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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

 

●友達と川遊びがしたい少女の願い

2005年6月、米野岳小学校では川遊びが大人気だった

校舎の裏手に流れている岩原川

学校ではこの年から自然や生物の生態を

じかに学んでもらおうと授業に川遊びを取り入れていた

生徒たちが川遊びに夢中になる中、

ひとり…そこに参加できない少女:原侑希さんがいた

 

侑希さんは生後間もなく脳室周囲白質軟化症を発症

脳神経に障害が生じ、手足や首に力が入らず歩くことが出来なかった

川に行くには高さ3mの崖をロープを使って下りる必要がある

そのため侑希さんは いつも崖の上から

楽しそうに遊ぶ仲間たちを見ている事しかできなかった

1学年わずか15名、小さな頃からずっとクラスメイトだった子供たちにとって

侑希さんは他の誰と変わらない大切な友達の一人だった

しかし学年が上がり3年生になると脳の麻痺の影響で

勉強もみんなのスピードについていけなくなってしまった

そのためクラスメイトが2階で勉強する中、

一人ほとんどの授業を1階のたんぽぽ学級で別の先生から受けるようになった

だが、昼休みになるとみんなで侑希さんを迎えに行き、昼休みを一緒に過ごした

 

ある日、侑希さんは、なかよし集会で作文を読む事になった

本番で読みやすいように侑希さんの言葉を先生が代書し、原稿に起こした

そして向かえた当日…

「みんなで一緒に遊ぶのが大好きです。2階の教室に上がる時や朝 来る時の車いすを誰か知らないけど用意してくれています…う~」

途中で声が止まり、嗚咽しながら「ひとりだと…さびしい…」

用意していた原稿には

“ひとりだと寂しいけれど みんなといるとにぎやかだし楽しいです”と書かれていた

だが実は3年生になり1人きりで授業を受ける事が増えたうえ、

自分は参加できない川遊びの流行により、人知れず孤独を募らせていた

それゆえ、さびしいという言葉を見て、

それ以上先を読む事が出来なくなってしまった

 

その後、侑希さんを交えてクラス全員で話し合いが行われた

1人の女子が侑希さんに謝ったのをきっかけに、クラスメイトが個々に謝り出した

すると侑希さんも「侑希が歩けないから ごめんなさい」

1人の生徒が「先生が侑希さんをおんぶして川へ下る事は出来ないんですか?」

「先生もできればそうしてあげたいんです。でも…」

手足に力が入らない侑希さんは、おんぶされても掴まることが出来ない

「川に降りる事は危険だからできないの。ごめんね」

 

担任の先生は悩んだ

このままだと侑希さんを気遣って、みんな川に行かなくなる

そうなると侑希さんは人一倍責任を感じて苦しむことは目に見えていた

 

そして…生徒たちは校長室に駆け込んだ

「校長先生ならなんとかなるよね」

「一番偉いんだからどうにかしてくれるよね」

「侑希ちゃんと一緒にみんなで川へ下りたいんだ」

「お願いします!お願いします!お願いします!お願いします!」

「みんなの気持ちはよく分かったわ。考えてみるわね」

後日、校長先生は学校の裏手から川へつながる小鳥の森を歩いてみた

校長先生は県の役所に出向き、道路工事などを管理している土木部を訪ねた

「階段さえあれば車いすの子もみんなが一緒に川に下りて、川遊びができるのではないかと思いまして…」

 

階段が造れるのか?県は現場を調査する事に

その事を生徒に話すと、1人の生徒が「僕たちにもできる事ってありますか?」

「みんなでお願いの手紙を書かない?」「賛成」

生徒たちは自発的に県の担当職員に手紙を書いた

侑希さんも手紙を書いた

“みんなといっしょに遊びたかったです。がまんしていたけど本当は川へ行きたいです”

生徒の熱い気持ちは校長先生から土木部の坂本課長へ手渡された

 

すると翌日…県の土木部から本格的な調査員がやって来た

そして…予算の都合もありすぐに取り掛かる事は難しいが、

工事は可能な場所であるという結果が出た

2006年4月、生徒は4年生に進級

しかしその後も工事決定の連絡はないまま、

あっという間に1学期も終わろうとしていた

そんなある日のこと、1人の生徒が

「階段が出来ても侑希さんは車いすのまま川に入れるのかな?」

「車いすのままじゃ無理だよ」「そうだ!いいこと思いついた」

夏休みになると生徒たちは近所を一軒一軒回ってペットボトルを集め始めた

2学期が始まるとペットボトルのイカダの制作に着手

プールに運んで何度もテストを重ね、1ヶ月後 ようやく完成した

使ったペットボトルは150個

侑希さんが座りやすいように背もたれや腕を置く場所にも工夫を施した

 

