親子愛」カテゴリーアーカイブ

解決!ナイナイアンサーで紹介

●炎の料理人:周富徳が息子に託した想い

2014年4月8日、肺炎のため71歳でこの世を去った

炎の料理人:周富徳、気さくな人柄でバラエティ番組にも多数出演

エビマヨを日本に広めたお茶の間の人気者

 

1943年、横浜で在日中国人の2世として生まれた

18歳の頃、父の同じ料理人の道に進んだ

抜きん出たセンスと厳しい修業を経て37歳で聘珍樓の総料理長に就任

それは異例の出世だった

息子:周志鴻の優しい父だった富徳だったが、こと料理になると常に真剣

家族で外食をした際、料理に文句を言った息子に富徳は、

突然 息子を連れ出し「料理を粗末にすることは許さん」と、

その頬を平手で叩いた

 

そして14年後、息子は父に弟子入りを志願

超一流店の総料理長の父に対し、息子は雑用係り

そこには親子といえど乗り越えられない高い壁があった

仕事を終えても厨房と変わらぬ緊張感

さらに見習い料理人の仕事でもある まかない作りの時でも、

「おいお前 なんて味付けしてるんだ!こんな炒飯食えるか!」

厳しすぎる父を見返したい、先輩たちに料理を教わり懸命に努力した

店のトップである総料理長の富徳が若手に直接 料理を教える事はない

そして息子が料理の道に進んで20年もの間、

富徳は息子を決して認めはしなかった

そんな中、2013年8月、富徳は肺炎のため緊急入院

苦しい闘病生活を余儀なくされる事に

それから半年後の2014年2月、病の体をおして富徳が突如、店に現れた

しかし店の様子を確認するかのように一瞥した後、無言で立ち去った

これが富徳が愛する店を訪れた最後となった

その1ヶ月後、病状は悪化、そして4月8日肺炎によりこの世を去った

 

最後まで父に認めてもらえるような料理人になれなかった

いまでも息子には悔いが残ったままになっているという

 

兄弟子:易さんによって息子も知らないある真実が語られた

息子に直接 指導はしなかった富徳

 

実はその裏で、息子の兄弟子たちを集めて、

「お前たちに頼みがあるんだ。俺は立場上あいつに料理を教えてやれない。だからお前たちが本物の中華の味を教えてやってほしい。頼む」と頭を下げた

 

さらに息子の炒飯を否定したあの時、

「今日のまかないの炒飯作ったの志鴻だろ?ようやく最近 志鴻もちゃんとした中華料理を作れるようになった。今日の炒飯は美味かった」

と兄弟子に語っていたという

 

そして富徳の死後、遺品を整理していると

実は家族の知らないうちに富徳は店の名義を息子:志鴻に変更していた

そう富徳は息子を認めていた

その厳しさは息子が父に頼らずに成長してくれることを願うゆえの優しさだった

 

最後に店に立ち寄り、無言で去ったあの日、富徳は息子に全てを任せた

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

●息子を助けるために祖国を裏切った体操選手:オクサナ

2012年8月、ロンドン五輪した37歳のオクサナ・チュソビチナ

体操選手として6回も五輪に出場

4回はウズベキスタン、2回はドイツの選手として

1992年、バルセロナ五輪で世界的スターとなった

旧ソ連が構成国で作られた連合体チームとして女子団体で金メダルを獲得

その後、アトランタ五輪、シドニー五輪にも出場

祖国ウズベキスタンでは切手になるほどの国民的英雄となった

私生活では22歳でレスリング選手のバホディルと結婚

さらに長男:アリーシャも授かり、幸せの絶頂にいた

 

2002年、結婚から5年後、息子:アリーシャが急性リンパ性白血病を発症

治療をすれば命は助かる可能性はあった

だが、当時ウズベキスタンは国自体が貧しく、

白血病に有効な化学療法を実施できる病院が国内にはなかった

息子の命を助けるには国外で治療を行うしかない

しかしそれには1600万円もの治療費が必要となる

当時のウズベキスタンの平均月収は都市部でも3万円前後

第一線で活躍するアスリートでも到底払えない金額だった

 

