ニッポン無名偉人伝で紹介

中国 内モンゴル自治区のゴビ砂漠

広さは130万㎢、日本の国土3.5倍にも及ぶ

中国の砂漠緑化は不可能と言われた時代

砂漠に埋もれつつあった貧しい村:恩格貝(オンカクバイ)

オンカクバイとはモンゴル語で平和と幸福を意味する

●砂漠に300万本のポプラを植林した日本人:遠山正瑛

1年間に中国では東京都と同じ面積が砂に飲み込まれている

風に吹かれた砂が移動し、砂漠に変えてしまう飛砂

食い止めるには木が生い茂る森を作らなければならない

 

1906年(明治39年)、山梨県富士吉田市の大正寺で生まれた

京都大学で園芸を学び、後に鳥取大学の教授となった

心血を注いだのは砂丘での野菜栽培

鳥取の特産になった砂丘長芋は遠山の功績によるもの

 

遠山が初めて中国に来たのは30歳の時、

国費留学生として砂漠の研究にやって来た

しかし1937年(昭和12年)日中戦争が始まり、遠山はスパイ容疑で逮捕される

遠山は命からがら日本に帰国した

 

遠山が恩格貝に来たのは鳥取大学教授を退官後、73歳の時

当初、遠山はポプラではなくクズを植えてきた

クズは水が少なくても良く育ち、地下1.5mほどまで根を張る

クズの種は全国の小学生が砂漠緑化のために送ってくれたもの

植えた数は2日かけて3000本…順調に思われた

翌日、クズは ほとんど放牧のヤギに食い散らかされてしまった

「木を見ていても飯は食えない」と地元住民は言った

遠山は黄河に身を浸しながらヤギの対策を考え、クズからポプラに変更

 

砂漠は厳しかった…

夏は気温50度、冬は-20度、日中照りつけられた砂は70度を超える

最初の2年で20万本を植林したが、半分は枯れた

「やればできる やらなきゃできない」

遠山は吸水性の高い日本の紙おむつの素材を水に溶かし、

根元につけて乾燥を防いだ

今でこそ井戸の水をホースで水を撒いているが、当時はバケツリレー

ポプラは植えてから2週間おきに、水を撒かなければならない

遠山は10年の歳月を要し、300万本のポプラを植えた

 

1996年、時の中国 国家主席:江沢民が遠山を訪ね、

友好の固い握手を交わし、中国政府は遠山の貢献を高く評価した

この時も遠山は作業着を着たまま、「これが私の制服です」と言った

1999年、遠山が93歳の時に銅像が建てられた

中国で生前に銅像が建てられてのは、毛沢東と遠山だけ

2003年、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞

そして2004年2月、遠山正瑛 永眠

「緑なくしては人間生活できない。知恵のある人 知恵を出す。物のある人 物を出す。金ある人 金を出す。命出す人 命出す。4つが組んで頑張れば世界の砂漠は緑化する。これが私の信念」と生前語っている

 

今も遠山が立ち上げた沙漠緑化実践協会は植林を続けている

植林したポプラは450万本

沙漠緑化実践協会 恩格貝事務所長:間瀬弘樹は、

日本からのボランティアの受入や指導などを行っている

砂漠の森は、飛砂を防ぎ農地が生まれ、貧しかった恩格貝は豊かになった

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海外で活躍した名もなき日本人

2003年、イギリス人のフォールさんが来日し、

初めて日本で語られた物語がある

●420人の敵国兵を救った駆逐艦 雷の艦長:工藤俊作

1901年、山形県高畠町に生まれた工藤俊作

19歳の時、広島県にある江田島の海軍兵学校に入学

そこで後の総理大臣となる鈴木貫太郎 校長から

「惻隠の情」という言葉を受けた

戦った戦士たちが戦闘を終えた後 互いの健闘を称え合い 勝者が敗者を労う

自分より弱い人間を理解し 共感や思いやりが必要という考え方

弱き者を助ける精神こそ日本の武士道と教わった

海軍兵学校を卒業後、海軍少佐に昇進

41歳の時に駆逐艦 雷の艦長に就任した

武士道を実践するべく工藤は、鉄拳制裁を禁止した

鉄拳制裁が横行していた当時の日本海軍において異例の訓示だった

工藤の下、駆逐艦 雷は結束力を強めた

1942年、太平洋戦争の真っただ中、日本は連合国と戦争

インドネシア ジャワ島の北東スラバヤ沖で激しい戦いを繰り広げていた

工藤が艦長を務める駆逐艦 雷も参戦

当時の戦況は日本海軍が圧倒的に優勢

 

