2013年5月、岡山のリハビリ病院に勤務する川上麻衣子は、

先輩看護師からある頼みごとをされた

一人の男性患者にメールアドレスを教えていいか?

と聞かれ、軽い気持ちで承諾した

まもなく その男性患者からメールが届いた

“彼氏はいますか?好きな食べ物は何ですか?ご出身はどちらですか?というか、僕のこと分かりますか?”

彼女はメールをくれたのがどの患者なのか、名前を聞いても分からなかった

 

当時、麻衣子さんは故郷熊本から離れた岡山の病院に勤務して4年目

出会いもなく友人もおらず、いずれ熊本に帰りたいという希望もあった

 

そんなとき、突然舞い込んだメールは思いのほか楽しく、

数日おきが毎日、メールが電話に変わるまで2週間もかからなかった

 

麻衣子さんにメールを送ったのは、大上克

以前、麻衣子さんの病院に入院していた患者だった

2年前、克さんは麻衣子さんに目を奪われた

その1年前、克さんは父と共に大工の仕事をしていた

夢は父の跡を継ぐことだった

しかし8mの高さから落下、全身を強く打っていた

直ちに病院に運ばれ緊急手術が行われた

一命を取り留めたものの脊髄を激しく損傷し、半身不随に

身体を動かすことが何より好きだった克さんにとって

それは死刑宣告にも等しいものだった

2010年5月25日は、夢を断たれた人生最悪の日として心に刻まれた

 

7か月後、岡山にあるリハビリ病院へと移った

入院して4か月が過ぎるころには、訓練によってトイレにも一人で行けるようになった

だが下半身が動くことはない…

一生 車いすを手放せない現実を受け入れられず生きる希望など得られなかった

そんなとき、麻衣子さんと出会った

一目惚れから2年、声をかけられないまま克さんの退院が近づいていた

さらに麻衣子さん自身ももう一年経ったら病院を辞める予定となっていた

両親が故郷熊本での結婚を望んでいた

 

退院する日がやってきた

退院後は歯科技工士の専門学校に通うために

徳島の実家には戻らず一人暮らしをする予定だった

「大上さん、いいものあげる。麻衣子ちゃんのメールアドレス。メールしていいって」

「ありがとうございます」

香川に借りた部屋に引っ越すとすぐにメールを送った

“彼氏はいますか?好きな食べ物は何ですか?ご出身はどちらですか?というか、僕のこと分かりますか?”

2人のメールと電話のやり取りが始まった

しかしこの麻衣子さんは克さんの顔も知らなかった

彼に障害があることは明かされたが、会えない分、それは忘れることができた

話が合うことが互いにうれしく、存在が生活の励みとなっていった

「ねぇ克くん会いたいな。ねぇ会いに行ってもいい?」

「もちろん」

 

2013年6月、麻衣子さんは2時間かけて克さんに会いに行った

手動で運転できる車で駅前で彼女を待っていた

「俺、歯科技工士を目指して勉強しているんだ。こんな体になっちゃったけど。誰かの役に立ちたいんだ」

「すごいな、なんか尊敬する」

「違うんだ。実は怪我したとき、ずっと死にたいって思ってた。でも病院で初めて君を見たとき、なんか好きになってさ。なんか頑張ろうって、もう一度頑張ろうって、生きてみようって思ったんだ」

互いに惹かれる気持ちは純粋で、そこには障害も距離も関係なかった

3回目のデートで交際が始まった

しかし知覚異常で絶え間なく襲ってくる 痛みのため、

2人のデートは主に克さんの自宅ばかり

「普通のカップルみたいに流行りの店に連れていけなくて、こんな身体でごめんな」

「克くんの身体なんて私 何とも思っていないよ。なんで謝ったりするの?克くんと一緒にいられるだけで 俺だけで幸せなのに」

以来、克さんは身体のことを口にしなくなった

そして彼はある決意を固める

歯科技工士の国家試験に合格して就職できたら、彼女に結婚を申し込もうと

 

2014年3月、かねてからの予定通り 岡山の病院を退職する日が来た

だが、彼女は実家の熊本には帰らなかった

香川の病院に移り、2人は一緒に暮らし始めた

2015年3月、歯科技工士の国家試験に合格

「熊本行こうか?麻衣子のご両親に挨拶に行ってもいいかな?」「はい」

 

