中国、11歳の末期がん患者が、自らの意志で腎臓と肝臓を提供したという

 

中国 深圳に住むリャン・ヤオイー君

9歳の時、脳のがんが発覚

 

2年間、闘病生活を送ったが病状は悪化、最期を待つしかなかった

リャン君はお母さんに言った

「世界には立派な人がたくさんいるよね。僕も立派な人間になりたいよ。だから臓器を提供したい」

脳のがんに侵されていたリャン君は、亡くなる前に臓器提供を決断した

 

リャン君の夢は 立派な医者になることだった

それが叶わないと知った時、想い出したのが学校で習った臓器提供

「もう医者にはなれないけど人を助ける事は出来る」

リャン君の母:李さんは最後の願いを受け入れた

 

2014年6月6日、リャン君はこの世を去った

その直後、ドクターたちは、腎臓と肝臓を摘出

 

手術室からその遺体が運び出された時、

11歳の少年の決断にドクターや病院のスタッフが

一堂に頭を下げ、3度敬礼した

ドクターたちはリャン君の遺体に自ら服を着せた

リャン君の遺体は、医者を目指す若者の為に医療学校へ送られた

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川越市立野田中学校3年生の川口瑠美子さん

夢は航空自衛隊のパイロットになること

中1の時に航空自衛隊のブルーインパルスを見たのがキッカケ

その実現の一歩として選んだ高校が、日本航空石川高校

 

2010年1月16日、推薦入試を受けようと母娘は埼玉から石川県に向かった

しかし大雪の影響で電車が運休、新潟県長岡市で立ち往生した

 

午前0時、試験まで9時間しかない

この時間、この大雪、タクシーは走っていない

「ヒッチハイクしかない。無理かもしれないけど他に方法がないじゃない?」

大雪の中、母娘は高速道路のインターチェンジまで歩いた

午前1時、最初に出会った車が停まってくれた

「石川県の輪島まで行きたんですけど」

「石川県までは無理だけど、上越市までだったら行けますよ」

「ごめんね、途中までで。でも直江津駅からなら電車出てるかもしれないから」

 

午前2時半、新潟県直江津駅に到着したが、電車は動いていない

少しでも前へと歩きながら車を探した

 

午前5時、ようやく見つけたガソリンスタンドでトラックが停まっていた

「石川県まで行きたいんですけど乗せて頂けませんか?」

「いいよ。乗んな!金沢までだったら通ってもロスにならない」

「何でこんな雪道でヒッチハイクを?」

「明日、石川県の輪島市で受験なんです」

「それは遅れるわけにいかないな」

しかし猛吹雪のせいでトラックは思うように進まなかった

「このペースだと金沢着が7時になるな。試験会場はどこだっけ?」

「輪島です」

金沢から輪島までバスで2時間以上

このままだと試験開始の9時には間に合わない

 

するとトラックの運転手が「ちょっと待ってて」と言い残し

外でに出て、電話で配送先に遅れる連絡を入れた

「本当にすみません。時間が4時間ほど遅れそうです」

席に戻った運転手は「しょうがない。輪島までいっちゃる」

 

そして試験開始10分前に到着

一睡もせずに移動、本来ならテストなど受けられる状態ではない

その日は作文を書く試験だった

テーマは、私が感動したこと

川口さんは試験会場までに起こったことをそのまま作文に書いた

そして見事、高校に合格した

 

母は運転手に「お礼がしたいので連絡先を」と聞いたが、

「そんなのいいから、じゃ!」学校に到着後、すぐに去ってしまった

分かっているのは、ヨコヤマという名前のみ

高校の教頭が、トラックのナンバーと運輸会社名を見ており、

検索して連絡をした

電話がつながった第一声は「あの子 どうなりました?」

「合格しました」と伝えたという

 

川口さんは その後 航空大学校に進学した

 

大学を卒業した川口さんは、憧れの航空会社に就職が決まった

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1992年、神奈川県伊勢原市

山崎政明と敏子の間に直也くんが生まれた

5歳になった腕白少年:直也くんが突然 病魔に襲われてしまう

体に異変が現れたのは、ある朝のこと

「赤いおしっこが出た」

しばらくしてから一緒にトイレに行ってみると

赤い血が混じっているというより血そのものが出ているようだった

「どっか痛いとこない?」「息をすると胸が痛くなる」

あわてて病院へ行き、精密検査を受けた

「胸に腫瘍らしき影が見えます」

医師の説明では良性の可能性が高い

「腫瘍は大きいようなので取ってしまった方がいいでしょう」

 