イギリスをはじめとする連合国海軍は猛攻撃を受け

フォール少尉が乗る艦エンカウンターは日本軍の戦闘艦に包囲されていた

砲弾がエンカウンターに命中しエンジンが停止

もはや脱出する以外 方法はなかった

こうしてイギリス兵 全員が救命ボートで脱出

その直後、エンカウンターは日本海軍の攻撃によって炎上 海に沈んだ

近くには沈没した他の船の乗組員も含め400名以上が漂流

救命ボートは8隻しかなく全員が乗るには不十分

オランダ軍が助けてくれる、と信じていた

逃げる前に近くにいた味方のオランダ軍の基地にSOS救助要請の無線を打っていた

しかし漂流から20時間経っても助けは来なかった

誰もが死を覚悟していたその時、フォールの前に現れたのが駆逐艦 雷だった

乗組員220人の小型軍艦だが、連合軍の船を3隻も撃沈していた

 

この辺りは前日 日本の輸送船が潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没したばかりの危険な海域

漂流物を発見した工藤は戦闘用意を命令

潜水艦に注意するよう指示、漂流物を射程距離に捕らえた

工藤が見たのはボートに掴まり必死に助けを求める400名のイギリス兵

 

目の前に現れたのは敵国の艦、イギリス兵たちは死を覚悟した

しかしどういうわけか攻撃を仕掛けてこない日本軍

その時、工藤は苦悩していた…

目の前で必死に助けを求めるイギリス兵がいる

日本軍戦闘艦の艦長という立場でありながら、もしも救助活動中に攻撃を受け、

艦が沈没するようなことが起きれば処罰され職を失う

工藤が下した決断は「敵兵を救助せよ!」

工藤は武士道の惻隠の情を貫いた

こうして始まった世紀の救助劇

飲まず蔵図で漂流し続けたイギリス兵は縄梯子も昇れない状況

「船の動かすのに必要な最低限の人間だけを残し、あとは全員 救助に向かえ!」

それは日本海軍史上、極めて異例の命令だった

危険海域でありながら戦闘のための人員を裂いて敵を救う

自らの命を顧みない捨て身の救助

さらに日本兵たちは自ら海に飛び込み、体力の限界を迎えていたイギリス兵を救助

自力で上がることができないイギリス兵は体にロープを巻き付けて引き上げた

甲板では油や汚物にまみれているイギリス兵の体を優しく拭き労わる

日本海軍にとっても貴重な食料や真水を与えた

「目の前で救いの手を求めている人間を救う事より大切なことなどない」

と、さらなる漂流者の救助を支持

工藤は溺れていた全てのイギリス兵を救助、その数422人

「諸官は勇敢に戦われた 我々はあなた方を殺めるような事はしない 戦いが終わった今 諸官たちは日本海軍の名誉あるゲストである」

工藤は武士道の精神をもって弱っているイギリス兵たちを労い、最大限の敬意を払った

その後、422人のイギリス兵は、翌日にボルネオ島の病院へ引き渡された

 

実は、これは第二次世界大戦から21世紀になるまで世に出る事のない知られざる話だった

工藤が敵兵を救助した1942年は第二次世界大戦中、

420人もの敵国兵を救った、という話を公表してしまうと

工藤は非国民扱いされ非難の的になる可能性があった

工藤から報告を受けた当時の上官:南雲忠一 中将は、

「この話を公のするのはやめよう、お前は非国民扱いされてしまう。しかしお前は決して間違っていない」

理解ある上司に工藤は庇われ、結果 話は半世紀に渡り 世に出る事はなかった

その後、工藤は雷を降り、別の艦の艦長に就任

直後、雷は敵の攻撃を受け沈没 可愛がっていた当時の部下全員が死亡

そのショックから終戦後 工藤は戦友と連絡をとらず

ひっそりと余生を過ごし、1979年、77年の生涯を終えた

 