2人は麻衣子さんのご両親がいる熊本に向かった

「お父さん、お母さん、麻衣子さんと結婚させてください。こんな身体だから心配かけてしまうこともあるかもしれません。でも麻衣子さんには迷惑をかけませんので、どうかお許しください」

「麻衣子はもう決めているんだろう?身体がどうとか障害とかも何も気にしないでいい。ただ仕事して家庭を支えていくという当たり前のことをやってくれたらそれでいい」

「ありがとうございます」

 

「私 決めた。入籍5月25日にする」「えっ?」

それは克さんが事故に遭った日、彼にとって人生最悪の日、最も忘れたい日

麻衣子さんに押し切られ、2015年5月25日、2人は入籍

 

5月25日を選んだ理由は、入籍した日に渡された手紙に記されていた

“大好きな克くんへ、2015年5月25日、今日は私にとって特別な特別な日になりました。克くんにとってはどんな日だろう…忘れられない日だよね。だけど生きててくれてありがとう。ほんまにありがとう。まいこが克くんに出逢えたのは、克くんがちゃんと生きててくれて前を向いて歩いてくれたから。まいこが克くんを支えているんじゃなくて、ほんまは克くんがまいこを支えてくれてるんだよ。ありがとう。まいこに出逢ってくれてありがとう。愛してくれたありがとう。まいこより長く生きて。お願い。克くんは忘れたかもしれないけどまいこに前「普通のカップルみたいに俺と手をつないで歩きたいだろ?」って言ったよね?まいこは克くんの後ろを歩くだけで十分幸せだよ。心がつながっているから。手なんかつないで歩けなくてもそれでいい。歩けるようにならなくてもいいよ。まいこは本当に幸せものです。こんなに愛されて大好きな人と一生一緒にいれる。これから先も大変なこといっぱいあるかもしれない、でも2人で乗り越えていこう。今日からは5月25日は最高の日。一緒にお祝いできる日になったね。2015年5月25日、大上麻衣子”

 

2015年8月30日、多くの人たちに祝福されて結婚式を挙げた

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ノーベル医学・生理学賞を受賞した北里大学:大村智

 

1935年、山梨県韮崎市神山村

村の有力者である父と小学校教師だった母の間に生まれた5人兄弟の長男

喧嘩っ早いガキ大将だったが、家の中では、違っていた

寝る前は必ず家族全員の下に行き、正座して

「お父様 おやすみなさい」「お母様 おやすみなさい」を言う

親のしつけも厳しく、食事も家族全員が揃わなければ始まらなかった

 

学校以外の時間は農作業(家の仕事)を手伝っていた

ある日、落ち葉などを拾い、堆肥を作っていた時のこと、

微生物の力で発酵し、60℃近くにもなる堆肥に触れた

これが最初に科学に目覚めた瞬間だった

 

●「人のためになるってことが大事なんだよ」

祖母が口癖のように語っていた言葉だった

人のためを体現していたのは、他ならない父親だった

当時、村には水道がなかった

そこで地下水を引き、簡易水道を張り巡らせ、

村のために無償で提供したという

 

英語は必ず必要になると戦時中にもかかわらず、

親が英語の勉強にこだわった

 

高校時代は卓球の国体選手に

山梨大学時代はスキーに没頭し、国体選手に

農業とスポーツ、勉強は少し…

卒業後は上京し、工業高校 定時制の教師となった

生徒から信頼が厚かったという

 

・研究の道へ

期末テストの最中、大村の目に飛び込んできたのは、

油の付いた生徒の手だった

工場で仕事をした後、登校し、テストを受けていた

「家が貧しいとか色んな事情があるでしょうけど私は一体何をやってるんだ。スキーばっかりやっていて、ようやく単位をとって卒業した状態で。これでもう一度やり直そうと勉強を始めました」

 

一念発起し、研究の道へ

失明を引き起こす感染症の特効薬:イベルメクチンを開発

毎年3億人を救っている

 

「人のために少しでも役に立つことないか。微生物の力を借りて何かできないか、これを絶えず考えております」

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1983年、神奈川県相模原市で4人兄弟の長男として生まれる

