感動する話」カテゴリーアーカイブ

池上彰解説塾で紹介

コートジボワールとはフランス語で象牙海岸を意味する

15世紀にヨーロッパ人が、この地から象牙を輸送した

 

1960年、フランスから独立

マリなどの北の隣国からカカオ農園の為、

出稼ぎのため大勢 移民が流れ込んだ

北側の民族が増えるにしたがって南側の民族と衝突

2000年ごろ、南北各地の軍人が給与を払わない政府に抵抗、

北の反政府が武装蜂起したことをキッカケに南北の対立が一気に拡大

国を真っ二つに分けた内戦は10年近く続いた

民族が違うだけの理由で殺人、放火、略奪が行われ、一般市民が多数死傷

女性や子供を中心に約2万人の難民が発生した

 

●内戦を止めたコートジボワールの英雄

その英雄こそ、ディディエ・ドログバ

ドログバはプレミアリーグで2度の得点王を獲得した世界的なエースストライカー

5歳の時に、フランスに渡り、サッカーの英才教育を受けた

そのためフランスとコートジボワールの2つの国籍を持っていた

元々、強くなかったコートジボワール代表

ワールドカップに出場するならフランスの代表に選ばれるのが一番

しかしドログバは、祖国を愛する気持ちからコートジボワール代表を選んだ

彼の活躍でチームは瞬く間に力をつけ2005年、ワールドカップに初出場

この時、国内は内戦の真っただ中

ワールドカップ出場を決めた試合直後、

ドログバはロッカールームにカメラを呼び、国民にメッセージを送った

 

「コートジボワール国民の皆さん、今日ワールドカップ出場という共通の目標のもと、コートジボワールの様々な民族が共存してプレーできることが証明されました。歓喜によって人々は団結できます。今ここでひざまずいてお願いします…どうかお願いです!お願いです!豊かなコートジボワールで内戦が起きるのは許されません。武器を捨ててください。そして選挙をしましょう。それですべて良くなるはずです」

この一言によって内戦が一時的に停止した

 

2007年、いつも南部で開催されていた代表の試合を

北部で行うことを大統領に直談判

反政府組織が占領していた北部は長い内戦で荒廃、

サッカーの試合をするような環境ではなかった

ドログバの願いは政府を動かした

彼は直接 北部に出向き、

「北で試合をする これは「始まり」にすぎない。代表チームが6月にここに来るんだ」とスピーチ

歓喜する聴衆…ドログバの行動で南北がひとつになろうとしていた

 

2007年6月3日、電気も水道もない貧弱なスタジアム

コートジボワールとマダガスカル代表の試合が行われた

この試合はアフリカ中のメディアが注目

そこでドログバは、カメラの前で反政府リーダーに平和を約束させた

この日は南北関係なく国民が一丸となって応援

さらにドログバが見事 勝利のゴール…その瞬間 南北の心はひとつになった

これが暫定的な和平交渉のキッカケになった

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●トルコにあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

アラトト山の麓、ムラディエ村にあるアツシ・ミヤザキ小中学校

 

2011年10月23日、トルコ東部大地震が発生

死傷者1000人以上という甚大な被害を受けた

 

その救援活動のためにこの地に訪れたのが、

AAR Japan難民を助ける会の日本人:宮崎淳

 

宮崎さん等 救援チームは被災者を献身的にサポートし続けた

他の外国の救援隊が帰った後も自分たちの意思で最後までここに留まり救援活動にあたった

 

だが11月9日に発生した余震により宿泊していたホテルが倒壊

宮崎さんは瓦礫の下に取り残され、帰らぬ人となった

 

村では彼に対する感謝の気持ちを常に思い出すため、

忘れない為に彼に名前を学校の名前として残した

 

「自分も大きくなったら宮崎さんと同じように困った人々を助けることが出来る人になりたい」

と学校に通う生徒は語った

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2013年、歌手:島倉千代子が惜しまれつつこの世を去った

