天才棋士:村山聖

 

将棋界の帝王:羽生善治いわく

「誰も気づかないような意外性のある手を指せる棋士」

彼は生前、羽生善治の最大のライバルと呼ばれた

 

●病と闘い 29歳で燃え尽きた天才棋士:村山聖

1969年6月15日、広島に生まれた

5歳の時、原因不明の高熱の襲われる

「ネフローゼ症候群という病気にかかっています」

当時はネフローゼ症候群を完治できる治療法が無かった

発見が遅れ、病を進行させたのは自分だと、母は負い目を感じた

その後、村山は病院と療養所の入退院を繰り返した

 

ネフローゼ症候群は、

尿と共にタンパク質まで排出されてしまい体のむくみが生じる

むくみがあるうちは塩分を控えるなどの食事制限が必要となる

 

病院内で授業を受ける院内学級に通う

外で遊ぶことも好きなモノを食べる事も出来ない生活が続いた

 

1975年、父親から将棋盤と駒をプレゼントされた

すると悩める少年の心を一瞬で虜にした

夜はスタンドの明かりを頼りに寝る間を惜しんで将棋に打ち込む

1980年8月25日、中国地区 子供名人戦で優勝

中学に上がる頃には、もはやまわりに敵はなし

少年は自分の居場所を見つけた

 

1982年、「将棋の奨励会に入りたい。プロの将棋指しになりたい」

息子の告白に困惑する両親

「お前の気持ちはよくわかるが、親として賛成はできない」

13歳、病を抱えた息子を旅立たせる事に両親は反対した

すると「俺には時間がないんだ…今しかないんだ、お願いします」

村山は単身 大阪へ、プロ棋士:森信雄の内弟子となった

1986年、奨励会入会からわずか3年でプロ棋士になった

1995年、破竹の勢いで勝ち星を重ね、

9年後には将棋界のトップ10人が在籍するA級八段に昇りつめた

「ぼくにはね夢が2つあるんだ。1つは名人になって将棋を辞めてのんびり暮らすこと。もう1つは素敵な恋をして結婚し子どもをつくること」

いつしか自ら解禁してしまった酒、食べ物、

充実した日々の代償は すぐそこまで迫っていた

病を患う村山にとって一回の対局にかかる体の負担は大きかった

対局が終わると決まって高熱を出し、

そのたびに広島にいる母親を大阪まで呼んだ

 

1997年、膀胱がんを発症、手術を受けなければ余命6ヶ月と宣告

8時間半に及ぶ大手術を受けて膀胱を全摘出

 

村山は手術からわずか1ヵ月で復帰し、連勝街道を驀進

名人への挑戦権が得られるA級へ再び返り咲いた

そんな村山に立ちはだかったのが、羽生善治

それまでの対戦成績は6勝6敗

村山は羽生とのNHK杯の決勝戦まで勝ち進んだ

 

1998年、がんが再発、そして村山は大一番に挑む

2月28日、宿敵:羽生善治との最後の戦い

がんの再発は世間にひた隠していた

序盤から村山優勢、鬼気迫る村山に押された

村山が夢に手をかけたと思われたその時、

村山の慌てて指した一手が痛恨のミス

そして…「参りました」村山は敗北した

これが羽生との最後の対局となった

 

1998年8月8日、村山は29歳でこの世を去った

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1972年、長野県軽井沢

銀行や猟銃店を襲撃するなど数々の凶悪事件を起こしていた連合赤軍

警察に追われたメンバー5名が長野の山中へ逃亡

追い詰められたまたま逃げ込んだ場所があさま山荘だった 断崖絶壁に建つあさま山荘は外部から侵入しづらく

さらに食料も豊富、犯人が立てこもるには最適な場所だった

人質は山荘の管理人の妻

犯人はまわりと取り囲む警官たちに発砲

その結果、死者3名、負傷者27名という甚大な被害をもたらした

警察は殺傷能力のない催涙弾や放水で対抗

現場に、犯人は殺さずに捕まえろ、という指令が出ていたため

殺してしまうと犯人たちを英雄扱いにする人が現れ、

反政府運動の後押しする事になる

 

犯人と警察の膠着状態を破ったのは前代未聞の鉄球作戦だった

鉄球を捜査していたのは、地元に住む民間人の白田兄弟

警察でもない彼らが銃弾が飛び交う最前線へと送られ、

命がけで鉄球を振った

 

●あさま山荘事件で鉄球作戦を命がけで実行した民間人:白田兄弟

 

白田兄弟の父は重機運搬会社:白田組を経営

正義感の強い父の教えは「悪い奴には絶対に屈するな」

21歳の時に兄:弘行は妻:澄江と結婚

同じ日同じ場所で弘行の妹も式を挙げた

五郎は弘行の義理の弟になった

2人は最高の相棒として様々な現場で共に汗を流した

 