手術後の病理検査で、恐ろしいことが判明する

「肺にあった影は悪性の腫瘍:ユーイング肉腫でした」

肋骨に腫瘍がへばりついき肺を圧迫していた

「今回の手術で肋骨を3本 切除しました。これからは放射線と抗がん剤で再発を防いでいきます」

幸い腫瘍は全て取り除き、転移は見られないが、再発の可能性も十分にある

集中治療室から大部屋に移動、元気にはしゃぎまわれるほどに回復した

 

再発を防ぐため、直也くんは、強い抗がん剤に耐えた

病院から出られず抗がん剤の副作用に苦しむ日々

治療を始めて一週間で髪の毛は無くなった

治療の結果、定期検査を受ける条件付きで、退院が認められた

そしてみんなより半年遅れで学校に通えるようになった

しかし定期検査で…右胸に1.5㎝の腫瘍が発見された

すぐに手術で腫瘍を摘出した

そしてまた辛い抗がん剤治療が始まった

愛する我が子が苦しんでいるとつい…

「もうやめようか?何もしないでお家に帰ろう」そう言ってしまう

しかし「ここにいる。頑張る」直也は弱音を吐かなかった

 

その後も直也は再発と手術を繰り返した

どんなに辛い治療でも直也は拒否しない

体重は常に10㎏台、慢性的な貧血で顔は浅黒かった

「ナオは偉いね。何でそんなに頑張れるの」

「僕はね。体はこんなだけど心は強いんだ」

「お母さん 代われるものなら代わってあげたい」

「ダメだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。お母さんじゃ耐えられないよ」

 

直也には夢があった

闘病のため無理だった海で思いっ切り泳ぐこと

ボランティア団体:メイク・ア・ウィッシュに応募すると

ハワイ旅行がプレゼントされた

直也くんは、思いっきり遊んだ

ハワイから帰国後、まもなく腰に激痛が走った

「骨髄に転移していました」

血液を造る骨髄に転移したとなるとがん細胞が体中に運ばれる

手術で切除する事もできず今まで使っていた抗がん剤も使えない

手の施しようがなかった…

 

直也に何と説明すればいいか?何日も答えが出ぬまま、

2人は本当のことを話すことにした

「ナオちゃんは今 胸が痛いとか腰が痛いとか言ってるでしょ。骨髄にも病気が出来ちゃって」

「うそばっかり、ちゃんと先生に聞いたの?」

闘病生活が長い直也には隠し通せない

「お母さん何 言ってるの?ナオは負けるわけないじゃん。病気に勝つに決まってるじゃん」

直也は前向きに辛い治療を望んだ

日々痛みは激しくなり直也は早く手術をしてほしいとせがんだ

しかし手術は出来ず、モルヒネを投与して痛みを抑えるだけ

「すごく頑張ってきたから別に手術しなくてもいいよって先生言っていたよ」

「お母さん 手術しないってことは死んじゃうってことでしょ?やってみなくちゃ分からないじゃん。最初から諦めちゃダメっていつも言ってるじゃん」

「そうだね。ごめんね。お母さんもうあきらめない」

 

器官は炎症を起こし気道を圧迫、呼吸も難しくなった

ナオは死が近いことを悟ったのか

「お母さん、ナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。頑張れば幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど最後は必ず大丈夫」

直也は余命宣告を受けたから2週間も生き続けた

そして2001年7月3日、壮絶に病と闘った直也くん 永眠

 

病魔と闘い抜いた4年間、少年の小さな体のどこにそんな力があったのか?

それは看護師から聞かされた

「直也くんはお母さんのために頑張ったんです」

治療の途中でこんなことを言っていた

「あのねナオは 今 死ねないんだよ。お母さんの心の準備が出来てないから。今はまだ死ねないんだよ」

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常識人、優等生の世間的イメージが強い漫画家:はらたいら

一方で私生活はゼロ点

家庭よりも仕事や酒を優先する破天荒な男だった

クイズダービー後、はらたいらは、すぐにうつ状態に

長年の飲酒がたたり体調が悪化

2006年に肝臓がんを患い死去 享年63

事前にスタッフから答えを聞いているのではないか?