だが工事決定の連絡は一向に来ない、生徒は5年生に進級した

5年生2学期の終業式も近づこうとしていたある日のこと…階段工事が決定した

工事が遅れた理由は、坂本課長が計画半ばで異動していたから

階段計画はいったん白紙となっていたが、

坂本課長は後任者に生徒からの手紙を託していた

予算の作るため公共事業の予算を少しずつ削り、

そして2年後 階段の工事費用を捻出した

 

しかし、工事を請け負った大和一吉さんは下見にやってきて愕然とした

現場には川岸に下りる道さえなく、

まずは大きな重機を入れるための道路作りから始める必要があった

土木部が確保した予算ではとても足りない事が分かった

だが大和さんは採算度外視で工事を始めた

近所に暮らす子供たちの笑顔を想像すると、

出来ないという選択肢は全く考えられなかった

そして…2008年5月1日、子供たちが6年生に進級して間もなく階段が完成した

 

ペットボトルのイカダは、侑希さんを乗せて川に浮かんだ

 

2009年3月、侑希さんを含めた6年生の卒業式

校長が式辞で送った言葉には、あのなかよし集会で発表されるはずだった侑希さんの作文の続きが引用されていた

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ナニコレ珍百景で紹介

 

愛知県半田市は童謡「ごんぎつね」の里

 

24年前、当時72歳の小栗大造さんは、

童謡「ごんんぎつね」に

描かれた昔の美しい風景が失われていくのを嘆いていた

 

童話のような古き良き風景を蘇らせたいと、

ひとり河川敷の草刈りを始めた

 

それから来る日も来る日も毎日 草刈りを続け、

野山に出かけては彼岸花の球根を集め、1本1本大切に植えていった

 

周りから何と言われようと決してあきらめなかった

 

すると大造さんのひたむきな姿に共感した町の人達が協力し、

24年もの間、彼岸花を植え続けた結果、

300万本の彼岸花が咲き誇る童話の風景が復活した

 

 

現在 年間10万人の見物客が訪れる

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世界番付で紹介

●250人の警察官が終結したネイサン君のクリスマスパーティ

アメリカ ヴァージニア州に住むネイサン・ノーマン君

彼の憧れは警察官

そんなネイサンは悪性脳腫瘍におかされていた

その腫瘍は脊髄まで転移

 

2009年9月、病状はさらに悪くなった

もう長くは持たないかもしれない…

 

そこで彼は両親に「僕の為にクリスマスを早めてくれない?」とお願い

「おまわりさんもパーティに来てほしいな」

 

すると彼の願いが地元警察の耳に届いた

警察官たちが集まり、ネイサン君の自宅にお祝いに向かった

地元警察のみならず、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、

バージニア州の3つの州の警察署からも駆けつけた

合計87代ものパトカーがネイサン君のもとへ向かった

何とその数250人にも及んだ

 

警察官はネイサン君にとっておきのプレゼントを考えてくれた

「今日は君も我々警察の一員だ!さあみんなに号令をかけてくれ!」

「整列!敬礼!」兄たちに支えられ、

憧れの警察官から最高のプレゼントを受け取った

警察官は病気と闘うネイサン君に勇気を与えた

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1987年、当時のドイツはベルリンの壁で分断されていた

 

●ベルリンの空に花火を打ち上げた花火師:佐藤勲

 

そんな折、西ベルリンで行われたベルリン市制750年祭典で

7000発の花火が夜空を彩った

 

この花火は日本の花火師:佐藤勲さん等が打ち上げた

 

記者会見で佐藤さんは、

ベルリンの地上には壁はありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西のお方も東のお方も楽しんでください、と語った

 

この言葉は翌日“空に壁はない”と西ドイツの新聞の一面を飾った

 

その2年後、1989年にベルリンの壁は崩壊した

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ありえへん∞世界で紹介

海外で活躍した名もなき日本人

 

ガーナの人を貧困から救いために人生を捧げ、村の長老となり

わずか27歳という若さでこの世を去った武辺寛則

 

●長老になり貧しい村を救い27歳で亡くなった武辺寛則

 

