込みを見た多くの人が

彼の途方もない親孝行の旅に大きな共感を寄せていた

そして、すぐさま車いすを持って駆け付けてくれた

親と子が思いやる気持ちは次第に多くの人の心を動かし、

やがて水や食料、着替えなど、旅に必要な物を届けてくれる人たちが次々と現れた

気付けばたくさんのボランティアに囲まれながらシーサンパンナを目指していた

そして数々の困難を乗り越え出発から100日後の2012年10月18日、

親子はシーサンパンナに到着した

現地の人は親子を心から祝福

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解決!ナイナイアンサーで紹介

双子のオネエキャラとして活躍する広海・深海

●双子の広海・深海を育ててくれた祖母の愛情

1989年11月、三重県伊勢志摩で生まれた広海・深海

幼い頃から祖父母に育てられた2人

生後間もなくして父が失踪、そして後を追うように母も蒸発

当時、祖父は伊勢海老漁で使う網を直す職人、祖母は海女さんとして働いていた

住んでいたのは総トタン小屋の家

度々電気は止められ、仏壇用のロウソクで過ごす事もしばしば

冬は灯油も買えず暖房器具は使えない、寒さで寝付けない時はセーターを重ね着した

さらにお風呂はガス代が払えずお湯が沸かせなかったため、冬でも水だった

たとえ両親がいない貧しい生活でも道を踏み外さなかったのは、

「笑われる前に笑ったれ」命を懸けて2人を守ってくれた祖母がいたから

困窮した生活のため、親戚たちの間で2人を施設に入れようとおいう話も出た

しかし「私が2人を育てます。あんた達は黙っていなさい」

と親戚中の反対を押し切った

学校行事の時の弁当は、知り合いの店の売れなくなったおにぎりや弁当を譲り受けた物

たとえ貧しくても、隣に祖母の笑顔があったから幸せだった

2人の給食費は、祖母が働く浜の駐車場のバイト代で払っていた

滞っていたので貰ったばかりの給料を、その場で先生に渡していたという

 

中学を卒業すると生活費を稼ぐ為、大阪で仕事をするようになった2人

祖母は毎晩のように電話をかけてきてくれた…

その後、東京に出て芸能界で少しずつ活躍し始めた

日課となった祖母との電話は欠かす事はなかった

しかし、東京での生活が忙しく付き合いも増え、徐々に着信を無視する事も

毎日かかってくる祖母からの電話をないがしろするようになっていたある日…

祖母がガン宣告され余命が半年であることを知らされる

その知らせからわずか2日後、祖母は末期ガンのため他界

2人はその最後を看取る事ができなかった

あの電話に出ていれば…2人は取り返せぬ後悔が残った…

2人は時間を見つけては祖母の墓前で

「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返しているという

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