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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

●息子を助けるために祖国を裏切った体操選手:オクサナ

2012年8月、ロンドン五輪した37歳のオクサナ・チュソビチナ

体操選手として6回も五輪に出場

4回はウズベキスタン、2回はドイツの選手として

1992年、バルセロナ五輪で世界的スターとなった

旧ソ連が構成国で作られた連合体チームとして女子団体で金メダルを獲得

その後、アトランタ五輪、シドニー五輪にも出場

祖国ウズベキスタンでは切手になるほどの国民的英雄となった

私生活では22歳でレスリング選手のバホディルと結婚

さらに長男:アリーシャも授かり、幸せの絶頂にいた

 

2002年、結婚から5年後、息子:アリーシャが急性リンパ性白血病を発症

治療をすれば命は助かる可能性はあった

だが、当時ウズベキスタンは国自体が貧しく、

白血病に有効な化学療法を実施できる病院が国内にはなかった

息子の命を助けるには国外で治療を行うしかない

しかしそれには1600万円もの治療費が必要となる

当時のウズベキスタンの平均月収は都市部でも3万円前後

第一線で活躍するアスリートでも到底払えない金額だった

 

そんな時、ドイツ女子体操コーチ:シャーナから連絡が

「息子さんと一緒にドイツに来ない?」

かつてオクサナはドイツにあった練習場を使わせてもらっていたことがあった

その時、監督を務めていたのがシャーナだった

「ドイツの病院なら最先端の治療が受けられる。治療費に関しても考えがあるの」

 

だがウズベキスタン体操連盟は、

祖国を裏切ってドイツに亡命するのか?と追及

 

当時ウズベキスタンのスポーツ環境は予算も設備も貧弱

一流のアスリートたちがよりよい環境を求め、

外国の国籍を取得し移住する例がいくつもあった

 

「オクサナ、アリーシャの健康を祈ってるわ」とチームメイトから励まされた

 

背中を押されたオクサナは、息子:アリーシャと共にドイツ・ケルンに渡った

治療費は払える時に払う約束で、すぐにアリーシャの治療がスタート

さらにシャーナの計らいで、

ドイツクラブチームの一員としてヨーロッパ各地の大会に出場

クラブチームが対抗する大会では、優勝すると賞金が出るケースが多い

アリーシャの治療費を稼ぐため、彼女は数々の大会に足を運んだ

体操選手のピークは10代後半~20代前半と言われる中、すでに27歳

その上、過去にはアキレス腱を断裂するなど体はボロボロだった

 

一方、アリーシャの病状は一進一退

治療が長引けば長引くほど治療費はかさんでいった

 

さらにオクサナのドイツ行きは、祖国で大々的に報じられ、

ウズベキスタン国民からは 非愛国者、裏切り者と罵られた

 

そんな中、ドイツのチームメイトがオクサナの為に募金活動を開始

ネットでも呼びかけた結果、220万円もの募金が集まった

 

2006年、ウズベキスタンを出てから4年後、アリーシャが白血病を克服した

オクサナは治療費の多くが国の保険でまかなわれるドイツ国籍を取得した

通常は移住から8年かかるが、

彼女のアスリートとしての国際的な活躍が認められ、わずか3年で許可された

ドイツ国籍を取得する場合、元の国籍を放棄しなくてはいけない

国際大会に出場する際、ドイツ代表として出るしかない

息子の為にドイツ国籍を取得した

 

ドイツ代表として出場すれば愛する祖国を捨てることになるのではないか?

 

オクサナは日々葛藤し続けた

 

祖国への想いは揺るがない…

でも支えてくれたドイツの人の為にも恩返しがしたい…

 

その頃、ドイツ女子体操界は低迷していた

息子を治してくれたドイツ体操界の為に、次は自分が力になりたい

 

オクサナはドイツ代表として北京五輪を目指す決意をした

33歳での五輪出場は 当時 女子体操界ではほとんど例がなかった

 

2008年、ドイツ代表を勝ち取ったオクサナが北京五輪に出場

跳馬で銀メダルを獲得した

それは東西統一後、女子体操初のメダル

北京五輪でドイツ体操女子が獲得した唯一のメダルとなった

その後、オクサナは世界選手権、ヨーロッパ選手権にもドイツ代表として出場

数多くのメダルをドイツにもたらした

そして彼女を裏切り者と非難してきた祖国ウズベキスタンから、

代表チームのコーチとして招聘された

2012年、ロンドン五輪にオクサナが37歳で出場

 

