解決!ナイナイアンサーで紹介

●炎の料理人:周富徳が息子に託した想い

2014年4月8日、肺炎のため71歳でこの世を去った

炎の料理人:周富徳、気さくな人柄でバラエティ番組にも多数出演

エビマヨを日本に広めたお茶の間の人気者

 

1943年、横浜で在日中国人の2世として生まれた

18歳の頃、父の同じ料理人の道に進んだ

抜きん出たセンスと厳しい修業を経て37歳で聘珍樓の総料理長に就任

それは異例の出世だった

息子:周志鴻の優しい父だった富徳だったが、こと料理になると常に真剣

家族で外食をした際、料理に文句を言った息子に富徳は、

突然 息子を連れ出し「料理を粗末にすることは許さん」と、

その頬を平手で叩いた

 

そして14年後、息子は父に弟子入りを志願

超一流店の総料理長の父に対し、息子は雑用係り

そこには親子といえど乗り越えられない高い壁があった

仕事を終えても厨房と変わらぬ緊張感

さらに見習い料理人の仕事でもある まかない作りの時でも、

「おいお前 なんて味付けしてるんだ!こんな炒飯食えるか!」

厳しすぎる父を見返したい、先輩たちに料理を教わり懸命に努力した

店のトップである総料理長の富徳が若手に直接 料理を教える事はない

そして息子が料理の道に進んで20年もの間、

富徳は息子を決して認めはしなかった

そんな中、2013年8月、富徳は肺炎のため緊急入院

苦しい闘病生活を余儀なくされる事に

それから半年後の2014年2月、病の体をおして富徳が突如、店に現れた

しかし店の様子を確認するかのように一瞥した後、無言で立ち去った

これが富徳が愛する店を訪れた最後となった

その1ヶ月後、病状は悪化、そして4月8日肺炎によりこの世を去った

 

最後まで父に認めてもらえるような料理人になれなかった

いまでも息子には悔いが残ったままになっているという

 

兄弟子:易さんによって息子も知らないある真実が語られた

息子に直接 指導はしなかった富徳

 

実はその裏で、息子の兄弟子たちを集めて、

「お前たちに頼みがあるんだ。俺は立場上あいつに料理を教えてやれない。だからお前たちが本物の中華の味を教えてやってほしい。頼む」と頭を下げた

 

さらに息子の炒飯を否定したあの時、

「今日のまかないの炒飯作ったの志鴻だろ?ようやく最近 志鴻もちゃんとした中華料理を作れるようになった。今日の炒飯は美味かった」

と兄弟子に語っていたという

 

そして富徳の死後、遺品を整理していると

実は家族の知らないうちに富徳は店の名義を息子:志鴻に変更していた

そう富徳は息子を認めていた

その厳しさは息子が父に頼らずに成長してくれることを願うゆえの優しさだった

 

最後に店に立ち寄り、無言で去ったあの日、富徳は息子に全てを任せた

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●芸人:春一番が死ぬ前に妻に残した最後の言葉

2014年7月3日、47歳の若さでこの世を去った芸人:春一番

アントニオ猪木のモノマネでブレイク

そんな春一番を長年 春一番を支えてきた妻:綾さん

 

実は、亡くなる前日まで いつもと同じように妻と会話し、

いつもと同じようにお酒を飲み、知らず知らずに眠りにつく、

普段通りの生活を送っていた

酔っ払った春一番に「大丈夫 春さん」と布団をかけた妻に

「ごめんね ありがとう」寝言のようにつぶやいた

それからわずか4時間、事態は急変

愛する妻の隣で、顔は真っ白、すでに呼吸は止まっていた

救急車が来るまでの間、妻は心臓マッサージを続けたが…

 

春一番を死に追いやったのは、酒

撮影の合間でも酒を飲み、酒のせいで

遅刻など仕事でトラブルを起こすこと度々

憑りつかれたかのように酒を浸った人生だった

 

一番心を痛めたのは、いつもそばにいた妻の綾さんだった

何度もお酒を控えて欲しいと頼んだが、お酒を止めようとしない

その果てに所属事務所を解雇

これを機に、春一番の酒の量は増えていった

何年経っても「あの時しくじった」といきなり言い出し落ち込んでいく

当時の生活費は妻のバイト収入のみ

そしていつしか春一番の酒の量は限界を超えていた

1日にバーボン1リットル、ワイン3本を飲み干すように

酒に救いを求めた結果…緊急入院

腎不全、肺気胸、肝機能低下…内臓はボロボロだった

3度に渡る手術を受け、春は生死の境をさまよった

3か月半後、春は奇跡的に回復した

酒断ちを決めた春は個人事務所を設立

未経験ながら綾さんがマネージャーを担当し、少しずつ仕事が増えていった

しかし春は酒の魔力から抜け出せずにいた…

 