1972年2月19日、あさま山荘事件が勃発

テレビでは連日 山荘の様子が生中継されていた

犯人への憤りを感じながらもテレビで見守ることしかできない

事件発生から5日目、電話が鳴った

「私 長野県警の者なのですが…」鉄球作戦の依頼だった

実は それまで長野県警は何件もの業者に鉄球作戦を依頼していた

その全ての会社が依頼を拒否

何故なら連合赤軍から報復される恐れがあったから

もし警察に協力すれば自分だけでなく家族にも危険が及ぶかもしれない

だが正義感が強い弘行は、依頼を受けた

 

当時のクレーン車は運転席と

クレーン操縦席が分かれていたため一人では作業が出来ない

五郎は二つ返事で兄の願いを受け入れた

 

当時、警察は人質となった管理人の妻が2階に監禁されていると推測

犯人を3階へひきつけている間に人質と分断させる計画を立てた

そこで山荘の2階と3階を繋ぐ階段を鉄球で破壊しようと考えた

しかし階段階段の両脇には山荘を支える大きな柱があり、

間違って柱を壊してしまえば山荘自体が崩れてしまう恐れがあった

許された誤差はたったの20㎝

さらにクレーン車を配置する場所は、銃で狙われやすい位置だった

 

白田兄弟は2日間でクレーン車を防弾仕様に改造

運転席に鉄板を溶接し、のぞき窓には防弾ガラスをはめ込んだ

 

決戦前夜、一升瓶を片手に白田兄弟のもとを訪れたのは、

当時の長野県警のトップ:野中庸 警視監だった

作戦の責任者だった野中は手土産を持って自ら訪ねてきた

民間人を最前線へ送り込む事への強い責任を感じていた

「お二人を1日警察官に任命する」

 

1972年2月28日、犯人に民間人だとバレないように警官と同じ服装で参加

午前10時、突入を開始

 

午前10時22分、ついに白田兄弟に出動命令が下された

クレーン車を駐車させたその時、弘行の目の前の防弾ガラスに銃弾が命中

白田兄弟はためらわず作戦を着実に進めていく

ついに1発目の1.7トンの鉄球は見事 階段部分に命中

そんな弘行の目の前では、第二機動隊の内田隊長が撃たれ、殉職

奮い立った白田兄弟は怒りの鉄球を何度も打ちつけ、山荘の屋根を破壊

徐々に犯人たちを無力化していった

午後6時20分、犯人5名を逮捕、人質も無事に救助された

 

白田兄弟の活躍は、その後30年間も世間に公表されなかった

連合赤軍からの報復を避けるための警察の配慮

2人も誰にも口外しなかった

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その日本人は、野内与吉

1895年11月18日、福島県安達郡大玉村の裕福な農家に生まれ育った

与吉は21歳の時、日本人移民としてペルーへ渡った

当時、ペルー国内の大木を伐採して外国に輸出する仕事に携わった

材木商として技術と知識を身に付けた与吉は、

マチュピチュ周辺のジャングルに目をつけていた

1911年、、アメリカの考古学者:ハイラム・ビンラムが

ジャングルに埋もれ廃墟と化していたマチュピチュを見つけてから

12年後の1923年、鉄道が通り、幻の都への道が開けた頃だった

そこはわずか4家族の先住民だけが暮らしていた集落があった

 

前向きな与吉は、人が何かしてくれるのを待つような性格ではなかった

村人は川から水を汲んで飲んでいたが、

与吉が山の中腹にあった湧き水から水路を通してキレイな水を分け与えた

 

ある日、大木が倒れた拍子に大きな穴が開いて温泉が湧いてきた

与吉は石で囲って入れるように整備して村人に開放した

その温泉は現在、遺跡以外の重要な観光名所として観光客を招いている

 

遺跡と温泉で多くの客を見込んだ与吉は、

1935年 村で初めてとなる木造3階建てのホテルノウチを自らの手で建設

しかも1階は、郵便局や交番として使えるよう村に提供していた

さらに村人と共にダムを造り、

水の力を利用して大きなタービンを回して発電させた

与吉が作った発電機は、いまは役目を終え解体されたが、

発電に使ったタービンは広場に展示されている

 

マチュピチュに来て18年、与吉は誰もが信頼する存在になっていた

灯りがともる村の噂を聞きつけ、徐々に住民も増えていった

 

1941年、太平洋戦争が勃発

その影響な南米にも拡大、当時 連合国側であったペルーは

日本人移民を捕えて次々とアメリカの強制収容所へ送った

ペルー政府は、与吉の下にも憲兵を派遣した

村人は身を挺して憲兵から与吉を守った

 

1947年、記録的な大雨が発生、村を土石流が襲った

与吉は塞ぎがちな村人励まし続けた

村に尽くした与吉は次の世代にバトンを渡すと、

晩年はクスコで子供たちと余生を過ごした

 

1958年、三笠宮殿下がマチュピチュを訪問した際、

与吉の娘が父の事を話し、

その存在が日本にいる与吉の親族に伝えられた

野内家の人達は10年かけて100万円を集めると

そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開いた

 

1969年、家族と200人の村人が見守る中、ペルーに骨をうずめた

 