現在、オクサナは日本の朝日生命体操クラブで選手 兼 コーチをしている

体操世界選手権2014では、

ウズベキスタン代表として39歳になったオクサナの出場が決定した

ドイツ体操連盟が、彼女の偉業をたたえ、ドイツ国籍を保有したまま

ウズベキスタン代表として出場する事を特例として許可した

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ニッポン無名偉人伝で紹介

中国 内モンゴル自治区のゴビ砂漠

広さは130万㎢、日本の国土3.5倍にも及ぶ

中国の砂漠緑化は不可能と言われた時代

砂漠に埋もれつつあった貧しい村:恩格貝(オンカクバイ)

オンカクバイとはモンゴル語で平和と幸福を意味する

●砂漠に300万本のポプラを植林した日本人:遠山正瑛

1年間に中国では東京都と同じ面積が砂に飲み込まれている

風に吹かれた砂が移動し、砂漠に変えてしまう飛砂

食い止めるには木が生い茂る森を作らなければならない

 

1906年(明治39年)、山梨県富士吉田市の大正寺で生まれた

京都大学で園芸を学び、後に鳥取大学の教授となった

心血を注いだのは砂丘での野菜栽培

鳥取の特産になった砂丘長芋は遠山の功績によるもの

 

遠山が初めて中国に来たのは30歳の時、

国費留学生として砂漠の研究にやって来た

しかし1937年(昭和12年)日中戦争が始まり、遠山はスパイ容疑で逮捕される

遠山は命からがら日本に帰国した

 

遠山が恩格貝に来たのは鳥取大学教授を退官後、73歳の時

当初、遠山はポプラではなくクズを植えてきた

クズは水が少なくても良く育ち、地下1.5mほどまで根を張る

クズの種は全国の小学生が砂漠緑化のために送ってくれたもの

植えた数は2日かけて3000本…順調に思われた

翌日、クズは ほとんど放牧のヤギに食い散らかされてしまった

「木を見ていても飯は食えない」と地元住民は言った

遠山は黄河に身を浸しながらヤギの対策を考え、クズからポプラに変更

 

砂漠は厳しかった…

夏は気温50度、冬は-20度、日中照りつけられた砂は70度を超える

最初の2年で20万本を植林したが、半分は枯れた

「やればできる やらなきゃできない」

遠山は吸水性の高い日本の紙おむつの素材を水に溶かし、

根元につけて乾燥を防いだ

今でこそ井戸の水をホースで水を撒いているが、当時はバケツリレー

ポプラは植えてから2週間おきに、水を撒かなければならない

遠山は10年の歳月を要し、300万本のポプラを植えた

 

1996年、時の中国 国家主席:江沢民が遠山を訪ね、

友好の固い握手を交わし、中国政府は遠山の貢献を高く評価した

この時も遠山は作業着を着たまま、「これが私の制服です」と言った

1999年、遠山が93歳の時に銅像が建てられた

中国で生前に銅像が建てられてのは、毛沢東と遠山だけ

2003年、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞

そして2004年2月、遠山正瑛 永眠

「緑なくしては人間生活できない。知恵のある人 知恵を出す。物のある人 物を出す。金ある人 金を出す。命出す人 命出す。4つが組んで頑張れば世界の砂漠は緑化する。これが私の信念」と生前語っている

 

今も遠山が立ち上げた沙漠緑化実践協会は植林を続けている

植林したポプラは450万本

沙漠緑化実践協会 恩格貝事務所長:間瀬弘樹は、

日本からのボランティアの受入や指導などを行っている

砂漠の森は、飛砂を防ぎ農地が生まれ、貧しかった恩格貝は豊かになった

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世界を変えるテレビで紹介

●エフレンのスラムを変えた手押し車授業

フィリピン・マニラに住むエフレン・ペニャフロリダは、

16歳の時にスラムの子を貧困から救う慈善団体

DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立

キッカケはギャングへの復讐

 

スラムは治安が悪くギャングやストリートチルドレンで溢れていた

貧しい家庭で生まれたエフレン

貧困からギャングになる幼馴染や友達は周りに大勢いた

頻りに仲間に誘うギャングたち

家は貧しかったが何とか学校だけは行かせてもらっていた

いつかはこの暮らしから抜け出す…そんな思いで日々勉強に明け暮れていた

 