そんな時、ドイツ女子体操コーチ:シャーナから連絡が

「息子さんと一緒にドイツに来ない?」

かつてオクサナはドイツにあった練習場を使わせてもらっていたことがあった

その時、監督を務めていたのがシャーナだった

「ドイツの病院なら最先端の治療が受けられる。治療費に関しても考えがあるの」

 

だがウズベキスタン体操連盟は、

祖国を裏切ってドイツに亡命するのか?と追及

 

当時ウズベキスタンのスポーツ環境は予算も設備も貧弱

一流のアスリートたちがよりよい環境を求め、

外国の国籍を取得し移住する例がいくつもあった

 

「オクサナ、アリーシャの健康を祈ってるわ」とチームメイトから励まされた

 

背中を押されたオクサナは、息子:アリーシャと共にドイツ・ケルンに渡った

治療費は払える時に払う約束で、すぐにアリーシャの治療がスタート

さらにシャーナの計らいで、

ドイツクラブチームの一員としてヨーロッパ各地の大会に出場

クラブチームが対抗する大会では、優勝すると賞金が出るケースが多い

アリーシャの治療費を稼ぐため、彼女は数々の大会に足を運んだ

体操選手のピークは10代後半~20代前半と言われる中、すでに27歳

その上、過去にはアキレス腱を断裂するなど体はボロボロだった

 

一方、アリーシャの病状は一進一退

治療が長引けば長引くほど治療費はかさんでいった

 

さらにオクサナのドイツ行きは、祖国で大々的に報じられ、

ウズベキスタン国民からは 非愛国者、裏切り者と罵られた

 

そんな中、ドイツのチームメイトがオクサナの為に募金活動を開始

ネットでも呼びかけた結果、220万円もの募金が集まった

 

2006年、ウズベキスタンを出てから4年後、アリーシャが白血病を克服した

オクサナは治療費の多くが国の保険でまかなわれるドイツ国籍を取得した

通常は移住から8年かかるが、

彼女のアスリートとしての国際的な活躍が認められ、わずか3年で許可された

ドイツ国籍を取得する場合、元の国籍を放棄しなくてはいけない

国際大会に出場する際、ドイツ代表として出るしかない

息子の為にドイツ国籍を取得した

 

ドイツ代表として出場すれば愛する祖国を捨てることになるのではないか?

 

オクサナは日々葛藤し続けた

 

祖国への想いは揺るがない…

でも支えてくれたドイツの人の為にも恩返しがしたい…

 

その頃、ドイツ女子体操界は低迷していた

息子を治してくれたドイツ体操界の為に、次は自分が力になりたい

 

オクサナはドイツ代表として北京五輪を目指す決意をした

33歳での五輪出場は 当時 女子体操界ではほとんど例がなかった

 

2008年、ドイツ代表を勝ち取ったオクサナが北京五輪に出場

跳馬で銀メダルを獲得した

それは東西統一後、女子体操初のメダル

北京五輪でドイツ体操女子が獲得した唯一のメダルとなった

その後、オクサナは世界選手権、ヨーロッパ選手権にもドイツ代表として出場

数多くのメダルをドイツにもたらした

そして彼女を裏切り者と非難してきた祖国ウズベキスタンから、

代表チームのコーチとして招聘された

2012年、ロンドン五輪にオクサナが37歳で出場

 

現在、オクサナは日本の朝日生命体操クラブで選手 兼 コーチをしている

体操世界選手権2014では、

ウズベキスタン代表として39歳になったオクサナの出場が決定した

ドイツ体操連盟が、彼女の偉業をたたえ、ドイツ国籍を保有したまま

ウズベキスタン代表として出場する事を特例として許可した

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

フィリピン マニラではカラオケが人気

実演販売のため街中の電気店にカラオケ機が置かれており、

買い物客は自由に歌を歌うことが出来る

 