2歳になった時、旅行会社で働いていた父が、

仕事の拠点をアメリカ バージニア州に移転し、家族で移住した

アメリカの暮らしは、しんにとって順風満帆ではなかった

地元の高校に進学すると地獄のような日々が始まった

 

●いじめと後悔

「お前 腐ってるから洋服を燃やした方がいいんじゃないか」

同級生から言葉のみならず肉体的にもイジメを受けるように

文化が違う、言葉が違う、何より肌の色が違う、差別が多かった

黒人の同級生も身を守るため体の小さい しん をターゲットにした

そんな絶望から救ってくれたのが、あるクラスメイト

彼は弱い者いじめを嫌う正義感の強い人間だった

その後、彼の友人になり いじめは次第になくなっていった

「いじめられている人がいたら助けられるような人間になりたい」

そんなことをも思って矢先、しんはある現場に遭遇する

「助けて!助けて!」

一人の女性が複数の男性に暴行を受けている姿

怖くて助けられなかった

助けを求めている人を見捨ててしまった…しんは後悔した

 

●ホンジュラス

2002年、バージニア州の大学へ進学

大学で知り合った友人から

「ホンジュラスで孤児院のボランティアを募集してるんだけど行ってみない?」

大学はちょうど冬休みで暇だった

軽い理由からホンジュラス行きを決めた

2004年、21歳の時、初めてホンジュラスを訪れる

そこで しんは、ストリートチルドレンを目撃

家族に捨てられ家を無くし、

時には犯罪にも手を染める世間から見放された子供たち

さらにボランティアに行った孤児院では、

明るく笑っている子供たちから壮絶な生い立ちを聞く

しんは子供の強さ、屈託のない笑顔に惹かれ、

いつしかホンジュラス、子供たちの魅力に夢中になった

 

●カルメン

そんなある日、貧しいスラムに暮らす少女:カルメンと出会う

10歳の女の子がカゴのオレンジを売り歩いていた

この子の生活の少しでも足しになればと、

しんは彼女と会うたびにオレンジを買えるだけ買っていた

それをきっかけに2人の間に親子のような絆が生まれる

ある日、カルメンから一通の手紙を受け取る

それは彼女の切なる願い、一軒の家の絵とメッセージだった

“私の家は貧しいけれど、いつか近所の友達とみんなで安全な家に住んでみたいな。それが私の夢”

当時、カルメンが暮らしていた家は、段ボールで作られた家

貧乏学生のしんには、家を作るなんてできやしない

そう考えていた しんの脳裏に、あの辛い記憶がよみがえる

助けを求めている人を見捨ててしまい、ずっと後悔していたあの記憶

もう後悔したくない、何かしないといけない、

何もせずに後悔するなら兄かやってから後悔しよう

 

 

●行動

早速、カルメンとスラムの人たちの願いを叶えるため、

資金を集めに一度アメリカに戻る

大学の清掃員やパン屋で働いてお金を貯め、

地道に粘り強く募金を呼びかけた

名もなき大学生の訴えに協力者はどんどん増え、

気付いた時には3年間で3000万円の資金を集まっていた

 

2006年、沼地の土地を購入

カルメンが暮らしていたスラムの人と共に手作りで村を作り始める

3年後、現在のソレアダ村が完成した

カルメンが描いた家の絵をもとに、

コンクリート製の家を造り上げた

 

2011年、ストリートチルドレンを救うべく村に孤児院を建てる

「ホンジュラスの子供は、学校に行かないとギャングに入らないといけない。銃やマシンガンを持っているより鉛筆やノートを持っていた方が良い」

教育を受けることが貧困、治安の改善につながると信じている

しんが、新たな募金で今までに建てた学校は全部で20校

ホンジュラスに学校を1000校建てる、それが今の しんの夢

 

