マチュピチュの麓に村を創った日本人

その日本人は、野内与吉

1895年11月18日、福島県安達郡大玉村の裕福な農家に生まれ育った

与吉は21歳の時、日本人移民としてペルーへ渡った

当時、ペルー国内の大木を伐採して外国に輸出する仕事に携わった

材木商として技術と知識を身に付けた与吉は、

マチュピチュ周辺のジャングルに目をつけていた

1911年、、アメリカの考古学者:ハイラム・ビンラムが

ジャングルに埋もれ廃墟と化していたマチュピチュを見つけてから

12年後の1923年、鉄道が通り、幻の都への道が開けた頃だった

そこはわずか4家族の先住民だけが暮らしていた集落があった

 

前向きな与吉は、人が何かしてくれるのを待つような性格ではなかった

村人は川から水を汲んで飲んでいたが、

与吉が山の中腹にあった湧き水から水路を通してキレイな水を分け与えた

 

ある日、大木が倒れた拍子に大きな穴が開いて温泉が湧いてきた

与吉は石で囲って入れるように整備して村人に開放した

その温泉は現在、遺跡以外の重要な観光名所として観光客を招いている

 

遺跡と温泉で多くの客を見込んだ与吉は、

1935年 村で初めてとなる木造3階建てのホテルノウチを自らの手で建設

しかも1階は、郵便局や交番として使えるよう村に提供していた

さらに村人と共にダムを造り、

水の力を利用して大きなタービンを回して発電させた

与吉が作った発電機は、いまは役目を終え解体されたが、

発電に使ったタービンは広場に展示されている

 

マチュピチュに来て18年、与吉は誰もが信頼する存在になっていた

灯りがともる村の噂を聞きつけ、徐々に住民も増えていった

 

1941年、太平洋戦争が勃発

その影響な南米にも拡大、当時 連合国側であったペルーは

日本人移民を捕えて次々とアメリカの強制収容所へ送った

ペルー政府は、与吉の下にも憲兵を派遣した

村人は身を挺して憲兵から与吉を守った

 

1947年、記録的な大雨が発生、村を土石流が襲った

与吉は塞ぎがちな村人励まし続けた

村に尽くした与吉は次の世代にバトンを渡すと、

晩年はクスコで子供たちと余生を過ごした

 

1958年、三笠宮殿下がマチュピチュを訪問した際、

与吉の娘が父の事を話し、

その存在が日本にいる与吉の親族に伝えられた

野内家の人達は10年かけて100万円を集めると

そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開いた

 

1969年、家族と200人の村人が見守る中、ペルーに骨をうずめた

 

野内与吉の最初の妻との息子:ホセ野内は 村でホテルを経営している

父の後を受け継ぐように村長も務めた

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