●白血病の少女の夢を叶えた結婚式

1995年、サンディエゴでレズリー・リビエラは生まれた

両親と姉と幸せな4人家族

レズリーは地元でも有数の進学校に進んだ

成績は常にトップクラス

学校が終わると病院でボランティア

 

17歳のある日、体中に実に覚えのない痣が出来ていた

すぐに病院で検査をすると、白血病と宣告

絶対に死にたくない

そう思うレズリーには、お嫁さんになる夢があった

18歳になったら結婚しようと約束した恋人:ダニエルがいた

 

転校してきたダニエルを親切に校内を案内したのが出会いのキッカケだった

以来、2人の距離は急激に縮まり、ついには結婚を決意

その想いをすでにレズリーの両親にも伝えていた

 

大好きな彼と結婚したい、その夢を絶対に諦めたくない

後日、詳しい検査をすると医師は治せる白血病と診断

すぐに治療がはじまり、抗がん剤の投与が行われた

しかし抗がん剤の服採用はレズリーを苦しめる

吐き気、倦怠感、抜け毛…

そんなレズリーを支えたのが、恋人のダニエル

髪が抜けて坊主頭にしたレズリーに付き合ってダニエルも坊主になった

 

2013年7月、18歳の誕生日を迎えると2人は結婚式の準備を始めた

白血病を治し誰もが結婚式を挙げられると信じていたが、

血液中のガン細胞が医師の予想を上回るよりスピードで増殖

しかも臓器への転移も確認された

医師はこれ以上の治療を勧めなかった

全身にガンが転移し始め、耐えられない痛みが背中に走る

もはや結婚式どころではなくなっていた

それでも「私 結婚したい…」

両親は悲しみに暮れながらも、レズリーの夢…

ウェディングドレスを着て幸せな結婚式をする、

という夢を叶えてやりたいと思い、ダニエルと共に動き出す

 

ダニエルは学校にお願いし、結婚式の参列者を募った

苦しみに耐え、痛みに耐え、

ついに子供の頃から憧れだった結婚式当日を迎えた

 

2013年11月21日、レズリーは家族が見守る中、準備を整えていく

レズリーは憧れのウェディングドレスを着て、父とバージンロードを歩いた

ダニエルもレズリーとの結婚式を心から喜んだ

幸せそうな2人を多くの参列者が祝った

 

 

結婚式を終えたレズリーは、こう語った

「思い残す事はありません。だって諦めていた夢が叶ったんですから、とても幸せです」

 

その結婚式からわずか2週間後、レズリーは静かにこの世を去った

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●家族を日本に残しアンゴラで地雷を除去する福 栄重

 

高校卒業後、自衛隊に入隊

そこで地雷除去の指導などを行っていた

そこで出会ったのが自衛隊に勤めていたるみ子さん

福さんの正義感の強さに惹かれ結婚

その後、54歳で自衛隊を退職

自衛隊時代の実績を買われ、

地雷除去NGO:JMASの一員としてアンゴラに向かった

 

福さんは子供たちが無邪気に遊べる場所を作りたい、

と地雷除去に取り組んでいる

 

コマツが開発した地雷処理機

ビットと呼ばれる突起が回転して地雷を破壊していく

福さんは現地スタッフに操作方法を教えている

 

福さんがアンゴラで地雷を除去した面積は東京ドーム30個分にも及ぶ

 

「(地雷を踏んで死ぬのは怖くない?)いずれは死にますから。早いか遅いかの話で。人のためにだったら考える必要はない。みんな同じ地球人ですからね」

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●トンガの若者の夢をかなえた日本人:又平直子

1958年、静岡で生まれる

明るく活発で誰からも好かれる性格だった

高校の時にアメリカに留学

大学卒業後は得意の英語を活かして通訳や翻訳の仕事をしていた

1990年、旅行で初めてトンガを訪れる

32歳の直子は運命的な出会いをはたす

旅行中、町の美容室に立ち寄った

髪を洗ってもらおうとしたその時、男性:タシ・アフェアが現れる

トンガ人としては細身ながら相撲を習う親日家でもあった

こんな美しい女性 もう二度と逢えないかもしれない、と

一目惚れしたタシは直子に猛烈にアタック

タシの想いが届き、2人は交際を始めた

 

帰国した直子はタシと2年間の遠距離恋愛を経て、1992年に結婚

結婚を機にタシが来日、

東京の練馬区にあった小さなアパートで新婚生活を始める

そして直子の英語力とタシの人脈を生かし、

日本から南太平洋諸国への旅行をサポートする会社を設立

しかし日本人にとって馴染みのない国々…中々仕事は入ってこなかった

そんな中、直子は英会話講師のバイトをしてお金を稼ぎ、

タシは築地の魚河岸で働いた

 

お酒が好きなタシは毎日飲んで帰ってきた

生活が豊かでないにもかかわらずタシは仲間たちによくおごってしまい、

その事でケンカが絶えなかった

そんなケンカを重ねつつも、何とか旅行会社が軌道にのりかけた頃…

 

1995年1月17日、阪神淡路大震災

惨状をテレビで見ていたタシは「神戸に行ってくる」

「今から?仕事はどうするの?」

「直子、今はそんな事を言ってる場合じゃないだろ」

タシは全ての仕事を直子に任せ、神戸に旅立った

何の当てもなく神戸に行ったタシは懸命に被災者のために働いた

 

翌年、帰ってきたタシは、末期の肺ガンが判明

すでに手の施しようがない状態、余命2ヶ月宣告された

タシの希望もあり2人はトンガに戻る事に…

トンガの病床で献身的に看病する直子

そして最後が迫ったある日…

「トンガには体型に恵まれた人が多いだろ。俺は彼らを日本のスポーツで活躍させてあげたかった」

それからしばらくしてタシは息を引き取った

 

