家族愛」カテゴリーアーカイブ

●生まれつき聴覚に障害のある母親が初めて聞いた愛する娘たちの声

1982年、アメリカ テキサス州

サラは、ごく普通の家庭に生まれた

2年後、大きな音にも反応を示さないサラを病院で検査

その結果、ほとんど音が聞こえない感音難聴と診断された

補聴器を付けるも、サラにとって言葉は、ただの雑音でしかなかった

そこで両親は口の動きから言葉を読み取る読唇術を学ばせる事に

両親はあえて手話を使わずサラに読唇術を身に付けさせた

やがてサラは一般の小学校へ入学

座席はいつも先生の口が良く見える一番前の席

誰よりも努力し成績も優秀だった

こうしてサラは自分から逃げることなく学校に通い続け、一般の高校を卒業

その後、サラは近所のカフェで働き始めた

前向きな性格と明るい笑顔、彼女は周囲の人達から愛される存在だった

 

そんなある日、いつもサラを可愛がってくれる常連客の息子:スローンと出会った

スローンは、一目で恋に落ちた

やがて足繁くサラの店に通うようになり、

いつしか2人の距離は縮まっていった

「今日はご飯を食べに来たんじゃないんだ。初めて会った時から君の事が好きだった」

スローンの突然の告白、サラは生まれて初めて恋をした

2人は どこに行くにも一緒だった

スローンは恋人であると同時にサラの耳となった

2001年、サラが19歳の時 2人は結婚

数年後、サラは2人の娘の母親となった

絵に描いたような幸せな生活…

しかし幸せになればなるほどサラには、ある思いが募った

 

愛する娘たちの声が聞きたい…

 

2011年、車を運転するスローンが何気なくラジオを流していると、

「耳に直接 埋め込むことで難聴の方でもより自然な音が聞こえるようになる画期的な医療技術が開発されました」

サラの難聴が治るかもしれない、スローンは興奮を抑えられなかった

すぐに問い合せすると、片耳で3万ドルかかる事を知る

数日後、スローンの母親が老後の生活費に貯めていた貯金をサラに渡した

最新の技術でサラの耳が聞こえるようになる、そんな噂は瞬く間に広まった

家族や友人たちの支えにより手術に必要な費用が集まった

 

サラが29歳の時、手術が行われた

頭の内部に埋め込み、鼓膜の振動を拾って

補聴器よりも強力に音を増幅して伝える技術

手術は9時間にも及んだ

手術から2ヵ月、埋め込んだ機械を作動させる日

29年間、音のない世界で生きてきたサラが初めて音を聞く

 

 

こうしてサラは何よりも聞きたかった家族の声に囲まれ、

幸せに暮らしている

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TRUE STORYで紹介

もし妹が生まれなければ姉は生きることができなかった

●18歳の姉の命を救うために生まれてきた妹

1987年、アメリカ・ウォルナットに住むアニッサ・アヤラ

体を動かす事が大好きな活発な少女だった

16歳の誕生日、パーティーの最中、突然腹部に大きな痛みを感じた

この日を境に、倦怠感と腹痛を感じるように

1988年3月、パーティーから1週間後、

治まらないお腹の痛みと発熱、母親と共に病院に

検査の結果、慢性骨髄性白血病

進行しているので化学療法が必要だった

10年生存率は25%…「厳しい試合になりそうだけど私 絶対負けない」

 

当時アニッサが助かる方法は、骨髄移植のみ

兄弟間のドナー適合率は1/4、

両親やその他の人々と適合する確率は1/数万

兄:アロンに望みがかけられたが、結果は不適合だった

発症から半年後…

適合したドナーが見つかったが、突然、骨髄の提供を拒否

「他にドナーを見つける方法はないのでしょうか?」

「医師として言うべきではないことかもしれませんが、アニッサと適合する確率が数万分の1しかないドナーよりも兄妹ならば4分の1という高い確率で適合します」

「つまりアニッサに弟か妹が出来れば良いということなんですね?」

 

「あの子を助ける為なら何でもする。骨髄移植のために子供を作る。アニッサの命を救うために生まれてきてもその子は私たちの大切な子ども。愛する人のために命を懸ける それが家族にしかできないこと」

母は父を説得、夫婦は大きな決断を下した

その数か月後、「アニッサ、実はニュースがあるの。新しい兄妹が出来るのよ」

「良かった!これであたしがいなくなっても寂しくないね」

「アニッサ 何言ってるの?あなたの為に生まれてくるのよ」

この事実が、世間の知る事となりマスコミでも大きく報道

命を巡るこの問題は全米を巻き込む大論争となった

 

もし兄妹がドナーとしてマッチしなかったら中絶を繰り返すの?