1961年、長崎県佐世保市で生まれた武辺寛則

武辺は10歳の時、ある新聞記事に目が止まった

それはアフリカの貧しい人たちのために助ける日本人の記事

僕もアフリカの貧しい人たちを助けたい、幼い頃からの彼の夢だった

大学卒業後、福岡の商社へ就職、順風満帆な生活を送っていた

しかし商社に入社して2年が経った ある日、武辺は辞表を出し会社を辞めた

「辞めてどうするんだ?」「アフリカに行きます」

安定した職を捨てアフリカへ行くことを決意

1986年、25歳の時、ボランティア団体を通じてガーナへ渡った

当時のガーナは主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況

アフリカの中でも最も貧しい国の一つだった

武辺が訪れたアチュア村は電気や水道も通っていない特に貧しい村

彼がまず行ったのは農業の改革だった

「みなさん、まずは焼き畑農業を止めないといけません」

焼き畑農業は、草木を焼いた灰が肥料になり土壌を改良するが、

数年で地力は落ち、収穫量が減少してしまう

その提案に村人たちは

「俺たちはずっとこのやり方でやってきたんだ。焼き畑農業を止めて今さら何をすればいいんだ」

農業の素人だった武辺はすぐに有効な答えを提示できなかった

しかし彼は村の発展を第一に考え、何度も根気強く村人たちと話し合いを重ねた

その数、半年間で100回

武辺の真摯な姿勢に村人も心を動かされ、いつしか信頼関係が生まれていった

村人たちとの信頼関係を築き、

これからきっとこの村は良い方向に向かう、と思っていた矢先、

大干ばつ(1987年6月)が村を襲った

雨期になっても雨が全く降らず日照り続き

タピオカの原料であるキャッサバやコーンなどの主要作物のほとんどが枯れた

貴重な食料源を失い、村の生活はさらに苦しい状態となり多くの人が村を去った…

武辺は決して下を向く事なく、この難題にも解決策を探し始めた

すると大干ばつで全ての農作物が壊滅する中、

希望の光となるパイナップルを見つけた

それは細長く果汁たっぷりのファンティパイナップル

特徴は干ばつにも負けない暑さへの耐性

それまで村でパイナップルを作っていたのは、わずかに5~6人ほど

しかもその農業技術は未熟で多く作れず自分たちが食べる為だけに栽培していた

「みんなで干ばつに強い このパイナップルを作ろうじゃないか!」

 

安定した収入源になるようパイナップルを村の期間農業にする事業を始めた

武辺が働きかけたところ、村の1/3にあたる65人もの村人が協力

武辺は誰よりも率先して身を粉にして懸命に働いた

希望に光が見えかけたそんな時、武辺はマラリアを発症

過酷な肉体労働で体が弱っていた武辺は1年間に3度もマラリアにかかった

生死の境をさまよった武辺は、マラリアから生還するとすぐに畑を耕し始めた

パイナップル作りを始めて半年経った頃、資金不足に陥った

武辺はガーナの日本大使館へ資金援助の要請に行った

大使館からは思ったような良い返事が得られず、万策尽きたかに思えた

しかし武辺は決して諦めなかった

武辺にとって縁もゆかりもない他の国の大使館にかけあい、

アチュア村への資金援助をお願いした

断られても断られても足を運び、誠意を伝え続け、

ある国の大使館から資金援助の約束をとりつけた

こうして武辺がとりつけた援助のお陰でパイナップルの栽培を続けることができた

 

ある日、武辺は村の首長から呼び出された

「あなたはこの村の最大の恩人です。この村の長老になってほしい」

「貧しいこの村で なたに恩返しができるのは長老という名誉ぐらいしかないのです」

「ぜひ私たちの長老になってください」

こうして武辺は村で首長の次に偉い長老という名誉を与えれることになった

1988年9月24日、26歳の武辺は長老に就任

 

念願のパイナップルの収穫まであと半年…

夢の実現まであとわずかと迫った時…

車を運転することが出来た武辺は、

急病の村人を病院まで運ぶようお願いされた

舗装もされていない道を病院まで猛スピードで走っていたその時、車が横転

武辺はすぐに病院に搬送されたものの手遅れだった

 

武辺寛則 急逝、まだ27歳の若さだった

武辺は志半ばにして短い人生に幕を閉じた

武辺という日本人のリーダーを失ってからも村人は武辺の遺志を継ぎ、

懸命にパイナップル栽培を続けた

そして武辺の死から半年後、念願のパイナップルが実った

しかも畑はそれまでの50倍以上の広さに

25年後、生産量は年間5000トン

パイナップルの収益で村の生活も向上した

ガーナで最も貧しいと言われた村は、今では電気も水道も完備された

 

村は武辺への感謝の気持ちを世代を超えて伝える為にパイナップルの石碑をたてた

石碑には“今は亡き 武辺寛則に捧ぐ…”と刻まれている

亡くなって25年経った今でも村人から彼への感謝の言葉が止まることが無い

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