15年前に綾さんの母が他界、悲しみに暮れていた

当時の春は事務所を解雇され、酒の量が増えてしまっている時期だった

どん底にいる春一番の妻として母を失った悲しみを封印していた綾さん

しかしその辛さは限界に達していた

そんな時、春が、亡くなった母、おじいちゃんや弟まで、

モノマネの家族総出による励まし

春は周りの人が落ち込んでいるのをとにかく心配する

自分が辛い時にでも大切な人には笑顔でいて欲しい、

優しい人柄ゆえの行動だった

 

2014年6月22日に最愛の妻を亡くしたダンカン

葬儀が行われたのは春が急死する1週間前、

その葬式に春が弔辞を出していた

“マリリン様のご訃報に接し、心から哀悼の意を表します。ご遺族の皆様のお悲しみは、いかばかりかとお察し申し上げますとともに、香典ドロに中野まで伺う電車賃にも事欠く有様をお察しください。なお弔い酒はいつでもお付き合いします。謹んでご冥福をお祈りいたします。ダンカンさん元気ですかー!”

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金スマで紹介された やしきたかじん 最期の2年間

 

2013年1月3日、やしきたかじんは、食道がんでこの世を去った

 

2度の離婚に加え、流した浮世の数々

常に何人もの遊び相手が彼の周りにいた

その交友関係は幅広く芸能人はもちろんホームレスにも友人がいたという

安倍首相は彼を友人と呼び、橋本大阪市長は恩人と語った

彼の信条は、人生太く短く

酒もタバコも浴びるほど、60歳で死んでもいい が彼の口癖だった

 

たかじんの莫大な遺産を狙った疑惑の未亡人として週刊誌を賑わせた女性:さくら

出会ったのは、ちょうど がんが発覚した2年前

その年の差は30歳以上、そして亡くなるわずか3か月前に結婚

事実だけを見ると遺産狙いと言われるだけの根拠が列挙する

 

やしきたかじんが誰とも連絡を取らずにこの世を去った理由

これは本人の意志ではなく若妻による洗脳ではないか?と言われている

 

●誰も知らない たかじん 最期の2年間

 

2011年、20代前半からアメリカに留学し、

28歳でイタリアに渡った森田さくらはネイルサロンを経営

イタリアに永住するつもりだった

ある日、Facebookに見知らぬ男性からメッセージが届いた

男性とさくらを結びつけたのは犬好きのサイトだった

“かわいい犬ですね”“犬がお好きなんですか?”

男性は漢字で家鋪隆仁と名乗り、年齢は62歳

海外での暮らしが長いさくらは「やしきたかじん」を知らず、

男性のことを犬好きのおじさんと思い、メールをやり取りする間柄になっていった

 

Facebookの出会いから2ヵ月が経った2011年12月25日、

さくらは妹の出産のために、一時 帰国、友人と大阪で食事をしていた

たかじんからクリスマスパーティに誘われたさくらは、友人と別れ、

顔を出したらすぐに帰ろう、そんな気持ちで向かう事にした

この時点で たかじんはさくらの顔を知らない

Facebokには犬の写真しか載せていなかった

たかじんはどんな女性が来るのか?ゲーム感覚で楽しんでいたのかもしれない

会場に入り、場違いな雰囲気に帰ろうとした時、たかじんに呼び止められた

「たかじんです。はじめまして」「さくらです。はじめまして」

さくらは たかじんのことを本当に知らなかった様子

「よし今日はさくらちゃんの為に歌う」

たかじんは自身の「♪順子」を歌い、歌詞の「順子」を「さくら」に替えて歌った

 

たかじんと親友の松本哲朗氏によると、

「たかじんの昔の彼女とさくらが激似だった」という

 

帰り際、さくらはタクシー代として1万円を貰った

お小遣いのつもりなの?たかじんとの初めての出会いの印象は最悪だった

 

