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ありえへん∞世界で紹介

2011年、ある日本人のお墓を訪ねるため、一人のロシア人女性が来日した

彼女の名はオルガ・モルキナ

「私がこうして生きていられるのは私の祖父母をある日本人が救ってくれたおかげなんです。彼らは多くのロシア人の命を救ってくれた恩人なのです」

それは90年間、決して世に出る事がなかった物語

●数千万の私財を投じ800人のロシアの子供を救った日本人

 

1873年、愛媛県松山市に生まれた勝田銀次郎

18歳で現在の青山学院にあたる東京英和学校に入学

その後、海運業の世界に飛び込んだ

27歳で独立し、貿易会社:勝田商会を設立

 

1918年、ロシア革命が勃発

都市:ペトラグラードは革命により治安が悪化し、深刻な食糧不足になった

そこで親は子供たち遠く離れた田舎:ウラル地方へ疎開させた

しかし避難した田舎町にも戦火が襲い、幼い子供たちは難民のような状態に

その数、800人

米国赤十字が800人の子供たちを保護、ウラジオストクにある施設に移送した

そして800人の子供たちの救出作戦を立てた

一旦ロシアを離れ、子供たちを故郷ペトログラードに近い安全な国へ海路で移送

ロシアの混乱が落ち着いたのを見計らい、

子供たちを親元に返すという計画を立てた

 

米国赤十字は関係各国の船舶会社に800人の子供たちの移送を依頼

しかし船舶会社の返事は全てNO

世界中のどの国の会社も子供たちの移送を引き受けてくれなかった

そこで最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本の運搬会社にも送った

その中の一つが勝田銀次郎の会社だった

 

勝田の下に部下が飛び込んできた

「社長!大変な申し出が届きました」「どうした?」

「ロシア革命により難民となった子供たちをロシアからヨーロッパまで船で運んでほしいとのこと。子供の人数は800人です」

困っている人を救う龍田ですら、これに即答できない事情があった

1920年は日露戦争が終結してまだ十数年

さらに革命によって世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係

勝田は苦悩していた

出来る事ならロシアの子供たちを助けてあげたい

もし日本と敵対関係にあるロシアの子供たちを助ければ、

日本中から非難され会社は倒産へと追い込まれかねない

さらに勝田の会社は物資を運ぶ海運会社

そのため貨物船しかなく800人もの子供が寝泊まりできる客船は所有していない

「私はロシアの800人の子供たちを助ける」と勝田は決断した

この決断に反対する者は誰一人いなかった

会社で一番新しい貨物船:陽明丸を客船に改造した

800人もの子供が長期化に移動できるよう洗面所、トイレ、寝る部屋などを増築

その船の改造費は多くを勝田が私財を投げ打ち払った

その額は、現在の価値で数千万円

通常1年はかかる客船への改造を約1ヵ月で仕上げた

 

伝説の船長:茅原基治が船長に名乗りを上げる

これまで数々の航海の実績があり、伝説の船長として名を馳せた人物

1920年7月、陽明丸は神戸を出発

子供たちのいるロシア ウラジオストクに到着し、子供たちのせて出航した

ペトログラードに近いヨーロッパのフィンランドに向かう

航路はロシアから太平洋を東に進み、パナマ運河を通るルートを選択

茅原は航海の途中 ロシアの子供たちに少しでも日本を知ってもらいたいと日本の室蘭に寄港

到着するな否や、茅原は真っ先に役所へ向かった

茅原は全ての責任を自らが取るという条件で子供の日本上陸許可を得た

子供たちを共に向かったのは北海道 室蘭にある小学校

茅原は役所にお願いし、ロシアと日本の子供たちが触れ合う機会を設けた

小学校の日本人たちは800人のロシアの子供たちを温かく迎い入れた

言葉は通じなくても子供同士、仲良くなるのに時間はかからなかった

そして北海道 室蘭を出航し、フィンランドへ本格的な大航海が始まった

心を通わせた子供たちは茅原を「ニイサン」と日本語で読んでいたという

3か月後、目的地フィンランドに到着した

800人のロシアの子供たちを無事救出した

その後、子供たちは故郷ペトログラードに戻り、親との再会を果たした

 

この物語は、90年もの間、一切世に出る事がなかった

それは日本人の乗組員は、勝田と茅原の2人が非国民扱いされないよう固く口を閉ざしてきたから

そして長い年月を経て、祖父母が日本人に助けられたオルガさんによって、この物語が世に知られる事になる

命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは、

2009年、北室南苑さんという日本人とロシアで出会う

そこで当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられた

北室さんは日本に帰国後、オルガさんの為に2人の日本人の消息を知ろうと尽力

勝田銀次郎と茅原基治の2人のお墓を突き止めた

2011年、ロシアから日本へ祖父母の意志を継ぎ感謝を意を伝える事ができた

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世界番付で紹介

●250人の警察官が終結したネイサン君のクリスマスパーティ

アメリカ ヴァージニア州に住むネイサン・ノーマン君

彼の憧れは警察官

そんなネイサンは悪性脳腫瘍におかされていた

その腫瘍は脊髄まで転移

 

2009年9月、病状はさらに悪くなった

もう長くは持たないかもしれない…

 

そこで彼は両親に「僕の為にクリスマスを早めてくれない?」とお願い

「おまわりさんもパーティに来てほしいな」

 