フォール少尉は終戦後、イギリスに帰国

1996年、フォールは自叙伝を出版

これにより54年の時を経て、奇跡の物語が世に知られることになった

本の1ページ目には工藤艦長への感謝の念がつづられている

その後、心臓病を患い自らの命が長くないと悟ったフォールは2003年に来日

外務省に出迎えられたフォールは半世紀前の救助劇を語り、

初めて奇跡の物語は日本に伝えられた

その時、工藤の消息を誰も知らず、再会を果たす事は叶わなかった

その5年後、工藤のお墓が判明

するとフォールは、2008年に再び来日し工藤の墓を参った

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海外で活躍した名もなき日本人

 

ガーナの人を貧困から救いために人生を捧げ、村の長老となり

わずか27歳という若さでこの世を去った武辺寛則

 

●長老になり貧しい村を救い27歳で亡くなった武辺寛則

 

1961年、長崎県佐世保市で生まれた武辺寛則

武辺は10歳の時、ある新聞記事に目が止まった

それはアフリカの貧しい人たちのために助ける日本人の記事

僕もアフリカの貧しい人たちを助けたい、幼い頃からの彼の夢だった

大学卒業後、福岡の商社へ就職、順風満帆な生活を送っていた

しかし商社に入社して2年が経った ある日、武辺は辞表を出し会社を辞めた

「辞めてどうするんだ?」「アフリカに行きます」

安定した職を捨てアフリカへ行くことを決意

1986年、25歳の時、ボランティア団体を通じてガーナへ渡った

当時のガーナは主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況

アフリカの中でも最も貧しい国の一つだった

武辺が訪れたアチュア村は電気や水道も通っていない特に貧しい村

彼がまず行ったのは農業の改革だった

「みなさん、まずは焼き畑農業を止めないといけません」

焼き畑農業は、草木を焼いた灰が肥料になり土壌を改良するが、

数年で地力は落ち、収穫量が減少してしまう

その提案に村人たちは

「俺たちはずっとこのやり方でやってきたんだ。焼き畑農業を止めて今さら何をすればいいんだ」

農業の素人だった武辺はすぐに有効な答えを提示できなかった

しかし彼は村の発展を第一に考え、何度も根気強く村人たちと話し合いを重ねた

その数、半年間で100回

武辺の真摯な姿勢に村人も心を動かされ、いつしか信頼関係が生まれていった

村人たちとの信頼関係を築き、

これからきっとこの村は良い方向に向かう、と思っていた矢先、

大干ばつ(1987年6月)が村を襲った

雨期になっても雨が全く降らず日照り続き

タピオカの原料であるキャッサバやコーンなどの主要作物のほとんどが枯れた

貴重な食料源を失い、村の生活はさらに苦しい状態となり多くの人が村を去った…

武辺は決して下を向く事なく、この難題にも解決策を探し始めた

すると大干ばつで全ての農作物が壊滅する中、

希望の光となるパイナップルを見つけた

それは細長く果汁たっぷりのファンティパイナップル

特徴は干ばつにも負けない暑さへの耐性

それまで村でパイナップルを作っていたのは、わずかに5~6人ほど

しかもその農業技術は未熟で多く作れず自分たちが食べる為だけに栽培していた

「みんなで干ばつに強い このパイナップルを作ろうじゃないか!」

 

安定した収入源になるようパイナップルを村の期間農業にする事業を始めた

武辺が働きかけたところ、村の1/3にあたる65人もの村人が協力

武辺は誰よりも率先して身を粉にして懸命に働いた

希望に光が見えかけたそんな時、武辺はマラリアを発症

過酷な肉体労働で体が弱っていた武辺は1年間に3度もマラリアにかかった

生死の境をさまよった武辺は、マラリアから生還するとすぐに畑を耕し始めた

パイナップル作りを始めて半年経った頃、資金不足に陥った

武辺はガーナの日本大使館へ資金援助の要請に行った

大使館からは思ったような良い返事が得られず、万策尽きたかに思えた

しかし武辺は決して諦めなかった

武辺にとって縁もゆかりもない他の国の大使館にかけあい、

アチュア村への資金援助をお願いした

断られても断られても足を運び、誠意を伝え続け、

ある国の大使館から資金援助の約束をとりつけた

こうして武辺がとりつけた援助のお陰でパイナップルの栽培を続けることができた

 