野内与吉の最初の妻との息子:ホセ野内は 村でホテルを経営している

父の後を受け継ぐように村長も務めた

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岡山県 アーヴェリール迎賓館の

ウェディングプランナー:久保田藍には忘れられない結婚式がある

2014年6月、別の結婚式場から移動してきた久保田さんが

顧客ファイルを整理していた時のこと

2007年3月11日、西澤尚志様 麻衣様と書かれた古いファイルを見つけた

それから1ヶ月後の2014年7月、久保田さんのもとに一本の電話が入った

 

新郎:西澤尚志さん、新婦:中原麻衣さん

 

2人が出会ったのは2004年、友人の紹介で知り合い、交際がスタート

2006年7月1日、2年目の交際記念日に2人は結婚を決めた

2007年3月11日に結婚式を挙げるため、2人は式場を予約した

 

しかし2006年12月、それは突然 襲ってきた

麻衣さんは突然 記憶を喪失、

夜になると何かに憑りつかれたかのように叫び続けた

原因が分からないまま精神科に入院

入院3日目、麻衣さんは突然 心静止を起こし、大学病院に緊急搬送された

人工呼吸器で心臓は何とか動いているが、

脳が眠っていていつ意識が戻るか分からない状態

さらに意識がないにもかかわらず体が勝手に動き痙攣発作を起こした

 

「結婚式は保留ってことで…いえキャンセルはしません。必ず結婚式はします」

 

意識不明の状態が何か月も続いた

それでも尚志さんは会社勤めの傍ら、

平日は出勤前の1時間、休みの日は1日3度 麻衣さんのもとを訪ねた

寝たきりで硬直している手足の筋肉をマッサージでほぐし、

耳からの刺激が脳に良い影響を与えるのではと、

麻衣さんが好きな曲を聴かせるなど献身的に付き添った

 

入院から5か月、ついに病名が判明、卵巣奇形腫による辺縁系脳炎

そもそもの原因は卵巣にできた腫瘍

異物を排除しようと体が作った抗体が何らかの異常により脳を刺激

その結果、記憶障害、幻覚、運動麻痺など様々な症状を引き起こす恐ろしい病気だった

2007年5月17日、卵巣腫瘍の摘出手術が行われた

それでも尚志さんは毎日 看病を続けた

麻衣さんが意識を失ってから1年が経った頃、麻衣さんの母親から

「もう別の人 探していいから」

「それどういう意味ですか?」

「麻衣はもう治るかどうかも分からない、そんな麻衣の為にあなたの人生を犠牲にしてほしくないの」

「嫌です。僕はもう一度枚の笑顔が見たいんです。お願いします。麻衣のそばにいさせてください」

 

入院から529日目、長い眠りから目を覚ました

しかしカメラを向けても目で追うだけ、

話しかけても返事が返ってこない、意思の疎通は出来なかった

それでも尚志さんは病院へ通う事を決して止めなかった

 

そして入院から3年経った頃、いつものようにマッサージをしていると

表情を失っていた麻衣さんが笑った

立ち上がる事は出来なかったが、日ごとに目覚ましい回復ぶりを示した

入院から1555日(4年3ヵ月)ぶりに退院

 

2012年12月21日、8年越しの結婚式

寝たきりだったため全身の筋肉は衰え、足首は伸び切り、力が入らない

麻衣さんは結婚式で元気になった姿を見せたいと過酷なリハビリを続けた

麻衣さんはバージンロードを両親に支えられながら自分の足で歩いた

2人は永遠の愛を誓った

8年間、待ち続けた式場スタッフも祝福

2015年3月、麻衣さんは両親と一緒に暮らしている

 

ちなみに尚志さんが結婚式をキャンセルしなかったのは、

麻衣さんが意識を取り戻した時、ショックを受けるかもしれないから

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額には伊勢志摩をかたどったトレードマーク

伊勢志摩の観光と平和を守るご当地ヒーロー

商工会議所で働きながら

週末はイセレッドに変身する澤村哲弥は当時を想い出す

●観光戦隊イセシマンを創った2人の高校生

イセシマンが誕生したのは、30年前

自主製作映画を撮るために作ったキャラクター

当時は伊勢神宮をモチーフにした鳥居がトレードマーク

デザイン画にはすでに観光戦隊イセシマンと名付けられていた

このキャラクターを作ったのが

当時高校1年生だった澤村と小林君という同級生

 

高校卒業後、東京へ出ていた小林さんが久しぶりに地元に戻ってきた

31歳になって再会した2人

その場所は病院、小林さんは31歳の若さでガンに侵されていた

病床の小林さんが、こんな言葉を残した

「町が廃れていくのを見ると子供たちの未来が心配で仕方ないんだ…」

そのわずか数日後、小林さんは他界

 

澤村は、とにかく何かしたい…と小林の分まで伊勢志摩を盛り上げたい!

思い出したのが2人で作ったイセシマンだった

2003年、澤村はたった1人でイセシマンのホームページを開設

最初は伊勢志摩の歴史深い街並みにそぐわないと批判を受けたが、

それでも伊勢志摩の子供たちの笑顔の為に活動を続けた

そして2010年、伊勢志摩観光コンベンション機構から表彰された

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