●トルコにあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

アラトト山の麓、ムラディエ村にあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

2011年10月23日、トルコ東部大地震が発生

死傷者1000人以上という甚大な被害を受けた

 

その救援活動のためにこの地に訪れたのが、

AAR Japan難民を助ける会の日本人:宮崎淳

 

宮崎さん等 救援チームは被災者を献身的にサポートし続けた

他の外国の救援隊が帰った後も自分たちの意思で最後までここに留まり救援活動にあたった

 

だが11月9日に発生した余震により宿泊していたホテルが倒壊

宮崎さんは瓦礫の下に取り残され、帰らぬ人となった

 

村では彼に対する感謝の気持ちを常に思い出すため、

忘れない為に彼に名前を学校の名前として残した

 

「自分も大きくなったら宮崎さんと同じように困った人々を助けることが出来る人になりたい」

と学校に通う生徒は語った

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世界を変えるテレビで紹介

●エフレンのスラムを変えた手押し車授業

フィリピン・マニラに住むエフレン・ペニャフロリダは、

16歳の時にスラムの子を貧困から救う慈善団体

DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立

キッカケはギャングへの復讐

 

スラムは治安が悪くギャングやストリートチルドレンで溢れていた

貧しい家庭で生まれたエフレン

貧困からギャングになる幼馴染や友達は周りに大勢いた

頻りに仲間に誘うギャングたち

家は貧しかったが何とか学校だけは行かせてもらっていた

いつかはこの暮らしから抜け出す…そんな思いで日々勉強に明け暮れていた

 

だが仲間にならないエフレンをギャングは目の敵に

時には殴るけるの暴力も…ギャングの執拗なイジメ

ギャングに復讐をしたい…そして一つの答えに辿り着く

ギャングのいない世界を作ればいい

ある日、エフレンは友人に声をかけ、教科書やノートをかき集めていく

ボロボロの手押し車でスラムに運んだ

時間帯は子供たちが親の手伝いから解放される土曜日の昼間を狙った

「学校に行けないみんな、勉強をしよう。読み書きや算数 教えるよ」

しかし元々学校に行っていない子供たちは、

勉強への意識が低いため興味を持ってくれない

そこでエフレンは問題に正解した時に

お菓子などをあげる事で参加する子供を集めた

お菓子をくれると口コミで広がり、参加する子供は増え続け、

多い時には30人もの子供たちが集まった

教える内容は小学校低学年で習う読み書きや算数

最初はお菓子目当てだった子供たちも

次第に学ぶことの楽しさに気付いていった

 

現在も手押し車の授業は続けていてエフレンを支えるスタッフは100名

手押し車も70台まで増えた

活動はフィリピン国内にとどまらず、ケニア、

インドネシアの貧困地域で手押し車の授業を行っている

授業をはじめて12年目のとなった2009年、活動が認められエフレンは、

CNNが選出する人道的な活動家に与えられるCNNヒーローズを受賞

 

「教育は世界を変えられると思っています。勉強すれば自分も変われるし家族も友達も変えられる。少しでもいい世界に変えていくのが僕の夢です」

 

実は貧しかった戦後の日本でもスラム街があり、

学生が子供たちに勉強を教えるセツルメント運動があったという

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ありえへん∞世界で紹介

●ブータンで国葬された西岡京冶

1933年、医師の父と看護師長の母の家庭に生まれた

12歳の時、終戦

物が不足する日本で食べる物もなく貧しい生活を送った

高校卒業後、大阪府立大学 農学部へ進学

そこで専門的に研究することになったのが、ヒマラヤの農業

当時、未知なる秘境だったヒマラヤの農作物に興味を持ち、

卒業後もネパール学術探検隊に参加する活動を行っていた

 

1964年、ブータン政府から農業技術支援の要請を受ける

ブータンは高地で気候も厳しく国土の大変は山と谷で

田畑に使えるのは1割程度

そのため極めて低い農業自給率だった

それを知った西岡は、ブータンへ農業指導を行う派遣要請を快諾

 

31歳の時、妻:里子さんと共にブータンへ渡った

しかし農業指導するために政府から提供された土地はわずか60坪

さらに農業指導をするのは政府が集めた少年たち3人だけだった

当時、農業自給率が低かったブータンは農作物を収穫できる農地は貴重であり

研究用に貸すことが出来たのはわずかな土地のみ

成人男性は貴重な労働力とされ研究のためにさける人材は子供だけ

しかし西岡は、ブータンをおかれた厳しい状況を理解していたので

不満も一つもらさず受け入れた

成果を上げれば農業技術はブータンで受け入れられるはず

西岡はまず日本から持ってきた大根の種を蒔いた

それから3か月後、畑に出来上がったのは大きな大根

少年たちはその技術に驚き、歓喜した

その後、西岡の農業技術は評判となり取り巻く環境が起きく変わった

 

