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●ノブコブ吉村が今も悔やむ祖母への最後の言葉

6歳の時に両親が離婚

その後、母の代わりに吉村を育ててくれたのが、祖母だった

朝昼晩の食事、掃除などの家事

そして身の回りの世話など、吉村の身の回りの世話全てを支えた

そんなある日、幼き吉村が食い入るように見ていたのが、テレビに映る電車

「ちょっとお出かけしようか?」「どこに?」

祖母が連れていってくれたのは、すぐ近くに電車が見える場所

吉村の願いを何でも叶えてくれた祖母が作る料理は、煮物や焼き魚など

友人の家で食べたビーフシチューの方がいい、と愚痴を言うと、

翌日 祖母は作り慣れない洋食のビーフシチューを作ってくれた

祖母の願いは吉村の笑顔、それだけだった

しかし年を重ねるにつれてそんな祖母との関係に変化が訪れる

父親が仕事で来れない代わりに授業参観には必ず祖母が来てくれたのだが…

友人にイジられ吉村にとっては恥ずかしかっただけだった

思春期の吉村少年にとって祖母は疎ましい存在になっていった

 

そして1999年、19歳の時、芸人になるため上京を決意し、北海道を旅立つ日

父と別れの挨拶を交わすと「崇 これを持っていきなよ」

「ばあちゃんそんな毛布いらないよ」

「だって小さい頃からこれがないと寝付きが悪かっただろ!」

それは吉村が幼い頃から使い続けている毛布だった

まだ子ども扱いされている事への苛立ちなのかもしれない

苛立つ吉村の口からつい出てしまった言葉が

「もういい加減にしろよ!俺は ばあちゃんが嫌いだから東京に行くんだよ!」

そのまま飛び出した

本当は「おばあちゃん育ててくれてありがとう」と素直に言いたかった

つい行ってしまった言葉が大きなしこりを生んでしまう

上京して間もなく留守電に入っていたのは、父からのメッセージだった

「もしもし父さんだけど…あのなさっきばあちゃんが亡くなった」

吉村は泣きながら膝から崩れ落ちた

 

母と生き別れたノブコブ吉村の苦悩

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2013年、歌手:島倉千代子が惜しまれつつこの世を去った

昭和歌謡界の大スターだった島倉千代子

しかしそんな彼女の人生は不幸の連続だった

●堕胎

昭和30年、「♪この世の花」でデビューし200万枚の大ヒット

NHK紅白歌合戦には昭和32年から30年連続出場

昭和38年、人気絶頂だった島倉は結婚

相手は当時活躍していた阪神タイガースの藤本勝巳

結婚して程なく藤本は引退し、キャバレークラブを開店

店の経営は全くの素人…赤字が膨らんでいった

そんな苦しい生活の中、島倉は妊娠

アイドル的な存在だった島倉が出産することは、引退を意味した

歌えなければ生活も支えられない…苦悩の末、堕胎する道を選んだ

その後、次第に藤本とも上手くいかなくなり昭和43年に離婚

夫が作った6000万円もの借金を背負った

●16億円の借金

ある日、島倉は事故に遭い失明寸前の大ケガをした

そのケガから救ってくれた眼科医に、いつしか恋心を抱くように

間もなく2人は交際を始めるが、

交際相手からビル建設事業のための資金援助を持ちかけられる

島倉は相手を信じ、多額の資金を援助

さらに島倉は相手に実印を渡してしまう

数か月後、男性は忽然と姿を消し、一切の連絡が取れなくなった

そして島倉の元に残ったのは男性が島倉の名義で作った16億円の借金

現在の価値に換算すると58億円に相当

●死の直前に遺した島倉千代子の最後の歌声

2010年、肝臓ガンを発症

実は長い間、C型肝炎を抱えており、本来は手術が必要だったが、

メスを入れると歌に影響を及ぼす可能性があり、手術は行わなかった

手術をしない選択をした事で病は進行、肝臓ガンを発症した

3年後、病状は末期まで進行

残された時間で何ができるのか?ある決断をする

(死ぬ前に新曲を歌いたい)

島倉は尊敬する南こうせつに新曲を依頼

2013年6月、南こうせつが病床を訪れ、

未完成ながらも新曲のワンフレーズを聞かせた

「この歌は絶対にお蔵入りさせたくないからよろしくお願いします」

レコーディングは半年後の11月15日に決まった

(この歌を歌うまでは死ねない)

ガンと闘いながらも病床で新曲の練習を欠かせなかった

(絶対にレコーディングの日まで生き抜く)

しかし、レコーディングの2週間前、南こうせつの元に島倉から電話が…

「レコーディングを早めてください。私の声が15日まで持たない…」

2013年11月5日、新曲のレコーディングが島倉の自宅で行われた

それは病気を微塵も感じさせない魂のこもった歌声だった

(最後に最高の歌を遺したい)