スチューデンツ・ヘルピング・ホンジュラス

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2009年、山梨県で行われていた骨董市

骨董品の商いをしている山名さんは、その日 珍しいハガキを見つけた

消印は1945年、太平洋戦争末期に出されたもの

当時 小学生の女の子が家族に送ったもの

その葉書には宛名の下に「鉛筆部隊」という印鑑が押してあった 鉛筆部隊とは、東京都世田谷区立代沢小学校に当時 在籍していた児童のこと

●鉛筆で戦った子供たち

1944年8月12日、代沢小学校の生徒455名と教師が長野県松本市に集団疎開した

将来のある子供たちを空襲から守るために

都会の小学生を地方に避難させ、そこで集団生活をさせた

当時、10歳だった榎本明美も2歳年上の兄:徹と共に親元を離れることになった

一昼夜かけて長野県の浅間温泉に辿り着く

児童たちは ここに点在するいくつかの温泉宿に分かれ、寝泊まりした

明美は引率の柳内達雄先生と共に千代の湯という旅館で暮らすことになった

児童たちはそれぞれ住んでいた地区ごとに

分かれて旅館に宿泊していたため、ほとんどが顔なじみだった

中には人数の調整で別の地区から入ってきた高島幸子もいた

 

●鉛筆部隊

そんなある日のこと「今日は君たちに伝えたいことがあります」

「今お国のために兵隊さんたちがセンチで必死に戦ってくれていることは、みんなも知ってるな?兵隊さんたちだけじゃない。東京に残った君たちのお父さん、お母さんたちも空襲の中、マイン地位件名に戦っているんだ。だから君たちも戦え」

「戦うって、どうやって戦うんですか?」

「君たちはまだ子供だ。でも将来この国を背負う君たちだからこそ、お父さんもお母さんも辛い気持ちを押し殺して君たちをこの安全な浅間温泉へ送り出してくれたんだ。慣れない生活が寂しいのはよく分かる。お腹いっぱい食べられないのが辛いのもよく分かる。君たちがそんなことを不満に毎日を過ごしていたら君たちのために戦ってくれている兵隊さんたちやご両親の気持ちはどうなる?」

「私たちは全然寂しくありません」

「その気持ちを毎日 故郷のご両親や戦地にいる兵隊さんたちに手紙で伝えるんだ。それを書くのが君たちの戦いだ。よって今日から君たちを鉛筆部隊と名付ける」

「はい!」そしてその日から鉛筆部隊の戦いは始まった

 

発見された鉛筆部隊の手紙には、生活の苦しさや寂しさは全く記されていない

戦地にいる兵隊や東京で空襲の恐怖と闘っている家族のため、

自らの気持ちを押し殺して楽しく明るい手紙を書き続けた

 

1945年2月28日、千代の湯に突然 若い兵士たちが宿泊することになった

「君たちは?」航空隊の今野勝郎軍曹が聞いた

「鉛筆部隊です」「鉛筆部隊?何だか頼もしいな。鉛筆部隊に敬礼!」

6人の兵士は、旅館近くにある松本飛行場にやってきた

整備中は飛行訓練ができず、昼過ぎにはいつも千代の湯に戻っていた

そのため子供たちは毎日兵士たちと一緒に遊んでもらえるように

 

数日後、兵士は突然、子供たちの前から姿を消し、戦地に赴いた

子供たちにできるのは彼らの無事を祈ることだけだった

 

だが…深夜 目を覚ました明美は、旅館のスタッフの話を盗み聞きした

「せめて無事で…」「ばか、特攻隊が生きて帰れるわけないじゃないか」

兵士たちは特攻隊の隊員だった

1945年4月1日、4日前に沖縄ケラマ諸島沖で敵艦隊に突入し、

壮絶な戦死を遂げた特攻隊員の名前を読み上げるニュースを聞いた

「勇士の名前は広森達郎大尉、林一満少尉、今野勝郎軍曹…」

敵艦を撃沈する大手柄を立てたとその場にいた男子たちは大歓声を上げた

だが対照的に女子は兵士たちの死に対して悲しみを抑えることができなかった

 

●未来を託した手紙

翌日、千代の湯に鉛筆部隊宛ての手紙が届いた

差出人は今野勝郎軍曹

“鉛筆部隊の諸君、お元気にお暮しのことでありましょう。兵隊さんも元気でいよいよ明日出撃であります。皆さんがこの便りを見ている頃は兵隊さんはこの世の人ではありません。次の世を背負う皆さん方がいるので喜んで死んでいけます。ほんとにお世話になりました。にっこり笑って散っていきますよ。ではお元気で 次の世をお願いします”

そして6人の死から5か月後、1945年8月15日、戦争は終わった

 

