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世界を変えるテレビで紹介

●イジメられている生徒と同じピンクのシャツを着てイジメをなくした少年

2007年9月5日、カナダ、セントラル・キングス・ルーラル高校に通う

ブライアンのTシャツを着て登校した。それを見たある生徒が

「何だお前 そのTシャツ、男ななのにピンクなんて着やがって、ゲイなんじゃねーの」

「僕はゲイなんかじゃない」「いいや そんな色を着る野郎は絶対ゲイだね!」

イジメっ子たちは揃ってゲイ、ゲイ、ゲイと囃し立てた

登校してきた生徒たちは見て見ぬフリをして過ぎ去っていく

誰もイジメを止める者はいなかった

当時高校3年生だったトラビスは、この時は何もできないまま

ブライアンを横目に通り過ぎてしまった

休憩時間になってもブライアンへのイジメは続いた

逃げるブライアンに付きまとうイジメっ子たち

イジメは言葉だけではなく暴力にまで発展した

その光景を目撃したトラビスは、数年前の記憶が甦っていた

実はトラビス自身も過去にイジメを受けた辛い経験があった

イジメを止めたら、イジメの対象が自分に移ってしまうかもしれない

トラビスはイジメを止める勇気が出なかった

しかし、イジメを受けていたトラビスの前に立ちふさがってくれたクラスメイトの少女:エミリー

イジメを止めた仕返しを恐れず、強いまなざしでイジメっ子たちを睨みつけるエミリー

その後、トラビスへのイジメはなくなった

エミリーの勇気ある行動のおかげでトラビスの人生は変わった

あの時のエミリーのように見て見ぬフリをしちゃダメだ、と考えた

放課後、一人寂しく帰っていくブライアンを

友人のデイビットと共にじっと見つめるトラビス

「なぁデイビット何とかして彼を救う方法はないかな?」

トラビスとディビットは小遣いを出し合ってピンクのタンクトップを買った

2人は合わせて50ものピンクのタンクトップを買った

その日の夜、パソコンと携帯を使って学校の仲間たちにメールを送った

 

“今日学校でピンクのシャツを着たブライアンがイジメられた。

彼を応援するためにも明日ピンクのシャツを着ていかないか?

それでブライアンが独りじゃないと教えてあげよう”

 

しかし仲の良い友達数人からの返信があったが、

誰一人としてピンクを着るという返事は無かった

翌日、不安な気持ちをっ変えて登校するトラビスとデイビット

手には買った50枚のピンクのタンクトップ

すると…ピンクのTシャツやカバン、帽子など

ピンク色を身に着けて登校した生徒が100人以上もいた

学校中がピンク色に染まっていた

実はみんなイジメに反対だった

しかし1人では怖くて言い出せずにいた

この光景を見ていたイジメっ子たちは呆気にとられていた

その時、イジメっ子の一人がトラビスの元に

「そのピンクシャツを俺にもくれないか?」

ピンクシャツを受け取ったイジメっ子はブライアンに

「悪かったよ…ごめん」「もういいよ」

それ以来、ブライアンへのイジメは2度となくなった

この行動がキッカケで2014年の7年間、イジメの報告は1件も上がっていない

ニュースで報道され瞬く間にカナダ全土に広がり、行政も動かした

2008年2月27日、ブリティッシュコロンビア州知事、ゴードン・キャンベルは

2月の最終水曜日をピンクシャツデーにすると宣言

現在 トラビスはピンクデー基金を設立

イジメ体験や対策についての講義を行い、イジメ撲滅運動を展開

 