ゼンディー・ローズはフィリピンの地方都市で生まれた

幼いころに両親が離婚、母:ジンキーは娘を育てるため、

クラブシンガーとして生計を立てていた

ステージで歌う母はゼンディの憧れだった

だがクラブ専属の歌手ではなかったため、安定した収入はなく、

次の仕事が数か月先という事も…

電気や水道が止められるほど生活は苦しかった

「私 ママと歌って過ごせれば十分。今はどん底にいてもこれから這い上がっていけばいい。人生は階段じゃない?」とゼンディーは母を勇気づけた

11歳になったゼンディーは苦労している母を助けようと、歌のコンテストに出場

入賞するたび、その賞金を母に渡した

高校を卒業後、奨学金で大学に進学

クラブシンガーだった母の背中を追うように歌手のアルバイトに没頭した

卒業を間近に控えた2011年10月、

銀行から内定をもらったゼンディーは、嬉しいはずのニュースに浮かない

母はゼンディーの心を見透かしたように、

「自分に嘘をついちゃだめよ。本当は歌手になりたいんじゃないの?後悔しないように自分の行きたい道を選びなさい」

歌手として生きていくことを決めたゼンディー

 

ワンダイレクションやレオナ・ルイスなどを輩出した

イギリスのオーディション番組「Xファクター」に参加することに

この頃、母とゼンディーはアパートを追い出され、

知り合いの好意で地元の消防署内の一角で間借りさせてもらっていた

地方予選を順調に通過したゼンディー

2012年6月5日、マニラで2次予選

結果は落選、本選に進むことはできなかった

問題は歌ではなかった

フィリピンでは人気の歌手は、みな身長が高く、容姿端麗

外見が最も重視されたため身長159㎝のゼンディーには、

スター性がないと判断された

 

2012年7月28日、親子は久しぶりにマニラ市内のショッピングモールに来ていた

オーディションに落ち、元気のないゼンディー、

気分転換のため母が買い物に連れ出してくれた

ゼンディーは母に赤いリュックを買ってもらい、すぐに背負った

立ち寄った雑貨店、盗難防止のためバッグを持ち込んでの入店はできなかった

ゼンディーは店の外で待つことに

すると隣の電気店が実演販売の為に置いていたカラオケ機を発見

ゼンディーはマイクを握った

選んだのはアメリカの人気歌手の歌だったが、

キーが高く、これまで一度も人前で歌ったことがない曲だった

 

 

歌い終えると、歩みを止めた客たちから拍手喝采

母を待つ間の時間つぶしに歌ったカラオケが彼女の運命を変える

 

翌日、友人から連絡「あなたが動画サイトにアップされてるの」

ショッピングモールで歌う自分の姿が動画サイトにアップされていた

すでに300万回以上も再生されていた

さらに“素晴らしい歌声だ(マレーシア)”“鳥肌が立ったわ(アメリカ)”

“なんて美しい歌声なんだ(イタリア)”“彼女が誰だか教えて(アフガニスタン)”