すると彼の願いが地元警察の耳に届いた

警察官たちが集まり、ネイサン君の自宅にお祝いに向かった

地元警察のみならず、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、

バージニア州の3つの州の警察署からも駆けつけた

合計87代ものパトカーがネイサン君のもとへ向かった

何とその数250人にも及んだ

 

警察官はネイサン君にとっておきのプレゼントを考えてくれた

「今日は君も我々警察の一員だ!さあみんなに号令をかけてくれ!」

「整列!敬礼!」兄たちに支えられ、

憧れの警察官から最高のプレゼントを受け取った

警察官は病気と闘うネイサン君に勇気を与えた

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テレビで放送された たった4分半の予告編

 

それは韓国で製作された映画「7番房の奇跡」

 

主人公は知的障害を持つ父親とその娘:イェスン

障害を乗り越え幸せに暮らす2人

 

ところが父は誤解から無実の罪をきせられていく

無情な人間たちによって父は犯罪者に仕立て上げられてしまった

そのまま逮捕され収監された

転校することになった娘は、馴染めずひとり寂しく父を思った…

父も塀の中で娘に会いたいと思いを馳せていた…

 

そんなある日ヨングに命を助けられた7番房の房長と仲間たちが、

娘イェスン潜入大作戦を決行、2人は塀の中で再会

 

しかし二人の幸せな時間は長くは続かず…親子は引き裂かれてしまう

 

「パパずっとここにいて。私が会いに来るから。怒らないから“いい所”に行かないで」

 

 

鼻をすすり、胸がこみ上げ、たかが予告編なのに涙が止まらなかった

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内村とザワつく夜で紹介

●子どもがサンタ

シングルマザーとして子育てを頑張る2児の母

昼は工場の事務、夜はコンビニで働いている

それでも生活は苦しく娘たちに好きな物を買ってあげられるのは誕生日とクリスマスだけ

そして12月23日、「2人とも今年一年良い子にしてたから、またサンタさんからカードが届きました」

クリスマスに欲しいプレゼントを書くカードを姉妹に渡した

「わたしプリキュアの変身セットにする」

「ユキナはどうするの?クマさんのぬいぐるみが欲しいってずっと言ってたでしょ?書いちゃいなさいよ」

「う~ん、ちょっと考える」

その日の夜…次女:ユキナのカードを確認すると

“サンタさんへ お母さんがいつも肩が痛いって言ってるから、マッサージ機が欲しいです ユキナより”

12月24日の夜、姉妹が寝静まった枕元に

長女には希望通りプリキュアの変身セットを、

そして次女には、前から欲しがっていたクマさんのぬいぐるみを買ってあげた

12月25日の朝、長女は大喜びで母に報告

しかし起きているはずのユキナが部屋から出てこない

「ユキナ どうしたの?サンタさんのプレゼント欲しいのと違ったの?」

「サンタさんから貰ったよ。ハイこれ」

ユキナが渡したのは“肩たたき券”

「サンタさんにお願いしたら くれたの。良かったね お母さん いつでも使っていいからね」

「ユキナありがと」

「違うよ サンタさんにお礼 いいなよ」

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それは全米を感動させた一人の少女の実話

●エレナが遺した天国からの愛のメッセージ

 

エレナは絵を描くことが大好きな女の子

愛情たっぷりの両親と2歳年下の妹:グレースに囲まれて幸せに暮らしていた

しかし6歳の誕生日を間近に控えたある日…母はエレナの体の異変に気付く

エレナはろれつが回らず真っ直ぐ歩けなくなってしまった

病院での検査の結果、下った診断は悪性の脳腫瘍

医師から宣告された余命は4か月半

両親はエレナに残された時間を特別なモノにしてあげたかった

本当の病状は隠し、エレナの為に出来るだけ時間を作って一緒に出掛ける

彼女のやりたい事を思う存分させた

夢だったイルカと泳ぐ夢もかなえた

必ず治ると励まし続けた両親

しかし病状は次第に悪化

右半身は麻痺して動かなくなり、声も出ない

痛みを抑えるため投与されたステロイドの副作用で顔は大きく腫れた

それでも体調が良い日は利き腕とは逆の左手で絵を描いた

そして4か月半過ぎてもエレナは生き続けた

しかしついに限界を迎え、余命先刻から8か月半後、

2007年8月11日、エレナは天国へと旅立った

 

悲しみにくれる両親

しかしエレナは両親にあるモノを遺していた

別れから数日後、母親が何気なくエレナが好きだった本を開いたその時…

中から小さなメモが出てきた“ママ パパ 愛している”

エレナが書いたモノだった

 

しかしメッセージはこれだけではなかった

 

父が長年使っていたカバンの中にも、“愛してるパパ”

その後もエレナからのメッセージは本棚やタンスの中、家の至る所から見つかる

さらにエレナの手紙は妹のグレースにも“グレース愛してる グレースゴーゴー!”

 

エレナは自分に残された時間がわずかであることを知り、

愛する家族へ手紙を書いていたのかもしれない

自分がいなくなってもさみしくないように…と。

 

エレナからの手紙は見つかり続けた

両親は敢えてすべて探そうとしなかった

死から6年経った今でもたまに手紙は見つかるという

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