2013年2月26日、品川で1万人が同じピンクシャツを着て、

レディー・ガガの「Born This Way」を踊っている

カナダでも、アメリカでも、ピンクのTシャツを着て踊るイベントは、

世界75カ国で行われた、その参加者 約670万人

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ありえへん∞世界で紹介された

●タジキスタンの内戦を止めたラストサムライ:秋野豊

1990年代初頭、ソ連から独立したばかりのタジキスタンは、

政府側と反政府勢力で激しい内戦が繰り広げられていた

1994年に停戦合意がなされるも、内戦は続き、

幼い子供までも銃を持ち戦地に駆り出されていた

40代だった秋野は、筑波大学で旧ソ連圏に関する歴史を教えていた

彼は大学教授として型破りだった

ソ連崩壊から間もない激動の時代を自らの肌で感じるため、

旧ソ連圏を自分の足で見て廻る現場主義の人だった

そんな秋野が当時、最も関心を寄せ心を痛めていた事こそが、

タジキスタンで激化する内戦…

1998年、日本の外務省がタジキスタンの紛争解決のため専門家を募った

秋野の元にも外務省からの誘いが届いた

秋野には愛すべき妻と2人の娘がいる

紛争解決の力になりたかったが、

家族のことを考えるとどうしても決断することが出来なかったという

悩み抜いた末、遠い異国の平和のためにタジキスタンに渡る事を決意した

大学へ辞表を出しタジキスタンへ旅立った

現地に着いた秋野は、凄まじい内戦の惨状を知った

100万人の国民が他国に亡命、5万人以上が戦争で命を落とし、

5万人以上の子供が孤児となった

この紛争を止めるために国連職員として政府側であった彼は、

反政府軍のリーダーたちの元へ足を運び、解決のための対話を試みた

そのリーダーたちは野戦司令官と呼ばれ大小様々な規模のグループが存在していた

秋野は彼らに いつ銃口を向けられてもおかしくない状況で、

平和的な解決のために果敢に話し合いへ向かった

秋野は彼らに取り入るためにほとんど下戸にも関わらず

野戦司令官と酒を酌み交わし、何とかして距離を近づけようとした

当時500人以上を束ねた大型グループの野戦司令官:ニゾーモフ氏によると

「秋野さんは何回も私の家を訪ねてきては一緒に食事をしたりサッカーをよく一緒にしたね。私の部下の事をよく考えてくれて、いかに平和的な条件で和解することが出来るか、政府と反政府だった私たちの間を愛情を持って最後まで取り持ってくれた。それまで政府に秋野さんのような人はいなかった」

こうした秋野の活動はのべ90日間にわたり、10人以上の反政府軍リーダーと対話した

するとそれまで和平交渉に一切応じる事がなかった反政府軍の中に武装解除し降伏する者たちが現れ始めた

それは遠い異国からやってきた日本人が起こした奇跡だった

終わりの見えなかった内戦が和平へ向かった大きな第一歩

そんな彼に現地のタジキスタン人は尊敬の意を込めてラストサムライと呼ぶように

そして最後の大物 野戦司令官:ミルゾ・ジヨーエフとの和平交渉が成立

和平に向け大きな手ごたえを感じていた秋野

“あともう少しだ きっとこの国は平和になる”

その帰り道…秋野は20発以上の銃弾を受けた状態で交渉の翌日 谷底から発見される

それは和平を望まないゲリラ組織の若者による犯行だった

1998年7月20日、享年48

秋野は大きな夢を実現させるその直前、志半ばで帰らぬ人に

タジキスタン国内では秋野の死が大きく報じられ、

彼と関わった全ての人間は敵味方関係なく悲しみに暮れた

秋野の死から2年後、内戦が終結した

秋野の平和への活動はタジキスタン政府より感謝され、

2006年7月にタジキスタン大統領から友好勲章を授与された

さらに秋野の名がついた大学が建てられるなど、

亡くなって16年経った今でも彼はタジキスタンの人々から尊敬され愛されている

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●チュチュを着た中年男性の愛は乳がんに侵された妻を救う

 

ボブ・カーレイはアメリカの絶景スポットを中心に

ピンクのチュチュだけを身にまとい、

自ら被写体となって写真を撮り続けているプロの写真家

 

「12年前、妻が乳がんと診断された時、彼女のために何かしたいと思った」

 

2002年、20年近く連れ添った最愛の妻:リンダさんが進行性の乳がんに侵された

病状は重く明るかった妻は、それ以来あまり笑わなくなった…

「そんな頃、たまたま撮ったチュチュの写真を見せたら妻が大喜びしたんだ」

 

愛する妻の笑顔をもう一度見たい…

ボブは20年以上積み上げたプロ写真家としてのキャリアを捨て、

妻のために写真を撮り続けるように

 

乳がんとの戦いを応援するピンク色のチュチュをまとって…

 

 

「夫がピンクのチュチュを着て踊りまわってる姿を見たら自然と笑顔になるの。彼はそんな私をいつも前向きにさせるの」とリンダさんは語った

 

それから10年以上、ボブが妻のために取り続けた写真は数えきれない

 

妻の病状も徐々に開放へと向かっている

 

そんな彼の写真は写真集となり、その収益は乳がん患者の治療費へ充てられる

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