昭和歌謡界の大スターだった島倉千代子

しかしそんな彼女の人生は不幸の連続だった

●堕胎

昭和30年、「♪この世の花」でデビューし200万枚の大ヒット

NHK紅白歌合戦には昭和32年から30年連続出場

昭和38年、人気絶頂だった島倉は結婚

相手は当時活躍していた阪神タイガースの藤本勝巳

結婚して程なく藤本は引退し、キャバレークラブを開店

店の経営は全くの素人…赤字が膨らんでいった

そんな苦しい生活の中、島倉は妊娠

アイドル的な存在だった島倉が出産することは、引退を意味した

歌えなければ生活も支えられない…苦悩の末、堕胎する道を選んだ

その後、次第に藤本とも上手くいかなくなり昭和43年に離婚

夫が作った6000万円もの借金を背負った

●16億円の借金

ある日、島倉は事故に遭い失明寸前の大ケガをした

そのケガから救ってくれた眼科医に、いつしか恋心を抱くように

間もなく2人は交際を始めるが、

交際相手からビル建設事業のための資金援助を持ちかけられる

島倉は相手を信じ、多額の資金を援助

さらに島倉は相手に実印を渡してしまう

数か月後、男性は忽然と姿を消し、一切の連絡が取れなくなった

そして島倉の元に残ったのは男性が島倉の名義で作った16億円の借金

現在の価値に換算すると58億円に相当

●死の直前に遺した島倉千代子の最後の歌声

2010年、肝臓ガンを発症

実は長い間、C型肝炎を抱えており、本来は手術が必要だったが、

メスを入れると歌に影響を及ぼす可能性があり、手術は行わなかった

手術をしない選択をした事で病は進行、肝臓ガンを発症した

3年後、病状は末期まで進行

残された時間で何ができるのか?ある決断をする

(死ぬ前に新曲を歌いたい)

島倉は尊敬する南こうせつに新曲を依頼

2013年6月、南こうせつが病床を訪れ、

未完成ながらも新曲のワンフレーズを聞かせた

「この歌は絶対にお蔵入りさせたくないからよろしくお願いします」

レコーディングは半年後の11月15日に決まった

(この歌を歌うまでは死ねない)

ガンと闘いながらも病床で新曲の練習を欠かせなかった

(絶対にレコーディングの日まで生き抜く)

しかし、レコーディングの2週間前、南こうせつの元に島倉から電話が…

「レコーディングを早めてください。私の声が15日まで持たない…」

2013年11月5日、新曲のレコーディングが島倉の自宅で行われた

それは病気を微塵も感じさせない魂のこもった歌声だった

(最後に最高の歌を遺したい)

こうして最後の新曲「♪からたちの小径」は完成した

2013年11月8日、島倉千代子はその生涯を全うした

葬儀で島倉の最後の肉声が初めて公にされた

「私の部屋の中にスタジオが出来て、私は出来る限りの声で歌いました。自分の人生の最後に歌を入れられるってこんな幸せはありません。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」

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ありえへん∞世界で紹介された

●タジキスタンの内戦を止めたラストサムライ:秋野豊

1990年代初頭、ソ連から独立したばかりのタジキスタンは、

政府側と反政府勢力で激しい内戦が繰り広げられていた

1994年に停戦合意がなされるも、内戦は続き、

幼い子供までも銃を持ち戦地に駆り出されていた

40代だった秋野は、筑波大学で旧ソ連圏に関する歴史を教えていた

彼は大学教授として型破りだった

ソ連崩壊から間もない激動の時代を自らの肌で感じるため、

旧ソ連圏を自分の足で見て廻る現場主義の人だった

そんな秋野が当時、最も関心を寄せ心を痛めていた事こそが、

タジキスタンで激化する内戦…

1998年、日本の外務省がタジキスタンの紛争解決のため専門家を募った

秋野の元にも外務省からの誘いが届いた

秋野には愛すべき妻と2人の娘がいる

紛争解決の力になりたかったが、

家族のことを考えるとどうしても決断することが出来なかったという

悩み抜いた末、遠い異国の平和のためにタジキスタンに渡る事を決意した

大学へ辞表を出しタジキスタンへ旅立った

現地に着いた秋野は、凄まじい内戦の惨状を知った

100万人の国民が他国に亡命、5万人以上が戦争で命を落とし、

5万人以上の子供が孤児となった

この紛争を止めるために国連職員として政府側であった彼は、

反政府軍のリーダーたちの元へ足を運び、解決のための対話を試みた

そのリーダーたちは野戦司令官と呼ばれ大小様々な規模のグループが存在していた

秋野は彼らに いつ銃口を向けられてもおかしくない状況で、

平和的な解決のために果敢に話し合いへ向かった

秋野は彼らに取り入るためにほとんど下戸にも関わらず

野戦司令官と酒を酌み交わし、何とかして距離を近づけようとした

当時500人以上を束ねた大型グループの野戦司令官:ニゾーモフ氏によると

「秋野さんは何回も私の家を訪ねてきては一緒に食事をしたりサッカーをよく一緒にしたね。私の部下の事をよく考えてくれて、いかに平和的な条件で和解することが出来るか、政府と反政府だった私たちの間を愛情を持って最後まで取り持ってくれた。それまで政府に秋野さんのような人はいなかった」

こうした秋野の活動はのべ90日間にわたり、10人以上の反政府軍リーダーと対話した

するとそれまで和平交渉に一切応じる事がなかった反政府軍の中に武装解除し降伏する者たちが現れ始めた

それは遠い異国からやってきた日本人が起こした奇跡だった

終わりの見えなかった内戦が和平へ向かった大きな第一歩

そんな彼に現地のタジキスタン人は尊敬の意を込めてラストサムライと呼ぶように

そして最後の大物 野戦司令官:ミルゾ・ジヨーエフとの和平交渉が成立

和平に向け大きな手ごたえを感じていた秋野

“あともう少しだ きっとこの国は平和になる”