世界中から数千件のコメントが寄せられていた

たまたま その場に居合わせた客が、

ゼンディーを録画して動画サイトにアップしていた

再生回数は日を追うごとに増え、そして…

アメリカの人気トーク番組「エレンの部屋」からの出演オファーが

この番組でゼンディは全米の視聴者にむけて歌を披露、喝采を浴びた

フィリピンに帰国したゼンディーを待っていたのは、

世界トップシェアを誇るユニバーサルミュージックのプロデューサー

何度もオーディションに落ちた少女が歌手になる夢を叶えた

2013年、ゼンディーのファーストアルバム ZENDEE「I BELIEVE」が発売

フィリピン国内のヒットチャートで2位にランクイン

そしてシンガポール、香港、オーストラリアなど世界各国でライブの依頼が殺到

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深イイ話で紹介

2013年2月16日に結婚式を挙げた孝康さん・仁美さん夫妻

●ウェディングプランナー600人が選ぶ感動の手紙

新郎の孝康さんは1985年に松原家の二男として誕生

郵便局員の父:勝さんと母:みどりさんの愛情たっぷりに育った

ところが、孝康さんが4歳の時に突然の不幸が…

父:勝さんは休日1人で釣りに出かけ海に転落…

36歳というあまりにも早い死だった

31歳の母:みどりさんは女手一つで子供を育てる事になった

子供たちを立派に育てないと主人に申し訳ない…

決して裕福ではないが、してやれる全ての事を必死にやって来た

「布団の中で1人で泣く事はありました…」

悲しくても子供の前では決して弱みを見せなかった

頑張ってきた23年…2013年2月、二男:孝康さんが結婚

お色直しの後、孝康さんと一緒に母が登場

サプライズで披露された母の手紙に

会場は涙と暖かい拍手で包まれた

 

シワくちゃになった一通の手紙…

それは23年前、父親が亡くなった時、4歳の孝康さんが母に宛てた手紙

“おかあさんありがとう いつもありがとう とうさん しんだけど かあさんがいるから ぼくは げんきだよ”

息子が結婚するまで23年間、この手紙を片時も離さずお守りとして大切に持っていた

「これが私の支えとなって今まで頑張ってこれました」

 

父親になる孝康さんの夢は、

母が作ってくれたような暖かい家庭を築くこと

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タカトシの涙が止まらナイトで紹介された

●ウェディングプランナー:大和田浩子さんが泣いた結婚式

「家族の持つエネルギーとかすごいなと実感した1日でした」

2013年4月14日…

「1週間後に病院で結婚式を挙げたいと思ってるんですが…可能でしょうか?」

それは15年付き合っている新郎:鈴木善久と新婦:鈴木麻耶からの依頼

麻耶さんの父親はガンを患い、入院中で余命宣告を受けていた

 

新婦の父:貞臣さんは大学院の研究室にいた時に

アルバイトできた由美子さんと出会い、大恋愛の末に結婚

長女:麻耶さんと長男をもうけ、

一度もケンカした事がない仲睦まじい夫婦だった

しかし15年前、麻耶さんが短大生の時に母:由美子さんがガンで他界

それ以来、男手一つで2人を育てる事になった父

母亡き後も父は全く落ち込む様子もなく、高校に通う長男の弁当を作り、

明るい前のまま父親として子供たちに接してきた

そんなある日、「由美子…」亡き母の名を呼ぶ父の寝言だった

 

そんな父が脳のガンに侵され入院

家にいると心配で眠れなくなる日々が続いた麻耶さんは、

病院に泊まり込むことにした

1ヵ月間、父の面倒を見ながら会社に通う生活が続いていた

入院して1週間で危険な状態が続いて、その後、少し体調が戻った

結婚式をやるなら今しかないと思い、大和田さんに連絡

「家族だけで慎ましくやりたいと思ってるんです」

結婚式まで1週間、ドレスの衣装合わせ、ヘアメイクの打ち合わせなど

急ピッチで準備が進められていった

「花束贈呈の音楽は希望ありますか?」

「サタデーナイトフィーバーを使いたいんです。父と母の初めてのデートで観た映画で、思い出の曲みたいで」

 

そして2013年4月27日 結婚式当日…

父の体調面や他の患者の迷惑を考慮し、

病院内で結婚式を挙げる事に難色を示していた医者やナースも

麻耶さんの想いに胸を打たれたのか、

病室の向かいの小さな部屋を着替えやヘアメイク用に貸してくれた

 

そして父の病室に新郎新婦が入場

「娘の花嫁姿を見たい」という最後の父の願いを叶えた

父を泣かせるつもりが、父の姿を見た途端、

麻耶さんの方が感激し泣いてしまった

父はベッドから起き上がる事も出来ない状態にも関わらず、

全ての力を振り絞って手を叩いていた

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