2011年12月30日、お金を返す事が目的で再び会う事に

「妹さんおめでと。ほな自己紹介させて。僕はテレビに出る仕事をしている歌手やけど売れてません。実は離婚は2回、子供も大きいのがおる」

たかじんは、ほぼ初対面のさくらに対し、自分の過去を赤裸々に語った

そして食事が終わると

「妹さんにお祝いを用意したんやけど、家に取りにこうへん?」

あまりのしつこさに根負けしたさくらは、「じゃぁ受け取ったら帰りますから」

たかじんのマンションに行くと、本当に出産祝いがあった

「ビデオも観て」と見せられたのは、たかじんが出演する番組

そしてパジャマに着替えてきた たかじんは、おもむろに土下座し、

「僕はテレビの中やったらあんなやけど、実際はこんな人間や。でも初めてさくらちゃんに会うた時、これやと思た」

「どういう意味ですか?」

「実は昔すごく好きやった女の人がいてその人にそっくりなんや」

「そうですか」「僕は62歳でこの先 何年 生きられるか、分からへんけど、あなたを最期の女に決めました。だから結婚してください」

「すぐに返事ができないなら結婚を前提に僕と付き合ってもらえないか?」

すると、突然苦しみだした たかじんはトイレに走っていった

「どこか悪いんですか?」「心臓、狭心症らしいわ。時々痛くなるから薬飲んでる」

しかし薬を飲んでも症状は治まらない

心配になった さくらは薬を念のためネットで調べた

薬を飲めば狭心症の痛みはすぐに治まると書いてあった

「もしかしたら狭心症じゃないかもしれません。一度 精密検査をしてもらった方が…」

「分かった。年が明けたら検査に行く」

「今日はゆっくり寝てください。帰ります」

 

2012年元日、“今日は元旦なのに誰とも会わず喋らずの一日でした。明日会いたいです。ウチでおでん作って待ってます”

元日に一人、その文面からは寂しさが伝わってきた

お互い暇だったお正月、2人は毎日のように会った

当然ながらたかじんの話は面白く、

さくらが彼に惹かれるのに時間はかからなかった

そしていつからか交際に発展

 

2012年1月16日、病院で検査したところ食道がんが発覚

「食道がんだった」「どの程度のがんなの?」

「細胞とって1週間後に良性か?悪性か?分かるらしいわ」

さくらはイタリアに帰るのを止め、しばらく日本にいる事を決意

がんが発覚して間もなく、たかじんはさくらを京都に誘った

京都は たかじんが青春時代を過ごした場所

旅の目的は、友人たちを紹介するため

そして検査の結果が出た「やしきさんの食道がんはステージ3です」

5年生存率30%以下、進行がんだった

 

思い詰めたたかじんは

「ステージ3ゆうたら死ぬやんか。あと2ヵ月で死ぬんや」

「手術して治療したら…」

「あと2ヵ月、毎日飲み歩いて新地で死にたい。それが やしきたかじんや。最後までむちゃくちゃして死んでいくような男やないとあかんのや。みじめたらしく命にしがみつくような情けない姿はみせたくない」

翌日、さくらはメールを送った

“じ んちゃんがそういう考えであれば さくらは支えることが出来ません。私が好きになったのは目の前の家鋪隆仁でみんなの やしきたかじんではない。だから治る可能性があるのに元気になる可能性があるのに、一緒にいられる時間が長くなる可能性があるのに、そっちのやしきたかじ んの生き方を望むなら、もう私には何もできません”

そしてたかじんは「治療したいから支えて欲しい…」

彼はさくらという存在を得て、孤独から解放された

その夜、公式サイトでがんを告白し、休養宣言

 

 

2012年4月9日、手術当日

食道の大部分を切除した後、胃を伸ばして残った食道につなげる手術

手術は無事に成功

しかし肉が付着せず、再手術

さくらはICUに泊まり込みで たかじんの介護をする事に

夜は決まって譫妄でうなされるたかじんから一時も目が離せないため、

睡眠はほとんどとっていなかった

 

担当した看護師によると、ナースたちの間で あの女性の目的ってやっぱりお金かなぁと話したこともあります。でもその後の、さくらさんを見ているとお金目的ではとてもできる事じゃないと思いました。本気でたかじんさんを愛しているのが分かりました、と語っている

 

たかじんの手記には、“さくらは金やなしに普通の愛情でうんこも汚いモノもようやってる おかしい 変わってる?普通やない 何が好きで自分からしんどいことするんや 優しい 育ちの良さか?誰より優しくしてくれた 長生きしな 恩返ししなあかん 僕がさくらのめんどうみる”

 

2012年7月、散歩中の2人をFRIDAYにスクープされてしまった

さくらの存在は公になり疑惑の女としてマスコミがマークするようになる

そして彼の死後、ありもしない事実が並べられることになるが、

どんな誹謗中傷を受けてもさくらが口を開く事は一切なかった

 