10年前、田中幸子(旧姓:高島)さんは、

ついに今野軍曹の甥と面会を果たし、今も交流を続けている

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●自らの命と引き換えに多くの人を救い慕われる日本人医師:肥沼信次

1908年、東京 八王子で誕生した

外科医だった父:梅三郎の影響を受け、日本医科大学に進学

アインシュタインを知り、ドイツへの強い憧れをもつように

ドイツ生まれのユダヤ人で相対性理論を生んだ天才物理学者

肥沼はアインシュタインの洋書を読み込む中で、

“誰かの為に生きてこそ人生には価値がある”という言葉に強い影響を受ける

日本医科大学を卒業した肥沼は、

現在の東京大学にあたる東京帝国大学医学部で放射線を研究

 

1937年、29歳で憧れのドイツに留学

当時のドイツは、ナチスが台頭し軍事力の強化にまい進

不穏な空気をよそにベルリン大学で放射線の研究に明け暮れる

 

1939年9月、第二次世界大戦勃発

肥沼のいたベルリン大学も戦火に見舞われる危険があった

大使館からの帰国勧告を無視してドイツにとどまった

肥沼は放射線に関する論文を数々執筆し、教授候補になるまでに

終戦間近、ベルリンが攻撃を受け始めると肥沼は、

北部の都市、エーデスバルデに疎開

疎開先の自宅で診療所を開き、地元の人々を診ていた

 

1945年5月9日、ドイツ降伏

終戦から数日が経ったある日、

ソ連軍地区司令部のシュバリング司令官が訪ねてきた

「ヴリーツェンの伝染病医療センターに責任者として来てもらえませんか?」

当時、ヴリーツェンでは、発疹チフスが猛威をふるっていた

ペスト、マラリアと共に歴史上 多くの命を奪ってきた伝染病

ヴリーツェンは難民や捕虜の収容所がまわりに多くあり、

衛生状態が悪くチフスが大流行していた

さらにドイツ人の医者は兵隊にとられ医者が不足している状況

近くの待ちにいた肥沼に白羽の矢が立った

伝染病は専門外だったが、アインシュタインの言葉を思い起こし、

「分かりました。引き受けましょう」と快諾した

 

1945年9月、ヴリーツェンに向かった

伝染病医療センターのスタッフは数人の看護師だけ

他の医師たちは劣悪な環境に逃げていった

「安心して下さい。僕は患者を見捨てて逃げることは絶対にしません」

伝染病医療センターには、次々とチフス患者が運ばれてくる

そんな中、来る者を拒まず、肥沼は1人ですべての患者を診ていった

「先生、もうベッドがいっぱいです。これ以上入院患者を受け入れられません」

「大丈夫、床に藁と毛布を敷いて回復に向かっている患者はそちらの移動してもらって、できるだけ患者さんを受け入れましょう」

「看護師の数も限られているんです!これ以上患者が増えたら衛生状態を保てません」

「お願いします!目の前の命を救うためにあなたたちも頑張ってください」

センターでの治療が終わり、夜になると

病院まで来られない患者の下へ毎日往診に出かけた

スタッフが一丸となって治療にあたる中、薬が不足する事態に

センターにあった薬が底をついた

元々、街にあった3軒の薬局は戦争ですべて破壊され、

薬の入手は不可能な状況

肥沼は週1日の休みを利用して自ら薬の買い付けに奔走

時には大荷物を抱えたまま、徒歩で何十キロも離れた街を周った

 

1946年3月6日、肥沼はチフスの感染

体を酷使し続けてきた肥沼に体力はほとんど残っていなかった

薬を与えようとすると「この薬は他の患者さんに使ってくれ」と拒否

肥沼は最後まで薬を口にすることはなかった

1946年3月8日、肥沼信次 逝去 享年37

この事実は、東西冷戦により半世紀 表に出ることはなかった

 

肥沼の死から43年後、1989年、ベルリンの壁が崩壊

街の人々の後押しで市長や教授が動き、

その1か月後、肥沼の遺族を探す記事が朝日新聞に掲載

その記事を肥沼の弟が見たときにより

日本とドイツ それぞれで肥沼の情報が明らかになった

ドイツでは教科書にも掲載されている

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