ある日、武辺は村の首長から呼び出された

「あなたはこの村の最大の恩人です。この村の長老になってほしい」

「貧しいこの村で なたに恩返しができるのは長老という名誉ぐらいしかないのです」

「ぜひ私たちの長老になってください」

こうして武辺は村で首長の次に偉い長老という名誉を与えれることになった

1988年9月24日、26歳の武辺は長老に就任

 

念願のパイナップルの収穫まであと半年…

夢の実現まであとわずかと迫った時…

車を運転することが出来た武辺は、

急病の村人を病院まで運ぶようお願いされた

舗装もされていない道を病院まで猛スピードで走っていたその時、車が横転

武辺はすぐに病院に搬送されたものの手遅れだった

 

武辺寛則 急逝、まだ27歳の若さだった

武辺は志半ばにして短い人生に幕を閉じた

武辺という日本人のリーダーを失ってからも村人は武辺の遺志を継ぎ、

懸命にパイナップル栽培を続けた

そして武辺の死から半年後、念願のパイナップルが実った

しかも畑はそれまでの50倍以上の広さに

25年後、生産量は年間5000トン

パイナップルの収益で村の生活も向上した

ガーナで最も貧しいと言われた村は、今では電気も水道も完備された

 

村は武辺への感謝の気持ちを世代を超えて伝える為にパイナップルの石碑をたてた

石碑には“今は亡き 武辺寛則に捧ぐ…”と刻まれている

亡くなって25年経った今でも村人から彼への感謝の言葉が止まることが無い

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

2012年5月、アメリカ アイオワ州

テイラー・モリスは海軍の爆発物処理班に所属

数か月前からアフガニスタンの紛争地域で地雷の処理にあたっていた

地雷はテイラーの両足と両腕までも吹き飛ばした

事態を知らされた恋人の介護福祉士をしていたダニエル・ケリーは、

ショックと不安で心が押しつぶされそうだった

 

●両手両足を失った兵士を支え続けた恋人の無償の愛

出会いは中学生の時、とにかく気が合った2人は大親友になった

そして高校に進学すると恋に落ちた

2人はデートを重ね、愛を深めていった

高校卒業後、テイラーは海軍に入隊し、爆発物処理班を志願

一方、ダニエルは在宅看護に仕事をしつつ地元の大学へ進学

 

世界をまわる4年間の任務終了まであと2ヵ月と迫っていた

そんな矢先…テイラーはアフガニスタンで事故にあった

ダニエルはテイラーに会うまでの間、思いを巡らせた

怖くなるのか?逃げたくなるのか?気分が悪くなるのか?大泣きするのか?

手足を失った恋人を愛し続けられるのか? 事故から3日後、ダニエルはワシントンの病院に搬送されたテイラーの元に駆け付けた

ダニエルが目にしたのは、何とか一命は取り留めたものの両足を失い、

右手は手首から下を左手は肘から下を失った変わり果てたテイラーの姿だった

その瞬間、不思議な事にダニエルは心の底から安心した

テイラーを前と変わらず愛しく思う自分がいた

「大丈夫、テイラー、私たちは乗り越えられるわ」

ただ一つダニエルが恐れていたことは、

四肢を失った彼が生きる事に絶望してしまう事

 

数週間後、意識がはっきりしてきたテイラーが直面したのは、

普通に出来ていたことが何一つ出来なくなっていた現実だった

幸い奇跡的に脳や脊髄に損傷はなかった

「ダニエル 僕は大丈夫だ。だから君はもう…」

「2人で一緒に目の前にある小さなことを一つずつクリアしていくの。必ず乗り越えられるわ」

 

ワシントンの病院でリハビリが始まった

ダニエルは仕事を辞め、テイラーのいる病院に泊まり込み、

医学療法、傷のケア、人工装具について学びながら過ごした

ダニエルの両親も2人の交際に反対することはなかったという

 