だが仲間にならないエフレンをギャングは目の敵に

時には殴るけるの暴力も…ギャングの執拗なイジメ

ギャングに復讐をしたい…そして一つの答えに辿り着く

ギャングのいない世界を作ればいい

ある日、エフレンは友人に声をかけ、教科書やノートをかき集めていく

ボロボロの手押し車でスラムに運んだ

時間帯は子供たちが親の手伝いから解放される土曜日の昼間を狙った

「学校に行けないみんな、勉強をしよう。読み書きや算数 教えるよ」

しかし元々学校に行っていない子供たちは、

勉強への意識が低いため興味を持ってくれない

そこでエフレンは問題に正解した時に

お菓子などをあげる事で参加する子供を集めた

お菓子をくれると口コミで広がり、参加する子供は増え続け、

多い時には30人もの子供たちが集まった

教える内容は小学校低学年で習う読み書きや算数

最初はお菓子目当てだった子供たちも

次第に学ぶことの楽しさに気付いていった

 

現在も手押し車の授業は続けていてエフレンを支えるスタッフは100名

手押し車も70台まで増えた

活動はフィリピン国内にとどまらず、ケニア、

インドネシアの貧困地域で手押し車の授業を行っている

授業をはじめて12年目のとなった2009年、活動が認められエフレンは、

CNNが選出する人道的な活動家に与えられるCNNヒーローズを受賞

 

「教育は世界を変えられると思っています。勉強すれば自分も変われるし家族も友達も変えられる。少しでもいい世界に変えていくのが僕の夢です」

 

実は貧しかった戦後の日本でもスラム街があり、

学生が子供たちに勉強を教えるセツルメント運動があったという

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ありえへん∞世界で紹介

●ブータンで国葬された西岡京冶

1933年、医師の父と看護師長の母の家庭に生まれた

12歳の時、終戦

物が不足する日本で食べる物もなく貧しい生活を送った

高校卒業後、大阪府立大学 農学部へ進学

そこで専門的に研究することになったのが、ヒマラヤの農業

当時、未知なる秘境だったヒマラヤの農作物に興味を持ち、

卒業後もネパール学術探検隊に参加する活動を行っていた

 

1964年、ブータン政府から農業技術支援の要請を受ける

ブータンは高地で気候も厳しく国土の大変は山と谷で

田畑に使えるのは1割程度

そのため極めて低い農業自給率だった

それを知った西岡は、ブータンへ農業指導を行う派遣要請を快諾

 

31歳の時、妻:里子さんと共にブータンへ渡った

しかし農業指導するために政府から提供された土地はわずか60坪

さらに農業指導をするのは政府が集めた少年たち3人だけだった

当時、農業自給率が低かったブータンは農作物を収穫できる農地は貴重であり

研究用に貸すことが出来たのはわずかな土地のみ

成人男性は貴重な労働力とされ研究のためにさける人材は子供だけ

しかし西岡は、ブータンをおかれた厳しい状況を理解していたので

不満も一つもらさず受け入れた

成果を上げれば農業技術はブータンで受け入れられるはず

西岡はまず日本から持ってきた大根の種を蒔いた

それから3か月後、畑に出来上がったのは大きな大根

少年たちはその技術に驚き、歓喜した

その後、西岡の農業技術は評判となり取り巻く環境が起きく変わった

 

ある日、第3代ブータン国王は西岡を会食に招いた

「大根の種を私にくれませんか?大根を作ってみたいのです」

西岡の農業の成果を認めた国王は国として大根作りに乗り出したいと伝えた

国として農業支援に乗り出した国王は、それまでの400倍の農業試験場を与えた

その試験場でブータンにはなかった白菜、キャベツ、人参などの野菜を栽培

またブータンになかった日本式の稲作を開始

当時 ブータンの稲作は苗と苗の感覚がバラバラで収穫率が低かった

苗を同じ間隔で植え、収穫率が高い日本式の稲作を取り入れた

すると西岡の狙い通り収穫量が4割向上した

 

やがて試験場にはブータン各地から多くの役人が訪れ、

西岡の農業技術は役人が農民に教える事によりブータン中に広がっていった

 