こうして最後の新曲「♪からたちの小径」は完成した

2013年11月8日、島倉千代子はその生涯を全うした

葬儀で島倉の最後の肉声が初めて公にされた

「私の部屋の中にスタジオが出来て、私は出来る限りの声で歌いました。自分の人生の最後に歌を入れられるってこんな幸せはありません。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」

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双子のオネエキャラとして活躍する広海・深海

●双子の広海・深海を育ててくれた祖母の愛情

1989年11月、三重県伊勢志摩で生まれた広海・深海

幼い頃から祖父母に育てられた2人

生後間もなくして父が失踪、そして後を追うように母も蒸発

当時、祖父は伊勢海老漁で使う網を直す職人、祖母は海女さんとして働いていた

住んでいたのは総トタン小屋の家

度々電気は止められ、仏壇用のロウソクで過ごす事もしばしば

冬は灯油も買えず暖房器具は使えない、寒さで寝付けない時はセーターを重ね着した

さらにお風呂はガス代が払えずお湯が沸かせなかったため、冬でも水だった

たとえ両親がいない貧しい生活でも道を踏み外さなかったのは、

「笑われる前に笑ったれ」命を懸けて2人を守ってくれた祖母がいたから

困窮した生活のため、親戚たちの間で2人を施設に入れようとおいう話も出た

しかし「私が2人を育てます。あんた達は黙っていなさい」

と親戚中の反対を押し切った

学校行事の時の弁当は、知り合いの店の売れなくなったおにぎりや弁当を譲り受けた物

たとえ貧しくても、隣に祖母の笑顔があったから幸せだった

2人の給食費は、祖母が働く浜の駐車場のバイト代で払っていた

滞っていたので貰ったばかりの給料を、その場で先生に渡していたという

 

中学を卒業すると生活費を稼ぐ為、大阪で仕事をするようになった2人

祖母は毎晩のように電話をかけてきてくれた…

その後、東京に出て芸能界で少しずつ活躍し始めた

日課となった祖母との電話は欠かす事はなかった

しかし、東京での生活が忙しく付き合いも増え、徐々に着信を無視する事も

毎日かかってくる祖母からの電話をないがしろするようになっていたある日…

祖母がガン宣告され余命が半年であることを知らされる

その知らせからわずか2日後、祖母は末期ガンのため他界

2人はその最後を看取る事ができなかった

あの電話に出ていれば…2人は取り返せぬ後悔が残った…

2人は時間を見つけては祖母の墓前で

「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返しているという

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●母と生き別れたノブコブ吉村

お笑い芸人:平成ノブシコブシ吉村崇

1980年、北海道札幌市で飲食店を営む父と母の間に生まれた

そして6歳の時、吉村が「保育園を休む」と言ったのをきっかけに両親が喧嘩

「崇、お父さんとお母さんちょっと大事な話があるからちょっと表に出ていなさい」

数十分後、家に戻ると1人で泣いている父の姿が…

すでに母親はいなかったので、

離婚のきっかけは自分にあると思っていた

数日後、父の実家へ引っ越した吉村は祖父母と共に暮らすことに

後日、吉村が出て行った後、両親は離婚の話をしていた事を、

母は自分を残して離婚を選択した事を祖母から聞いた

友人には高校入学まで母がいない事を言えなかった…

あれから6年後マラソンの練習をすると行って向かった先は、

離婚した後、生計を立てるため母が営んでいた喫茶店「窓硝子」

6年ぶりの再会だった

マラソンの練習と偽り、毎日のように母に会いに来た

そんなある日、母の住む部屋に招き入れてくれた

そこには幼い吉村の写真が飾られていた

母は今でも自分の事を愛してくれている…そう確信した吉村は、

「お願いがあるんだ。もう一回うちに戻って来てよ」

6年間抱え続けた思いを吐き出した

「崇の事は愛しているけどお父さんの事は愛してないの…ごめんね…」

と言われたのがきっかけで、吉村は母の喫茶店へは行かなくなった

そして19歳の時、札幌へ帰った吉村は母親の喫茶店へ訪れた

7年ぶりの母との再会、12歳の時と同じ席…そして、

「お祖母ちゃんが死んだよ。それだけ言いに来た」

吉村が母を訪ねたのは祖母の死を伝えるためだった

母が知らない自分を育ててくれたのは祖母、

その死を母にどうしても伝えたかった

「ちょっと待って。これ持って行きなさい」と2万円を手渡された

母と会ったのは17年前のこの日が最後…

吉村は今も母がくれた2万円は大切に持っている

 

ノブコブ吉村が今も悔やむ祖母への最後の言葉

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