ある日、第3代ブータン国王は西岡を会食に招いた

「大根の種を私にくれませんか?大根を作ってみたいのです」

西岡の農業の成果を認めた国王は国として大根作りに乗り出したいと伝えた

国として農業支援に乗り出した国王は、それまでの400倍の農業試験場を与えた

その試験場でブータンにはなかった白菜、キャベツ、人参などの野菜を栽培

またブータンになかった日本式の稲作を開始

当時 ブータンの稲作は苗と苗の感覚がバラバラで収穫率が低かった

苗を同じ間隔で植え、収穫率が高い日本式の稲作を取り入れた

すると西岡の狙い通り収穫量が4割向上した

 

やがて試験場にはブータン各地から多くの役人が訪れ、

西岡の農業技術は役人が農民に教える事によりブータン中に広がっていった

 

ブータンに来て8年目の1972年、第3代国王が急逝し、

当時16歳だった皇太子が国王に即位した

若き国王から西岡はある相談を持ちかけられる

「あなたの手で忘れられた土地を救ってほしい」

忘れられた土地とは、ブータン南部にあるシェムガンという地域のこと

そこは首都から車で丸1日走り、険しい山道に入ってから徒歩で4日もかかる辺境の地

妻の里子さんは体調を崩したこともあり、シェムガンに連れて行くことは不可能

もちろん6歳と1歳にあんる子供たちも連れて行けない

西岡は大切な家族と離れ離れになってもブータンの為に働く事を決意

愛する家族を日本に帰し、忘れられた土地シェムガンへ向かった

そこは平地がほとんどなく荒れ果てた斜面ばかりで農業を行うのが困難な土地だった

そんな中、西岡の農業技術の指導が始まった

村人たちに焼き畑を止め、稲作に切り替えるように説得した

全く聞く耳を持たない村人たち…

西岡は農業技術を教える前に、村人たちが抱えている問題を解決し、

村人たちと信頼関係を築く事から取り組んだ

それから西岡は村が抱えた問題を一つずつ解決していった

繰り返し行った村人たちとの話し合いは5年間にわたり800回にも及んだ

そんな真摯な姿勢は村人たちの心を動かし、協力関係を築いた

 

そしてついに開墾が始まった

荒れた土地を切り開く事は困難を極めた

水田の水を引くため水路を作るのに竹を利用

366本の水路を作り、人や荷物を運ぶための吊り橋も17本作り上げた

また平行して学校や診療所も開設

そして、忘れられた土地は大きく姿を変えた

2年後、荒れ果てた土地に18万もの水田が生まれ、稲穂がたわわに実った

 

その後、西岡はよりブータンの気候に合うよう野菜の品種改良に取り組んだ

西岡がやって来るまでブータンになかった様々な野菜が市場に並ぶように

約60%だったブータンの食糧自給率は86%にまで上昇した

 

1992年、西岡は59歳で急逝 現在、日本では治療ができる肺血症が死因だった

西岡は国葬されブータン人5000人が参列した

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世界を変えるテレビで紹介

●自分が描いた絵本で親友を救う少年:ディラン

アメリカ・ロサンゼルス、ディラン、幼馴染のジョナとは大の仲良し

「チョコレートバー」は2人の間だけで通じる独特の言い回しで

「最高」という意味で使っている

実は、ジョナは自由に食事がすることが出来ない身体

ジョナが患っているのはIB型糖原病という病気

体内にグリコーゲンが異常に蓄積し、極度の低血糖や肝臓障害を引き起こす

そのため血糖をコントロールしなければならず、

コーンスターチを水に溶かしたものを日に7回、胃に直接摂取しなければならない

この病気の解明はまだ進んでおらず、研究には莫大な費用が必要だった

自分と同じものが食べられない親友:ジョナの病気に日々胸を痛めていたディラン

 

ある日、「僕 ジョナの病気が治るように寄付がしたいんだ」

「寄付するってお金はいったいどうするんだい?」

「僕が本を描くんだ。それでその売り上げを寄付するんだよ」

自分で描いた絵本の売り上げを病気を研究する機関に寄付し、

1日でも早く治療法を見つけてもらう事で辛い生活を強いられるジョナの救いたいと思った

早速 絵本を描き始めたディランは、その日のうちに16ページの絵本を描き上げた

はじめは6歳の我が子が描いた絵本を微笑ましい気持ちで読んでいた母は、

感極まって泣いてしまった

そして同じく絵本を読んで感動した父の提案で絵本を製本し、

学校で行われるバザーで売る事に

絵本のタイトルは「チョコレートバー」

チョコレートバーを付けて値段は2000円

6歳の子供が病気の親友の為に自分で描いた絵本を売っている噂は、

あっという間に会場に広がり、20冊の絵本は3時間で完売した

数日後、大手書店で販売会を開催することに

この騒ぎを聞いたテレビ局3社も取材

250人以上が来店し、店内は大盛況となった

このニュースは世界中を駆け巡り、世界43カ国から絵本の注文があるという

“ディズニーランドに行きたいな 行けたらとってもチョコレートバーだね”