2012年夏、週刊誌にスクープされた後、

2人は東京を離れ、極秘で北海道に渡った

 

2012年11月20日、ハワイへ

ホノルルには、たかじんが所有するコンドミニアムがある

大好きなハワイで日に日に体力を回復していった たかじんは、

ゴルフまで出来るようになっていた

このハワイでたかじんはたくさんの手記を残している

 

2013年2月、復帰に向けて帰国

そして たかじんは1年ぶりにテレビへ復帰

 

2013年4月30日、復帰して1ヶ月、胸に違和感があった

気管支の近くに3つ、がんが再発していた

医師からは半年の命と宣告、さくらは過呼吸になるほど泣いた

その後、放射線治療と抗がん剤治療を行ったが、体調は悪化していった

さくらは突発性難聴を発症、手術すれば治ると言われたが、

たかじんを看られるのは、さくらしかいなかった

さくらは手術せずに24時間 介護、引き換えに左耳の聴力は失われた

 

2013年10月10日、2人はついに結婚

その2日後、たかじんはさくらが買い物に行っている間に、ある歌をi-Padに吹き込んだ

それは初めて会った日に、たかじんがさくらに歌った「♪順子」

あの日と同じように「順子」を「さくら」に替えて歌った

結婚して間もなく腹部にハリを感じ始めた

医師からは「長くても2ヵ月でしょう」と宣告

それから間もなく、さくらは「誰か会いたい人はいないの?」「おらん」

「何かやりたいことは?」「ない」そして…

「最後まで一緒にいて欲しい。僕にはさくらしかおらん」

 

2013年12月26日、緩和病棟へ、そこには立派な教会があった

すると たかじんは「結婚式 ハワイでしたかったけど、多分もういかれへんと思うからここで誓っとこう」

「やしきたかじんは健やかなる時も病んでいる時もって、もう病んでいるねん。やしきたかじんはイタリアの神様から貰うたさくらを妻として愛し続けます」

病室に入ると「ひとつだけ心残りがあるなぁ。もっと元気なうちにさくらのこともっと抱いていたら良かった」

出会ってから2年間、2人の間に肉体関係は一度もなかったという

 

2014年1月1日、“くやしい くやしい 元旦に死ぬんはシャレにならん”

 

2013年1月3日、日付が変わった頃、彼は愛する妻:さくらの胸に抱かれて逝った

 

生前、たかじんがさくらの誕生日に送った手紙には

“何 万語、何億語 言葉を探しても出てくる言葉は「さくら ありがとう」こんな苦難な一年を僕以上に乗り越えてくれて 戦ってくれて 僕にとって心の支えになってくれて本当にありがとう。誕生日にまた何もできないけど必ず元気になってハニーと楽しい時間を迎えるから待っていてね”

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ありえへん∞世界で紹介

2011年、ある日本人のお墓を訪ねるため、一人のロシア人女性が来日した

彼女の名はオルガ・モルキナ

「私がこうして生きていられるのは私の祖父母をある日本人が救ってくれたおかげなんです。彼らは多くのロシア人の命を救ってくれた恩人なのです」

それは90年間、決して世に出る事がなかった物語

●数千万の私財を投じ800人のロシアの子供を救った日本人

 

1873年、愛媛県松山市に生まれた勝田銀次郎

18歳で現在の青山学院にあたる東京英和学校に入学

その後、海運業の世界に飛び込んだ

27歳で独立し、貿易会社:勝田商会を設立

 

1918年、ロシア革命が勃発

都市:ペトラグラードは革命により治安が悪化し、深刻な食糧不足になった

そこで親は子供たち遠く離れた田舎:ウラル地方へ疎開させた

しかし避難した田舎町にも戦火が襲い、幼い子供たちは難民のような状態に

その数、800人

米国赤十字が800人の子供たちを保護、ウラジオストクにある施設に移送した

そして800人の子供たちの救出作戦を立てた

一旦ロシアを離れ、子供たちを故郷ペトログラードに近い安全な国へ海路で移送

ロシアの混乱が落ち着いたのを見計らい、

子供たちを親元に返すという計画を立てた

 

米国赤十字は関係各国の船舶会社に800人の子供たちの移送を依頼

しかし船舶会社の返事は全てNO

世界中のどの国の会社も子供たちの移送を引き受けてくれなかった

そこで最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本の運搬会社にも送った

その中の一つが勝田銀次郎の会社だった

 