子供は他の人間の治療道具ではない、など

 

1990年4年、妹:マリッサが誕生、検査の結果 アリッサと適合した

マリッサの体重が増える1年2か月後、骨髄移植が行われ、無事成功した

 

「アニッサを助ける事が出来て本当にうれしい」

姉の命を救うために生まれてきた妹、18歳になったマリッサは語った

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

アメリカ・アイオワ州デモインのFMラジオ局:KSTZでは

毎年クリスマスシーズンになると恒例のサプライズ企画が行われる

リスナーからクリスマスの願いを募集し、

スタッフから選んだ一人の願いを可能な限り叶えるという人気企画

●天国から届けられたサプライズ

2011年、アイオワ州に住むブレンダ・シュミッツは、

夫のデビットと4人の子供と共に幸せに暮らしていた

しかしブレンダは末期の卵巣ガンを発症

さらに余命半年を宣告された

ブレンダは辛い治療にも耐え続けた

「みんな良くしてくれる。何か病院の人達に恩返しがしたいわ」

周りに気を配る事も忘れなかった

そんな彼女が一度だけ取り乱したことがあった

「どうして!どうして私なの!マックスは2歳になったばかりよ。母親無しで生きていけって言うの?そんなのあんまりよ」

家族との別れが訪れる、その恐怖だけは消えなかった

そして懸命な治療の甲斐なく病状は徐々に悪化…

2011年9月、ブレンダ・シュミッツはこの世を去った

 

デビットはお礼がしたいというブレンダの生前の想いを込め、

彼女が好きだった花を病院に贈った

 

ブレンダの死から1年…

家族は彼女がいない生活に少しずつ慣れ始めていた

 

そんなある日、デビットはジェーン・アブラハムという女性と出会う

ジェーンは2人の子供を持つシングルマザーだった

それは友人から強く勧められた縁談

同じ苦労をしている同士、自然と会話が弾んだ

2人は度々会うようになった

しばらくすると家族ぐるみの交際まで発展

 

2013年12月16日、ブレンダの死から2年…ある日のこと

「デビット・シュミッツさんですか?」「はい」

「FMラジオ局:KSTZなんですが、番組にあなた宛ての願いが書かれた手紙が届いているんです」

「私ですか?誰からです?」

「それは事情があって電話ではちょっと…木曜日に翌日放送分の収録があるのですが、スタジオにお越しいただけないでしょうか?」

 

12月19日、

「デビット 来てくれてありがとう。君に特別なクリスマスの願い事があるんだ」

スタッフの女性がある手紙を読み始めた

 

「こんにちは 私の名前はブレンダ・シュミッツです。この手紙が届く時 私はもうすでにガンに負けてしまっている事でしょう。私はこの手紙を友人に託し、もしデビットが新たなパートナーを見つけたらラジオ局に この手紙を送ってほしい と伝えました。デビットは素晴らしい夫であり父であり今後も家族のために最良の決断を下してくれるでしょう。そしていつか子育てを手伝ってくれる思いやりのある女性を見つける事でしょう。彼女はきっと素晴らしい女性のはずで。私たちの4人の息子、あの子たちが母親をなくすなんて今 考えただけで泣けてきます。彼らが大人になるのを見られないのはとても心残りです。私がこの手紙を書いてのはデビットと子どもたちを心から愛しているという事、そしていつも見守っているという事を知って欲しいからです」

 

手紙の日付は、2011年8月3日、ブレンダの死のおよそ2か月前だった

あの時、すでに死を覚悟し、

残された家族のことを考え番組に手紙が届くようにしていた

 

そして手紙にはデビットの新しいパートナーについても書かれていた

「息子たちの母になってくれてありがとう。母親として愛情を注いでくれて本当にありがとう。あなたがだれであろうと、あなたのことを愛しています」

 

手紙の最後にはブレンダの3つの願いが書かれていた

 

“まずは4人の子供たちの新しい母親に思いきりリラックスできる時間を与えて欲しいです。彼女を笑顔にしてあげてください”

 

“家族には魔法にように素敵な旅行に出かけて欲しいです。一生の思い出ができる場所へ”

 

“最後に私のガン治療をしてくれた病院のスタッフにご馳走たくさんのパーティーを贈りたいです”

 

