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2009年、山梨県で行われていた骨董市

骨董品の商いをしている山名さんは、その日 珍しいハガキを見つけた

消印は1945年、太平洋戦争末期に出されたもの

当時 小学生の女の子が家族に送ったもの

その葉書には宛名の下に「鉛筆部隊」という印鑑が押してあった 鉛筆部隊とは、東京都世田谷区立代沢小学校に当時 在籍していた児童のこと

●鉛筆で戦った子供たち

1944年8月12日、代沢小学校の生徒455名と教師が長野県松本市に集団疎開した

将来のある子供たちを空襲から守るために

都会の小学生を地方に避難させ、そこで集団生活をさせた

当時、10歳だった榎本明美も2歳年上の兄:徹と共に親元を離れることになった

一昼夜かけて長野県の浅間温泉に辿り着く

児童たちは ここに点在するいくつかの温泉宿に分かれ、寝泊まりした

明美は引率の柳内達雄先生と共に千代の湯という旅館で暮らすことになった

児童たちはそれぞれ住んでいた地区ごとに

分かれて旅館に宿泊していたため、ほとんどが顔なじみだった

中には人数の調整で別の地区から入ってきた高島幸子もいた

 

●鉛筆部隊

そんなある日のこと「今日は君たちに伝えたいことがあります」

「今お国のために兵隊さんたちがセンチで必死に戦ってくれていることは、みんなも知ってるな?兵隊さんたちだけじゃない。東京に残った君たちのお父さん、お母さんたちも空襲の中、マイン地位件名に戦っているんだ。だから君たちも戦え」

「戦うって、どうやって戦うんですか?」

「君たちはまだ子供だ。でも将来この国を背負う君たちだからこそ、お父さんもお母さんも辛い気持ちを押し殺して君たちをこの安全な浅間温泉へ送り出してくれたんだ。慣れない生活が寂しいのはよく分かる。お腹いっぱい食べられないのが辛いのもよく分かる。君たちがそんなことを不満に毎日を過ごしていたら君たちのために戦ってくれている兵隊さんたちやご両親の気持ちはどうなる?」

「私たちは全然寂しくありません」

「その気持ちを毎日 故郷のご両親や戦地にいる兵隊さんたちに手紙で伝えるんだ。それを書くのが君たちの戦いだ。よって今日から君たちを鉛筆部隊と名付ける」

「はい!」そしてその日から鉛筆部隊の戦いは始まった

 

発見された鉛筆部隊の手紙には、生活の苦しさや寂しさは全く記されていない

戦地にいる兵隊や東京で空襲の恐怖と闘っている家族のため、

自らの気持ちを押し殺して楽しく明るい手紙を書き続けた

 

1945年2月28日、千代の湯に突然 若い兵士たちが宿泊することになった

「君たちは?」航空隊の今野勝郎軍曹が聞いた

「鉛筆部隊です」「鉛筆部隊?何だか頼もしいな。鉛筆部隊に敬礼!」

6人の兵士は、旅館近くにある松本飛行場にやってきた

整備中は飛行訓練ができず、昼過ぎにはいつも千代の湯に戻っていた

そのため子供たちは毎日兵士たちと一緒に遊んでもらえるように

 

数日後、兵士は突然、子供たちの前から姿を消し、戦地に赴いた

子供たちにできるのは彼らの無事を祈ることだけだった

 

だが…深夜 目を覚ました明美は、旅館のスタッフの話を盗み聞きした

「せめて無事で…」「ばか、特攻隊が生きて帰れるわけないじゃないか」

兵士たちは特攻隊の隊員だった

1945年4月1日、4日前に沖縄ケラマ諸島沖で敵艦隊に突入し、

壮絶な戦死を遂げた特攻隊員の名前を読み上げるニュースを聞いた

「勇士の名前は広森達郎大尉、林一満少尉、今野勝郎軍曹…」

敵艦を撃沈する大手柄を立てたとその場にいた男子たちは大歓声を上げた

だが対照的に女子は兵士たちの死に対して悲しみを抑えることができなかった

 

●未来を託した手紙

翌日、千代の湯に鉛筆部隊宛ての手紙が届いた

差出人は今野勝郎軍曹

“鉛筆部隊の諸君、お元気にお暮しのことでありましょう。兵隊さんも元気でいよいよ明日出撃であります。皆さんがこの便りを見ている頃は兵隊さんはこの世の人ではありません。次の世を背負う皆さん方がいるので喜んで死んでいけます。ほんとにお世話になりました。にっこり笑って散っていきますよ。ではお元気で 次の世をお願いします”

そして6人の死から5か月後、1945年8月15日、戦争は終わった

 

10年前、田中幸子(旧姓:高島)さんは、

ついに今野軍曹の甥と面会を果たし、今も交流を続けている

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