という都市伝説まで囁かれた程の正解率を誇る人物

●クイズダービーのでブライクした漫画家:はらたいら

19433年、高知県に生まれた

ちなみに はらたいらは芸名ではなく本名

小学生の頃から授業は聞かず、マンガの落書きばかり描いていた

中学2年生の時、結核を患い入院

暇を紛らわすため漫画を描く事に増々夢中になっていった

高校時代には、地元の新聞に掲載されるほどになっており、

将来の夢は、上京してプロの漫画家になる事だった

高校3年生の頃、校内新聞に描かれた はらたいらの漫画を見て、

感銘を受けた少女が、後に妻となるちず子だった

はらたいらは、高校時代から地元で飲み歩いていた

ツケで飲むこともしばしば、高校にまで飲み屋の請求が頻繁に来ていた

 

高校を卒業した ちず子が就職で上京した時…

ある日、ちず子の職場に1本の電話が

「もしもし、はらです…高校が一緒だった」

プロの漫画家になるため はらたいらが上京した事は知っていた

ちず子は、一度も話をした事が無い相手からの突然の電話に戸惑った

「ごめんね、突然。友達を辿って連絡先を勝手に聞いちゃった」

「いえ」「あのさ会えないかな?」「えっ私とですか?」

はらたいらの突然の誘いを大喜びで受けた

後日、喫茶店ではらたいらと再会した

ちず子には東京でプロの漫画家として働く はらたいらが眩しく見えた

しかし、会計をする はらたいらを見たのは、これが人生最後だった

 

実は当時のはらたいらは、

漫画家としては全く売れておらず極貧生活を送っていた

当時あった血液銀行で血液を売って金を作り食いつないでいた

ほどなく はらたいらは、ちず子を頼って頻繁にお金を借りに来るように

やがてちず子の職場までお金を借りに来るように

すると、あまりにもはらたいらが

職場にお金をせびりに来るので、

ちず子はついに仕事をクビになってしまった

しかしちず子は、はらたいらほどの才能が世に出ないのはおかしい、

何とか彼の力になってあげたい、と惚れ込んでいた

ある日、ヒモ状態のはらたいらが、

「お前は恋愛対象じゃないけど結婚するならお前がいいな。外を連れて歩くなら美人や可愛い子の方がいいかもしれないけど女房にするならしっかり者がいいからな」

1964年、2人は入籍し、三畳一間で慎ましい生活が始まった

狭い部屋は漫画を描くだけで精一杯、2人の寝床は押し入れの中…

そんな狭い家で漫画仲間と昼間から酒盛り

一方のちず子は、仕事を2つ掛け持ち、

夫の邪魔にならないようにと夜に仕事が終わると朝まで外で散歩をし、

はらの酒代を稼ぐため、そのまま仕事へ向かった

 

ちず子の体重は結婚前に比べ、16㎏も減った

そんなちず子の支えで少しずつ漫画の連載を増やしていった

三畳一間のアパートからも引越し、2人の子宝にも恵まれた

はらは典型的な亭主関白になっていた

自分で魚の骨を取る事も出ず、自分でご飯をよそうなどもってのほか

 

はらたいらが33歳の時、クイズダービーへのレギュラー出演が決まった

以前、漫画家チームとしてゲスト出演した際、

その博識ぶりと甘いマスクが、

大橋巨泉に気に入られレギュラー回答者に大抜擢された 出演者の中で最も高い正解率を誇り、27問連続正解の偉業を達成した

 

漫画家で あるはらたいらが

驚異的な正解率を誇ったり理由は、彼の仕事にあった

風刺漫画を描くために本、新聞、雑誌まで異常にリサーチ

様々な智識や雑学を持っていた

さらに放送日の周辺に関するイベントを、あらかじめ調べて問題を予想

 

しかし正解し続ければ正解し続けるほどプレッシャーは増していった

家庭では常にピリピリ状態

クイズダービーにはらが登場してから、

気を遣い3年間 妻から声をかける事はなかった

1992年、クイズダービーが終了

クイズダービーが終わると仕事が次々と舞い込んだ

1ヶ月に20日以上は講演会で地方に出かけ、

その合間で連載漫画を描き続けた

そんな多忙な日々の中でテレビン番組にも出演

クイズは応えればよかったが、トーク番組は喋る能力が必要

タレントではなかった はらは、

トーク番組で喋れない自分に悩み 自信を喪失していた

そんな日々の中、ある日の公演中、過労と心労で倒れた

これをキッカケに仕事を全盛期の2割に減らした

家にこもりっきりの はらたいらは、鬱になり酒の量もすっかり減った

 

妻が不調を訴え、病院へ行った時のこと、「病名ですが、乳がんです」

49歳で乳がんを侵されたちず子

「手術すれば幸い乳房は残せます」「手術ってことは入院しますよね」

「はい、もちろん」「入院する日にちが短くする方法はありますか?」

乳がんに侵されながらも、はらたいらのことだけを案じていた

「入院を短くする方法はあります」「何ですか?」

「乳房を全部摘出することです」「全部 キレイに取ってください」

この医師の提案に即答した

術後、ちず子の見舞いに訪れた

体に管が繋がっているのを見ると はらは卒倒し、夫婦で入院する事に

 