ブータンに来て8年目の1972年、第3代国王が急逝し、

当時16歳だった皇太子が国王に即位した

若き国王から西岡はある相談を持ちかけられる

「あなたの手で忘れられた土地を救ってほしい」

忘れられた土地とは、ブータン南部にあるシェムガンという地域のこと

そこは首都から車で丸1日走り、険しい山道に入ってから徒歩で4日もかかる辺境の地

妻の里子さんは体調を崩したこともあり、シェムガンに連れて行くことは不可能

もちろん6歳と1歳にあんる子供たちも連れて行けない

西岡は大切な家族と離れ離れになってもブータンの為に働く事を決意

愛する家族を日本に帰し、忘れられた土地シェムガンへ向かった

そこは平地がほとんどなく荒れ果てた斜面ばかりで農業を行うのが困難な土地だった

そんな中、西岡の農業技術の指導が始まった

村人たちに焼き畑を止め、稲作に切り替えるように説得した

全く聞く耳を持たない村人たち…

西岡は農業技術を教える前に、村人たちが抱えている問題を解決し、

村人たちと信頼関係を築く事から取り組んだ

それから西岡は村が抱えた問題を一つずつ解決していった

繰り返し行った村人たちとの話し合いは5年間にわたり800回にも及んだ

そんな真摯な姿勢は村人たちの心を動かし、協力関係を築いた

 

そしてついに開墾が始まった

荒れた土地を切り開く事は困難を極めた

水田の水を引くため水路を作るのに竹を利用

366本の水路を作り、人や荷物を運ぶための吊り橋も17本作り上げた

また平行して学校や診療所も開設

そして、忘れられた土地は大きく姿を変えた

2年後、荒れ果てた土地に18万もの水田が生まれ、稲穂がたわわに実った

 

その後、西岡はよりブータンの気候に合うよう野菜の品種改良に取り組んだ

西岡がやって来るまでブータンになかった様々な野菜が市場に並ぶように

約60%だったブータンの食糧自給率は86%にまで上昇した

 

1992年、西岡は59歳で急逝 現在、日本では治療ができる肺血症が死因だった

西岡は国葬されブータン人5000人が参列した

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地球上で最も広いサハラ砂漠

●たった1人で砂漠を森に変えた男:ヤクーバ・サワドゴ

絶え間ない干ばつと飢饉…

広がり続ける砂漠から非難する人が後を絶たない

そんな場所にある小さな国:ブルキナファソ

今から50年前、当時7歳のヤクーバは、

家族の元を離れ寄宿制の学校に通っていた

卒業後は機械の部品を売る店を開いた

1908年ごろ、ヤクーバの故郷:ゴルマ村は、干ばつにより深刻な食糧難に

そのためもっと肥沃な土地を求め、移住していく人が後を絶たなかった

村民の1/4が村を捨てた

村のピンチにヤクーバは店をたたみ、故郷へ戻る事を決意

故郷に帰るとそこは荒れ果てた土地に変わっていた

ヤクーバは一人、村の土地を耕した

この地域には古くからの伝統的な農法があった

それは雨期直前のある決められた日に小さな穴を掘って種を植えるというもの

しかし、この方法を試しても状況は変わらなかった

そこでヤクーバは、皆が休んでいる乾期の時期から、

大きな穴をたくさん掘り、

その中に動物の糞など堆肥を入れる方法を試した

さらにシロアリを農地に放し、

巣を作らせることで土を柔らかくする方法も取り入れた

雨期が来るまでの間、一人この作業に明け暮れた

これまで雨水は硬い土の上をあっという間に流れていくだけだった

そこで石を並べ低い堤防を作り、雨水をせき止めてしまえば、

ゆっくりと土に吸収させることが出来ると考えた

自分が信じたやり方で一人荒れた土地を耕し続けるヤクーバ

すると耕した穴から植物が育ち、多くの農作物を収穫することが出来た

この農法はザイ農法と呼ばれ、

ヤクーバは村のために来る日も来る日も耕し続けた

その姿はいつしか村人の心をうち、賛同者が現れ、

規模は次第に大きくなっていく

仲間が増えヤクーバはザイ農法を使い、

砂漠に種を植えて木を生やそうと試みた

すると数年後、サッカーグラウンド12面分もの広大な緑地ができた

ヤクーバは木が一本も生えていなかった砂漠に森を作る事に成功した

1990年、再び大規模な干ばつに襲われたのだが、

作物を収穫できたのはザイ農法を取り入れた土地だけだった

20年余りの歳月をかけてヤクーバが砂漠に作った緑地は、

サッカーグラウンド30面分にまで広がっていた

そんなある日、ゴルマ村近くの町を拡張する国の計画が持ち上がり、

ヤクーバが必死に開拓してきたのうちヤモリが潰されることとなった

そこへヤクーバが砂漠に森を作ったニュースが世界に届いた

貧困地域支援団体オックスファムから

ザイ農法について話してほしいとアメリカに招待された

そこには多くのNGOスタッフや政府関係者の姿が…

彼はアメリカの様々な場所で体験談を語り大成功を収めた

ヤクーバの試みが世界に認められたのか、

都市拡張計画が変更され農地や森は潰されない事になった

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