その帰り道…秋野は20発以上の銃弾を受けた状態で交渉の翌日 谷底から発見される

それは和平を望まないゲリラ組織の若者による犯行だった

1998年7月20日、享年48

秋野は大きな夢を実現させるその直前、志半ばで帰らぬ人に

タジキスタン国内では秋野の死が大きく報じられ、

彼と関わった全ての人間は敵味方関係なく悲しみに暮れた

秋野の死から2年後、内戦が終結した

秋野の平和への活動はタジキスタン政府より感謝され、

2006年7月にタジキスタン大統領から友好勲章を授与された

さらに秋野の名がついた大学が建てられるなど、

亡くなって16年経った今でも彼はタジキスタンの人々から尊敬され愛されている

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介された男に心が揺さぶられた

●23年ぶりの奇跡のライブ

伝説のバンド:ROGUEの奥野は今…

群馬県にある障碍者支援施設で重度の障害者として暮らしている

正常に動くのは胸から上の部分だけ、肘から先の手も自由がきかない

 

同じ群馬県で生まれた奥野敦士と香川誠は18歳で上京

音楽の専門学校で出会った彼らは意気投合、共にメジャーデビューを目指した

安アパートで一緒に暮らすギリギリの生活

それでも夢だけは諦めなかった

●1985年、2人が中心となり結成したROGUEがメジャーデビューを果たす

代表作は奥野が作詞作曲を手掛けた「終わりのない歌」

1989年、日本武道館で行われた単独ライブで8000人を動員

伝説のバンドとなった

しかし翌年、ROGUEは突如解散

それは奥野の一方的な理由からだった

「解散しようと思ってるんだよね。そろそろ自分のやりたい音楽とかさ、やりたい時期に来てるんだよね」

2人はわだかまりを抱えながら決別

それぞれ新しい道を歩み始めた

奥野はソロ活動のかたわら役者としても活躍、その活動は多岐に渡った

一方、香川もギタリストとして氷室京介らと共演など成功をおさめた

月日が流れるにつれ奥野は、

現実の厳しさを思い知らされるようになっていた

徐々に仕事が減り、生活は荒んでいった

いつしかバンドの仲間が恋しくなっていた

同じくROGUE復活を望んでいた香川

再結成のために荒んだ生活から脱却したい奥野は酒を断つことを決意

解体業の仕事を始め、生活を一変させた

そして夜は復活ライブに向け、曲作りに精を出した

●2008年9月11日、奥野は地上7mの屋根から地面に転落した

目を覚ましたのは事故から数時間後のこと

診断結果は頚椎損傷…奥野は胸から下が全く機能せず、

トイレにも行けない完全介護の身となった

厳しいリハビリが始まった

それは歩けるようになる為ではなく

腕や手なの動く可能性が残っている筋肉をほぐし、

僅かな改善を目的としたものだった

事故から2か月が過ぎた頃、奥野は一人屋上に出た

歌が歌えるか確認するため…だが、

歌を歌うための腹式呼吸ができなくなっていた

その後、香川は一度だけ奥野の見舞いに訪れた

しかし2度と行くことはなかった

2009年4月、ベルトでお腹の圧力を加えれば声が出る事が分かり、

以来、声のリハビリを繰り返した

歌のリハビリを開始してから1年半が過ぎた頃、

奥野は自分が歌っている姿を撮影した

●「終わりのない歌」とは?

上京してみると思い描いていた都会とはちょっと違う

寂しい思いもいっぱいしている、孤独感とか

そういう思いを曲に出来たらなと思って…

歌詞にある“臆病者の鳩がガード下で群れを成して”は

上京した直後の上野駅で見た光景だった

孤独に負けていたら何もできない人生は自分との闘いなんだ

●2018年8月、ミスチルの桜井が車いすで歌う奥野について熱く語った

「奥野さんのような状況になってもクシャクシャの笑顔で楽しくハッピーに歌を歌っていたい」

香川はこのライブを偶然、目にした

会場で流れた映像で初めて奥野の歌声を聴いた

「何だ歌えるんじゃん」

そして香川は奥野の元に向かった

「奥野、ROGUEを再結成しないか?」

どうせやるならと香川の発案でチャリティーコンサートして開催

収益金で福士車両を購入し、前橋市に寄付することになった

 

 

●2013年10月19日、23年ぶりにROGUEが復活した

2013年12月29日、群馬県高崎市で行われたイベントには1000人のファンが訪れていた

再結成を記念してCDが発売されていた

香川「新曲を出し続けないと意味がない」

奥野「ROGUEとしての活動はずっと続けていこうと思う」と語った

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