ブータンで国葬された西岡京冶

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●ブータンで国葬された西岡京冶

1933年、医師の父と看護師長の母の家庭に生まれた

12歳の時、終戦

物が不足する日本で食べる物もなく貧しい生活を送った

高校卒業後、大阪府立大学 農学部へ進学

そこで専門的に研究することになったのが、ヒマラヤの農業

当時、未知なる秘境だったヒマラヤの農作物に興味を持ち、

卒業後もネパール学術探検隊に参加する活動を行っていた

 

1964年、ブータン政府から農業技術支援の要請を受ける

ブータンは高地で気候も厳しく国土の大変は山と谷で

田畑に使えるのは1割程度

そのため極めて低い農業自給率だった

それを知った西岡は、ブータンへ農業指導を行う派遣要請を快諾

 

31歳の時、妻:里子さんと共にブータンへ渡った

しかし農業指導するために政府から提供された土地はわずか60坪

さらに農業指導をするのは政府が集めた少年たち3人だけだった

当時、農業自給率が低かったブータンは農作物を収穫できる農地は貴重であり

研究用に貸すことが出来たのはわずかな土地のみ

成人男性は貴重な労働力とされ研究のためにさける人材は子供だけ

しかし西岡は、ブータンをおかれた厳しい状況を理解していたので

不満も一つもらさず受け入れた

成果を上げれば農業技術はブータンで受け入れられるはず

西岡はまず日本から持ってきた大根の種を蒔いた

それから3か月後、畑に出来上がったのは大きな大根

少年たちはその技術に驚き、歓喜した

その後、西岡の農業技術は評判となり取り巻く環境が起きく変わった

 

ある日、第3代ブータン国王は西岡を会食に招いた

「大根の種を私にくれませんか?大根を作ってみたいのです」

西岡の農業の成果を認めた国王は国として大根作りに乗り出したいと伝えた

国として農業支援に乗り出した国王は、それまでの400倍の農業試験場を与えた

その試験場でブータンにはなかった白菜、キャベツ、人参などの野菜を栽培

またブータンになかった日本式の稲作を開始

当時 ブータンの稲作は苗と苗の感覚がバラバラで収穫率が低かった

苗を同じ間隔で植え、収穫率が高い日本式の稲作を取り入れた

すると西岡の狙い通り収穫量が4割向上した

 

やがて試験場にはブータン各地から多くの役人が訪れ、

西岡の農業技術は役人が農民に教える事によりブータン中に広がっていった

 

ブータンに来て8年目の1972年、第3代国王が急逝し、

当時16歳だった皇太子が国王に即位した

若き国王から西岡はある相談を持ちかけられる

「あなたの手で忘れられた土地を救ってほしい」

忘れられた土地とは、ブータン南部にあるシェムガンという地域のこと

そこは首都から車で丸1日走り、険しい山道に入ってから徒歩で4日もかかる辺境の地

妻の里子さんは体調を崩したこともあり、シェムガンに連れて行くことは不可能

もちろん6歳と1歳にあんる子供たちも連れて行けない

西岡は大切な家族と離れ離れになってもブータンの為に働く事を決意

愛する家族を日本に帰し、忘れられた土地シェムガンへ向かった

そこは平地がほとんどなく荒れ果てた斜面ばかりで農業を行うのが困難な土地だった

そんな中、西岡の農業技術の指導が始まった

村人たちに焼き畑を止め、稲作に切り替えるように説得した

全く聞く耳を持たない村人たち…

西岡は農業技術を教える前に、村人たちが抱えている問題を解決し、

村人たちと信頼関係を築く事から取り組んだ

それから西岡は村が抱えた問題を一つずつ解決していった

繰り返し行った村人たちとの話し合いは5年間にわたり800回にも及んだ

そんな真摯な姿勢は村人たちの心を動かし、協力関係を築いた

 

そしてついに開墾が始まった

荒れた土地を切り開く事は困難を極めた

水田の水を引くため水路を作るのに竹を利用

366本の水路を作り、人や荷物を運ぶための吊り橋も17本作り上げた

また平行して学校や診療所も開設

そして、忘れられた土地は大きく姿を変えた

2年後、荒れ果てた土地に18万もの水田が生まれ、稲穂がたわわに実った

 

その後、西岡はよりブータンの気候に合うよう野菜の品種改良に取り組んだ

西岡がやって来るまでブータンになかった様々な野菜が市場に並ぶように

約60%だったブータンの食糧自給率は86%にまで上昇した

 

1992年、西岡は59歳で急逝 現在、日本では治療ができる肺血症が死因だった

西岡は国葬されブータン人5000人が参列した

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