異国の地トンガで夫に先立たれて1人になった直子

夫は誰よりも日本を愛してくれた。今度は私がトンガの人達の為に頑張ろう。夫の意志は私が継ぐ。トンガ人が日本のスポーツで活躍する環境をつくりたい

亡き夫の夢を叶えるため、自分がトンガの人たちの為に頑張る事を決意

しかし日本の大学に電話しても

未知なる国の選手を簡単に受け入れてくれるはずはない

何度断られようが諦めることなく電話をかけ続ける日々

 

さらにラグビーボールやスパイクなどの道具を買い揃え、

トンガのチームに寄付をしていた

そうした活動資金を工面するため借金してトンガにゲストハウスを建てた

その名前はネリマロッジ

そのロッジで直子は働きながら、

才能があっても貧しい選手たちを自宅に引き取り面倒も見ていた

 

こうして直子はできる限りの力でトンガのスポーツを支えた

そして直子が日本の大学に交渉を初めてから5年後…

トンガ人のラグビー選手を受け入れてくることに

 

2001年4月、直子の仲介により日本大学にトンガ人のラグビー選手が入学

ネリマロッジで面倒を見たタウファ選手は、日本で活躍し、日本人へと帰化、

今ではラグビー日本代表に選ばれるまでに

さらに直子は2人のトンガ人力士を日本の相撲部屋に入れた

亡き夫の夢を叶えた矢先、直子に末期の肺ガンが発覚

2010年6月、直子はトンガで静かに息を引き取った

彼女の墓には今なお感謝の想いを込めて多くの花が手向けられている

直子の想いを継ぐ選手たちが次のトンガ人選手を呼ぶようになり、

今では日本ラグビー界で70人以上のトンガ人が活躍するほどに

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

イギリス コーンウォール州に住むカップル

軍隊に所属するニックと教師のエイミー

高校で出会い、すぐに恋に落ちた2人は、8年間の交際を経て2013年に婚約

2014年7月に結婚式を挙げる予定だった

結婚式を数週間後に控えたある日

2人がニックの祖父母の家に結婚の挨拶に訪れた時だった

何気なくエイミーがアルバムを見ていた時、

エイミーが「この写真って?」

それは20年前にニック家族が海へ行った時、

砂遊びをする子供たちを撮った写真だった

思い出したエイミーは「ニック…私達やっぱり運命で結ばれていたのよ」

「えっ?」「あなたの後ろに写っている私なの!」

 

●運命の赤い糸で結ばれたニックとエイミー

 

2人は高校で出会う11年前に、すでに出会っていた

当時、ニックは現在いるコーンウォール州から600㎞離れたケント州に住んでいた

家族旅行でたまたま離れたコーンウォール州を訪れ、ビーチで写真を撮影

しかもそのマウスホールビーチは、ニック家族が初めて訪れた場所だった

そのビーチこそ、エイミーの自宅のすぐそばにあった

その日、たまたま海に遊びに来ていたエイミーが、

ニックの写真に偶然写り込んだ

 

 

さらに写真の右側にはニックの家族、

左側にはエイミーとエイミーの家族が、両家が揃って写っている

20年後の未来を予知した奇跡の写真だった

そして2014年7月26日、ニックとエイミーは念願の結婚式を挙げた

2人が選んだ式場は、20年前に初めて出会った 思い出のビーチに建つ教会

 

「最初 写真を見たときは何かの冗談だと思いました。たまたまとられた写真にたまたま私が写り込むなんて…やっぱり運命の赤い糸はあるんだと思いました」とエイミーは後に語っている

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●リヤカーを引いて行商をする倉子お婆ちゃん

 

佐藤倉子さん 84歳

住んでいるのは山形県鶴岡市由良

 

小さな港町で総重量70キロのリヤカーを引き、魚を売り歩く行商人をしている

この町は高齢者が多く、買い物に行けない人が多いため

倉子さんが一軒一軒訪問して販売している

 

そんな倉子さんがこの年まで働くもう一つの理由が…ある

今から61年前、漁師の常雄さんと結婚

4人の子供を育てるため倉子さんも地元で行商を始めた

 

そして34歳の時、夫と2人で鮮魚店をオープン

苗字の佐藤の佐と倉子さんの倉をとった佐倉商店

夫婦2人で懸命に働いた

倉子さんが58歳の時には、店を増築し長男が寿司店を開店

家族で支え合い幸せな生活を送っていた

 

しかし2001年の秋、夫:常雄さんが心筋梗塞で突然倒れ、74歳で他界

さらにその2年後、長男も食道がんを患い、この世を去った

わずか2年間で夫と長男を失った倉子さん

そんな倉子さんに遺されたのは、

長男が寿司店開店のために作った借金1100万円

借金の保証人は倉子さんだった

この時、72歳…年齢を考えるなら店をたたみ自己破産という方法もあったが、

佐倉商店を開店した時、夫:常雄さんから言われた言葉を思い出した

「これは2人の店だ。店の名前は佐倉商店にしよう」

夫が自分の為に遺してくれた店を守りたい

借金1100万円を働いて返済する事を決意した

返済は月々12万円

朝は4時に起き、市場へ。セリも倉子子さんがこなす

毎日70キロのリヤカーを引き、5㎞の道のりを歩く

帰宅すると次の日に売るための魚をさばき、気付けば夜中に

睡眠時間はわずか3時間程度

足は腫れあがり歩くのもの辛い

それでも…「今でも(夫に)恋をしてるんです」

亡き夫と長男の為に雨の日も雪の日もリヤカーを引き、必死で働いた

月々12万円を返し続け、1100万円の借金を1人で見事完済した

(1964)

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