ブレンダの3つの願いは、ラジオ局によって叶えられた

 

このラジオが翌日放送されるとメディアで大きく取り上げられた

 

2014年8月30日、デビットとジェーンは結婚式を挙げた

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解決!ナイナイアンサーで紹介

●ノブコブ吉村が今も悔やむ祖母への最後の言葉

6歳の時に両親が離婚

その後、母の代わりに吉村を育ててくれたのが、祖母だった

朝昼晩の食事、掃除などの家事

そして身の回りの世話など、吉村の身の回りの世話全てを支えた

そんなある日、幼き吉村が食い入るように見ていたのが、テレビに映る電車

「ちょっとお出かけしようか?」「どこに?」

祖母が連れていってくれたのは、すぐ近くに電車が見える場所

吉村の願いを何でも叶えてくれた祖母が作る料理は、煮物や焼き魚など

友人の家で食べたビーフシチューの方がいい、と愚痴を言うと、

翌日 祖母は作り慣れない洋食のビーフシチューを作ってくれた

祖母の願いは吉村の笑顔、それだけだった

しかし年を重ねるにつれてそんな祖母との関係に変化が訪れる

父親が仕事で来れない代わりに授業参観には必ず祖母が来てくれたのだが…

友人にイジられ吉村にとっては恥ずかしかっただけだった

思春期の吉村少年にとって祖母は疎ましい存在になっていった

 

そして1999年、19歳の時、芸人になるため上京を決意し、北海道を旅立つ日

父と別れの挨拶を交わすと「崇 これを持っていきなよ」

「ばあちゃんそんな毛布いらないよ」

「だって小さい頃からこれがないと寝付きが悪かっただろ!」

それは吉村が幼い頃から使い続けている毛布だった

まだ子ども扱いされている事への苛立ちなのかもしれない

苛立つ吉村の口からつい出てしまった言葉が

「もういい加減にしろよ!俺は ばあちゃんが嫌いだから東京に行くんだよ!」

そのまま飛び出した

本当は「おばあちゃん育ててくれてありがとう」と素直に言いたかった

つい行ってしまった言葉が大きなしこりを生んでしまう

上京して間もなく留守電に入っていたのは、父からのメッセージだった

「もしもし父さんだけど…あのなさっきばあちゃんが亡くなった」

吉村は泣きながら膝から崩れ落ちた

 

母と生き別れたノブコブ吉村の苦悩

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●リヤカーを引いて行商をする倉子お婆ちゃん

 

佐藤倉子さん 84歳

住んでいるのは山形県鶴岡市由良

 

小さな港町で総重量70キロのリヤカーを引き、魚を売り歩く行商人をしている

この町は高齢者が多く、買い物に行けない人が多いため

倉子さんが一軒一軒訪問して販売している

 

そんな倉子さんがこの年まで働くもう一つの理由が…ある

今から61年前、漁師の常雄さんと結婚

4人の子供を育てるため倉子さんも地元で行商を始めた

 

そして34歳の時、夫と2人で鮮魚店をオープン

苗字の佐藤の佐と倉子さんの倉をとった佐倉商店

夫婦2人で懸命に働いた

倉子さんが58歳の時には、店を増築し長男が寿司店を開店

家族で支え合い幸せな生活を送っていた

 

しかし2001年の秋、夫:常雄さんが心筋梗塞で突然倒れ、74歳で他界

さらにその2年後、長男も食道がんを患い、この世を去った

わずか2年間で夫と長男を失った倉子さん

そんな倉子さんに遺されたのは、

長男が寿司店開店のために作った借金1100万円

借金の保証人は倉子さんだった

この時、72歳…年齢を考えるなら店をたたみ自己破産という方法もあったが、

佐倉商店を開店した時、夫:常雄さんから言われた言葉を思い出した

「これは2人の店だ。店の名前は佐倉商店にしよう」

夫が自分の為に遺してくれた店を守りたい

借金1100万円を働いて返済する事を決意した

返済は月々12万円

朝は4時に起き、市場へ。セリも倉子子さんがこなす

毎日70キロのリヤカーを引き、5㎞の道のりを歩く

帰宅すると次の日に売るための魚をさばき、気付けば夜中に

睡眠時間はわずか3時間程度

足は腫れあがり歩くのもの辛い

それでも…「今でも(夫に)恋をしてるんです」

亡き夫と長男の為に雨の日も雪の日もリヤカーを引き、必死で働いた

月々12万円を返し続け、1100万円の借金を1人で見事完済した

(1960)

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