勝田の下に部下が飛び込んできた

「社長!大変な申し出が届きました」「どうした?」

「ロシア革命により難民となった子供たちをロシアからヨーロッパまで船で運んでほしいとのこと。子供の人数は800人です」

困っている人を救う龍田ですら、これに即答できない事情があった

1920年は日露戦争が終結してまだ十数年

さらに革命によって世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係

勝田は苦悩していた

出来る事ならロシアの子供たちを助けてあげたい

もし日本と敵対関係にあるロシアの子供たちを助ければ、

日本中から非難され会社は倒産へと追い込まれかねない

さらに勝田の会社は物資を運ぶ海運会社

そのため貨物船しかなく800人もの子供が寝泊まりできる客船は所有していない

「私はロシアの800人の子供たちを助ける」と勝田は決断した

この決断に反対する者は誰一人いなかった

会社で一番新しい貨物船:陽明丸を客船に改造した

800人もの子供が長期化に移動できるよう洗面所、トイレ、寝る部屋などを増築

その船の改造費は多くを勝田が私財を投げ打ち払った

その額は、現在の価値で数千万円

通常1年はかかる客船への改造を約1ヵ月で仕上げた

 

伝説の船長:茅原基治が船長に名乗りを上げる

これまで数々の航海の実績があり、伝説の船長として名を馳せた人物

1920年7月、陽明丸は神戸を出発

子供たちのいるロシア ウラジオストクに到着し、子供たちのせて出航した

ペトログラードに近いヨーロッパのフィンランドに向かう

航路はロシアから太平洋を東に進み、パナマ運河を通るルートを選択

茅原は航海の途中 ロシアの子供たちに少しでも日本を知ってもらいたいと日本の室蘭に寄港

到着するな否や、茅原は真っ先に役所へ向かった

茅原は全ての責任を自らが取るという条件で子供の日本上陸許可を得た

子供たちを共に向かったのは北海道 室蘭にある小学校

茅原は役所にお願いし、ロシアと日本の子供たちが触れ合う機会を設けた

小学校の日本人たちは800人のロシアの子供たちを温かく迎い入れた

言葉は通じなくても子供同士、仲良くなるのに時間はかからなかった

そして北海道 室蘭を出航し、フィンランドへ本格的な大航海が始まった

心を通わせた子供たちは茅原を「ニイサン」と日本語で読んでいたという

3か月後、目的地フィンランドに到着した

800人のロシアの子供たちを無事救出した

その後、子供たちは故郷ペトログラードに戻り、親との再会を果たした

 

この物語は、90年もの間、一切世に出る事がなかった

それは日本人の乗組員は、勝田と茅原の2人が非国民扱いされないよう固く口を閉ざしてきたから

そして長い年月を経て、祖父母が日本人に助けられたオルガさんによって、この物語が世に知られる事になる

命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは、

2009年、北室南苑さんという日本人とロシアで出会う

そこで当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられた

北室さんは日本に帰国後、オルガさんの為に2人の日本人の消息を知ろうと尽力

勝田銀次郎と茅原基治の2人のお墓を突き止めた

2011年、ロシアから日本へ祖父母の意志を継ぎ感謝を意を伝える事ができた

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ありえへん∞世界で紹介

非暴力で自らの命を削り独立を成し遂げたガンジー

そんなガンジーと同じように慕われる日本人がいる

●インドでガンジーのように慕われるグリーンファーザー

大正8年、福岡県で3人兄弟の長男として生まれた杉山龍丸

祖父:茂丸は明治時代 政財界で活躍し、

初代総理大臣 伊藤博文の懐刀と呼ばれた大物

父:泰道は、ペンネーム:夢野久作の名で知られる作家

さらに杉山家は福岡に4万6千坪にも及ぶ広大な農地:杉山農園を所有

泰道は、そこで様々な作物を育てていた

そんな名家に生まれた龍丸は物心がついた頃には、

農園で父の畑仕事の手伝いをしていた

「アジアの困っている人々の為にこの農園を使え」

と父によく言い聞かされていた

 

16歳の時、1年の間に祖父:茂丸、父:泰道が共に脳溢血で急死

龍丸は突如 名家を背負う事になった

18歳になった龍丸は、家族の生活費を得るため、

給料の出る軍の士官学校に入学

卒業する年に太平洋戦争が勃発、飛行機の整備隊長として戦地へ赴任

戦争で銃弾が肺を貫通する重傷を負い、生死の狭間をさまよった

戦争から帰ってきた龍丸は、

厚生省援護局で問い合わせに来た家族に兵士たち生死を伝える仕事を就いた

 