…と続き、“そして友達を助けたいな それが最高のチョコレートバーだね”

絵本の最後には、“この本を友達のジョナに捧げます お金は全部ジョナ・ポーナザリアンGSD基金に寄付されます 助けてくれてありがとう”

決して上手くない拙い文字で綴られている

 

寄付も加わり、総額80万ドル(約8000万円)以上を

全てフロリダ大学研究チームに寄付している

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世界を変えるテレビで紹介

●イジメられている生徒と同じピンクのシャツを着てイジメをなくした少年

2007年9月5日、カナダ、セントラル・キングス・ルーラル高校に通う

ブライアンのTシャツを着て登校した。それを見たある生徒が

「何だお前 そのTシャツ、男ななのにピンクなんて着やがって、ゲイなんじゃねーの」

「僕はゲイなんかじゃない」「いいや そんな色を着る野郎は絶対ゲイだね!」

イジメっ子たちは揃ってゲイ、ゲイ、ゲイと囃し立てた

登校してきた生徒たちは見て見ぬフリをして過ぎ去っていく

誰もイジメを止める者はいなかった

当時高校3年生だったトラビスは、この時は何もできないまま

ブライアンを横目に通り過ぎてしまった

休憩時間になってもブライアンへのイジメは続いた

逃げるブライアンに付きまとうイジメっ子たち

イジメは言葉だけではなく暴力にまで発展した

その光景を目撃したトラビスは、数年前の記憶が甦っていた

実はトラビス自身も過去にイジメを受けた辛い経験があった

イジメを止めたら、イジメの対象が自分に移ってしまうかもしれない

トラビスはイジメを止める勇気が出なかった

しかし、イジメを受けていたトラビスの前に立ちふさがってくれたクラスメイトの少女:エミリー

イジメを止めた仕返しを恐れず、強いまなざしでイジメっ子たちを睨みつけるエミリー

その後、トラビスへのイジメはなくなった

エミリーの勇気ある行動のおかげでトラビスの人生は変わった

あの時のエミリーのように見て見ぬフリをしちゃダメだ、と考えた

放課後、一人寂しく帰っていくブライアンを

友人のデイビットと共にじっと見つめるトラビス

「なぁデイビット何とかして彼を救う方法はないかな?」

トラビスとディビットは小遣いを出し合ってピンクのタンクトップを買った

2人は合わせて50ものピンクのタンクトップを買った

その日の夜、パソコンと携帯を使って学校の仲間たちにメールを送った

 

“今日学校でピンクのシャツを着たブライアンがイジメられた。

彼を応援するためにも明日ピンクのシャツを着ていかないか?

それでブライアンが独りじゃないと教えてあげよう”

 

しかし仲の良い友達数人からの返信があったが、

誰一人としてピンクを着るという返事は無かった

翌日、不安な気持ちをっ変えて登校するトラビスとデイビット

手には買った50枚のピンクのタンクトップ

すると…ピンクのTシャツやカバン、帽子など

ピンク色を身に着けて登校した生徒が100人以上もいた

学校中がピンク色に染まっていた

実はみんなイジメに反対だった

しかし1人では怖くて言い出せずにいた

この光景を見ていたイジメっ子たちは呆気にとられていた

その時、イジメっ子の一人がトラビスの元に

「そのピンクシャツを俺にもくれないか?」

ピンクシャツを受け取ったイジメっ子はブライアンに

「悪かったよ…ごめん」「もういいよ」

それ以来、ブライアンへのイジメは2度となくなった

この行動がキッカケで2014年の7年間、イジメの報告は1件も上がっていない

ニュースで報道され瞬く間にカナダ全土に広がり、行政も動かした

2008年2月27日、ブリティッシュコロンビア州知事、ゴードン・キャンベルは

2月の最終水曜日をピンクシャツデーにすると宣言

現在 トラビスはピンクデー基金を設立

イジメ体験や対策についての講義を行い、イジメ撲滅運動を展開

 

2013年2月26日、品川で1万人が同じピンクシャツを着て、

レディー・ガガの「Born This Way」を踊っている

カナダでも、アメリカでも、ピンクのTシャツを着て踊るイベントは、

世界75カ国で行われた、その参加者 約670万人

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