ついにはらは、肝硬変を患う

病院嫌いだったはらは、すでに重度の症状

元々、人付き合いが苦手なはらは、ちず子がいないと

ナースコールを押す事さえできない

面会時間を終わった後も、不安で眠れないはらは、2時間おきにちず子に電話

ついには院内の宿泊が禁止されているにもかかわらず、

隠れて病室に泊まり込み、毎晩 はらが寝付くまで側に居続けた

「もう一度 生まれ変わってもお前と一緒になりたい」

それははらが、最期に妻に残した感謝の言葉だった

 

「はらたいらと結婚したことに何の公開もありません。はらたいらに全部、まさに私の人生全部、そう決めてましたから」

とはらたいらを送り出す ちず子は語った

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高校時代の黒田は、野球の名門 上宮高校で背番号17の補欠

高校卒業後も野球を続けようと大学のセレクションを受けた

すでにスライダーやシュートを投げる補欠ピッチャーの黒田に

光るものを感じた専修大学 元野球部監督は、

実績のない黒田に推薦文を書き、教頭に頭まで下げたという

専修大学に入学後は、一心不乱に練習に打ち込み その才能が開花

1996年、ドラフト2位で広島カープに入団した

 

●広島残留劇

2006年、低迷するチームの中、個人成績はリーグトップ

すでにFA権を手にしていた黒田は、

資金の少ない市民球団からは出ていくと思われていた

黒田残留の為にファンが横10m×縦7mに縫い合わせた布に

カッティングシートで文字を切り、メッセージが書かれた巨大な旗になった

“我々は共に闘ってきた 今までもこれからも…未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら君の涙になってやる CARPのエース 黒田博樹”

 

2006年10月16日、シーズン最終戦、2枚の旗はライトスタンドにたなびいた

球団を去るであろう黒田は、花道として用意された最終回に登板

黒田はちらりとライトスタンドを見やった

 

2006年11月6日、黒田は記者会見を開いた

「私 黒田博樹はFA権を行使せずに広島東洋カープに残留する事をここで皆様にお伝えしたいと思います」

てっきり他球団と契約すると思われていたため、記者会見場はざわついた

「ファンの皆様の10月14日、16日のスタンドを見て 結局 最後になるとあれが一番 自分の中では大きかった。他球団のユニフォームを着て広島市民球場でカープファン、そしてカープの選手を相手にボールを投げるというのが自分の中で想像がつかなかった」

 

2007年11月30日、メジャーリーグへ移籍表明

1年間も広島に残ってくれた黒田に広島市民は心から感謝し、

メジャーリーグへの挑戦を支持した

その思いを知った黒田は、記者会見で口を開く事なく涙を流した

2007年12月16日、ドジャース入団会見

「初めまして日本のプロ野球 広島東洋カープから来た黒田博樹です」

 

その後 黒田は、日本人初の5年連続 2桁勝利の記録を達成

 

●広島復帰

球団本部長:鈴木清明はシーズンオフで帰国した黒田を毎年のように訪ね、

広島復帰へのラブコールを送り続けた

2014年11月、「で、どうや?」

すると黒田は「40% 引退です。30% メジャーです。30% カープです」

そう聞いた鈴木は「その40%、俺にくれ」

メジャー球団は高額報酬でアメリカ残留を望んでいた

 

2014年12月26日 午前10時11分、黒田から鈴木の携帯に連絡がきた

「もしもし」「黒田です。帰ります」

鈴木はその意味がすぐには理解できなかった

「(帰る?どこへ?)ドジャースか?まさかパドレスか?」

「違います。カープです」

4年で20億円のオファーを蹴って、黒田が広島に帰って来る

 

2015年2月16日、人生2度目の広島入団記者会見

「最後はファンの人達というか球団の熱意も当然ありましたけど、2006年ですかね、僕がFA権最初にとった時にファンの人達に心を動かしてもらったので、逆に今度は自分がファンの人達の気持ちを動かせればいいという気持ちが一番大きかったです。恩返しではないですけど多少なりとも帰ってきたことで喜んでくれる人がいるんであれば、それはそれで僕の中では満足できることだと思います」

 

3月8日、広島×ヤクルト戦、オープン戦にも関わらず、

2万人以上のファンが駆け付けた

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