その後、龍丸は光子と結婚

福岡に戻り2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っていた

36歳の時、士官学校時代の友人が訪ねてきた

「この子の面倒を見て欲しいんだ」

友人が連れてきていたのは16歳のインド人

「この子を住まわせてもらって農業のノウハウを教えてやって欲しいんだ」

龍丸はインド人の留学生を快く受け入れる事にした

インド人の青年は厳しい畑仕事に根を上げる事もなく、

技術を習得しようと人一倍働いた

「どうしてそんなに頑張れるんだ?」

「農業の技術を身につけインドに戻り飢えている人々を助けたいんです」

当時、慢性的な食料不足と度重なる飢饉で多くの人が命を落としていた

やがて龍丸もインドの困っている人たちを助けたい、そう思うように

 

42歳の時、初めてインドへと飛び立つ

飛行機から見下ろすインドは、見渡す限り荒れ果てていた

この国は農作物が育つ環境から整えなければいけない

荒れ果てた土地に緑を…それが最初に掲げた目標だった

その足ががかりに彼が選んだ場所が、デリーとアムリッツァルを結ぶ国際道路

やはり そこは見渡す限り荒れ果てた土地が広がっていた

龍丸は、道沿いにユーカリの木を植林する事にした

ユーカリは根が深く水を吸い上げる力が強い

ユーカリの木を植林する事で地中に張った根が水を貯め、土壌を潤す

龍丸は周辺の村へ植林を手伝ってもらうようお願いしに行った

しかし日本人の言葉など簡単に受け入れる筈もなかった

龍丸は諦めることなく自ら鍬を握り、植林を始めた

不可能と思わなければ全て可能だ、と不屈の精神で植林を続けた

そんなひたむきな龍丸の姿は、次第に村人の心も動かした

村人たちが次々に龍丸の植林を手伝うようになっていった

 

そして今、かつて不毛の土地と言われた国際道路は、

15mにも達する緑のユーカリが連なっている

その街路樹が並ぶ道のりは、470㎞にも及ぶ、その数、26万本

ユーカリは地下水を吸い上げ、大地を潤し、

そのおかげで周辺では稲作をはじめ、麦や芋の栽培も可能となった

国際道路沿いの緑化に成功した龍丸は、インドの人々に緑の父と称えられた

 

そんなある日、龍丸はインドの州政府に呼び出された

「あなたの力でシュワリックレンジを救ってもらえませんか?」

シュワリックレンジとは、ヒマラヤ山脈の裾野に広がる全長3000㎞に及ぶ地帯

そこは斜面の土が乾き、大規模な土砂崩れが長年置き続けている荒れ果てた丘

「私でよければ全力で引き受けさせてもらいます」

 

龍丸は現地に赴き、状況を見て回った

そこで見つけたのが、サダバールという植物

乾燥した土地でも2~3ヵ月で根を張る生命力の強い植物

サダバールを植えて土砂の崩落を止め、

土壌が安定してから他の木を植樹すれば良いと考えた

50歳を超え、銃弾が灰を貫通した後遺症がひどくなる中、

龍丸は先頭に立ち働き続けた

現地の人達の手伝いもあり軌道に乗った植林

そんな時に、インドで大規模な干ばつが起きた

雨期になっても雨が降らず、作物は枯れ深刻な食糧不足に陥った

国の緊急事態で州政府からの援助はストップ

植林を進める資金が足りない状態になった

龍丸は国連本部に足を運び、何のツテもない中、援助を願い出た

インド政府は餓死者の数を把握できない状況だったため餓死者をゼロと発表していた

国連は、餓死者がいないのに援助はできないと判断

龍丸は、福岡に残していた4万6千坪の農園をすべて売却

その額は現在の価値で100億円以上

「農園をアジアの人のために使え」父の言葉を体現した

全財産を投げ打ち、シュワリックレンジの緑化を進めた

1987年、龍丸は脳溢血で他界 享年68

インドを緑にするために人生を捧げ、

志半ばで この世を去り福岡の墓地で安らかに眠っている

しかし龍丸がいなくなってからもインドの人達は、龍丸の意志を継ぎ、

シュワリックレンジの植林を続けた

 

そして現在、かつて不毛の土地と呼ばれた土地は、一面 見事な緑の木々に覆われている

土砂の崩落はなくなり、荒れ果てた土地が生まれ変わった

インド全土で龍丸の緑化技術は広まり、農作物の生産量は当時の約3倍に上昇

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