入院から1ヵ月で義手を付けたテイラーは、

2か月後には義足を装着し歩行訓練を始めた

短い義足に慣れ、痛みに耐えながらも昔と同じ身長になる義足で歩く事にチャレンジした

そして事故からわずか3か月後にはテイラーは義足をつけ街に出かけた

「全体的にみると絶望的になってもおかしくない状況でした。でも1つ1つの場面を思い出すと座れるようになった、また歩けるようになった、と喜びに満ちた画期的な出来事の連続でした」

そして4か月後にはダニエルとダンスが踊れるまでに回復

義手と義足を操り、少しずつ自分でできる事も増えてきた

隣にはいつもダニエルの姿がある

事故によって環境が変わっても一緒にいる事が何よりも楽しく、

何よりも幸せ、改めてそう感じるようになった2人

 

2014年5月、テイラーは2年に渡る病院でのリハビリ生活が終了したばかり

地元アイオワ州に戻り2人で新生活を始めていた

結婚は落ち着いてから改めて考えるのだという

2人にとって籍を入れるかどうかはあまり重要ではないそうだ

「彼は私のもう半分の体のような存在なのです」

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池上彰解説塾で紹介

コートジボワールとはフランス語で象牙海岸を意味する

15世紀にヨーロッパ人が、この地から象牙を輸送した

 

1960年、フランスから独立

マリなどの北の隣国からカカオ農園の為、

出稼ぎのため大勢 移民が流れ込んだ

北側の民族が増えるにしたがって南側の民族と衝突

2000年ごろ、南北各地の軍人が給与を払わない政府に抵抗、

北の反政府が武装蜂起したことをキッカケに南北の対立が一気に拡大

国を真っ二つに分けた内戦は10年近く続いた

民族が違うだけの理由で殺人、放火、略奪が行われ、一般市民が多数死傷

女性や子供を中心に約2万人の難民が発生した

 

●内戦を止めたコートジボワールの英雄

その英雄こそ、ディディエ・ドログバ

ドログバはプレミアリーグで2度の得点王を獲得した世界的なエースストライカー

5歳の時に、フランスに渡り、サッカーの英才教育を受けた

そのためフランスとコートジボワールの2つの国籍を持っていた

元々、強くなかったコートジボワール代表

ワールドカップに出場するならフランスの代表に選ばれるのが一番

しかしドログバは、祖国を愛する気持ちからコートジボワール代表を選んだ

彼の活躍でチームは瞬く間に力をつけ2005年、ワールドカップに初出場

この時、国内は内戦の真っただ中

ワールドカップ出場を決めた試合直後、

ドログバはロッカールームにカメラを呼び、国民にメッセージを送った

 

「コートジボワール国民の皆さん、今日ワールドカップ出場という共通の目標のもと、コートジボワールの様々な民族が共存してプレーできることが証明されました。歓喜によって人々は団結できます。今ここでひざまずいてお願いします…どうかお願いです!お願いです!豊かなコートジボワールで内戦が起きるのは許されません。武器を捨ててください。そして選挙をしましょう。それですべて良くなるはずです」

この一言によって内戦が一時的に停止した

 

2007年、いつも南部で開催されていた代表の試合を

北部で行うことを大統領に直談判

反政府組織が占領していた北部は長い内戦で荒廃、

サッカーの試合をするような環境ではなかった

ドログバの願いは政府を動かした

彼は直接 北部に出向き、

「北で試合をする これは「始まり」にすぎない。代表チームが6月にここに来るんだ」とスピーチ

歓喜する聴衆…ドログバの行動で南北がひとつになろうとしていた

 

2007年6月3日、電気も水道もない貧弱なスタジアム

コートジボワールとマダガスカル代表の試合が行われた

この試合はアフリカ中のメディアが注目

そこでドログバは、カメラの前で反政府リーダーに平和を約束させた

この日は南北関係なく国民が一丸となって応援

さらにドログバが見事 勝利のゴール…その瞬間 南北の心はひとつになった

これが暫定的な和平交渉のキッカケになった

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