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ありえへん∞世界で紹介

非暴力で自らの命を削り独立を成し遂げたガンジー

そんなガンジーと同じように慕われる日本人がいる

●インドでガンジーのように慕われるグリーンファーザー

大正8年、福岡県で3人兄弟の長男として生まれた杉山龍丸

祖父:茂丸は明治時代 政財界で活躍し、

初代総理大臣 伊藤博文の懐刀と呼ばれた大物

父:泰道は、ペンネーム:夢野久作の名で知られる作家

さらに杉山家は福岡に4万6千坪にも及ぶ広大な農地:杉山農園を所有

泰道は、そこで様々な作物を育てていた

そんな名家に生まれた龍丸は物心がついた頃には、

農園で父の畑仕事の手伝いをしていた

「アジアの困っている人々の為にこの農園を使え」

と父によく言い聞かされていた

 

16歳の時、1年の間に祖父:茂丸、父:泰道が共に脳溢血で急死

龍丸は突如 名家を背負う事になった

18歳になった龍丸は、家族の生活費を得るため、

給料の出る軍の士官学校に入学

卒業する年に太平洋戦争が勃発、飛行機の整備隊長として戦地へ赴任

戦争で銃弾が肺を貫通する重傷を負い、生死の狭間をさまよった

戦争から帰ってきた龍丸は、

厚生省援護局で問い合わせに来た家族に兵士たち生死を伝える仕事を就いた

 

その後、龍丸は光子と結婚

福岡に戻り2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っていた

36歳の時、士官学校時代の友人が訪ねてきた

「この子の面倒を見て欲しいんだ」

友人が連れてきていたのは16歳のインド人

「この子を住まわせてもらって農業のノウハウを教えてやって欲しいんだ」

龍丸はインド人の留学生を快く受け入れる事にした

インド人の青年は厳しい畑仕事に根を上げる事もなく、

技術を習得しようと人一倍働いた

「どうしてそんなに頑張れるんだ?」

「農業の技術を身につけインドに戻り飢えている人々を助けたいんです」

当時、慢性的な食料不足と度重なる飢饉で多くの人が命を落としていた

やがて龍丸もインドの困っている人たちを助けたい、そう思うように

 

42歳の時、初めてインドへと飛び立つ

飛行機から見下ろすインドは、見渡す限り荒れ果てていた

この国は農作物が育つ環境から整えなければいけない

荒れ果てた土地に緑を…それが最初に掲げた目標だった

その足ががかりに彼が選んだ場所が、デリーとアムリッツァルを結ぶ国際道路

やはり そこは見渡す限り荒れ果てた土地が広がっていた

龍丸は、道沿いにユーカリの木を植林する事にした

ユーカリは根が深く水を吸い上げる力が強い

ユーカリの木を植林する事で地中に張った根が水を貯め、土壌を潤す

龍丸は周辺の村へ植林を手伝ってもらうようお願いしに行った

しかし日本人の言葉など簡単に受け入れる筈もなかった

龍丸は諦めることなく自ら鍬を握り、植林を始めた

不可能と思わなければ全て可能だ、と不屈の精神で植林を続けた

そんなひたむきな龍丸の姿は、次第に村人の心も動かした

村人たちが次々に龍丸の植林を手伝うようになっていった

 

そして今、かつて不毛の土地と言われた国際道路は、

15mにも達する緑のユーカリが連なっている

その街路樹が並ぶ道のりは、470㎞にも及ぶ、その数、26万本

ユーカリは地下水を吸い上げ、大地を潤し、

そのおかげで周辺では稲作をはじめ、麦や芋の栽培も可能となった

国際道路沿いの緑化に成功した龍丸は、インドの人々に緑の父と称えられた

 

そんなある日、龍丸はインドの州政府に呼び出された

「あなたの力でシュワリックレンジを救ってもらえませんか?」

シュワリックレンジとは、ヒマラヤ山脈の裾野に広がる全長3000㎞に及ぶ地帯

そこは斜面の土が乾き、大規模な土砂崩れが長年置き続けている荒れ果てた丘

「私でよければ全力で引き受けさせてもらいます」

 

龍丸は現地に赴き、状況を見て回った

そこで見つけたのが、サダバールという植物

乾燥した土地でも2~3ヵ月で根を張る生命力の強い植物

サダバールを植えて土砂の崩落を止め、

土壌が安定してから他の木を植樹すれば良いと考えた

50歳を超え、銃弾が灰を貫通した後遺症がひどくなる中、

龍丸は先頭に立ち働き続けた

現地の人達の手伝いもあり軌道に乗った植林

そんな時に、インドで大規模な干ばつが起きた

雨期になっても雨が降らず、作物は枯れ深刻な食糧不足に陥った

国の緊急事態で州政府からの援助はストップ

植林を進める資金が足りない状態になった

龍丸は国連本部に足を運び、何のツテもない中、援助を願い出た

インド政府は餓死者の数を把握できない状況だったため餓死者をゼロと発表していた

国連は、餓死者がいないのに援助はできないと判断

龍丸は、福岡に残していた4万6千坪の農園をすべて売却

その額は現在の価値で100億円以上

「農園をアジアの人のために使え」父の言葉を体現した

全財産を投げ打ち、シュワリックレンジの緑化を進めた

1987年、龍丸は脳溢血で他界 享年68

インドを緑にするために人生を捧げ、

志半ばで この世を去り福岡の墓地で安らかに眠っている

しかし龍丸がいなくなってからもインドの人達は、龍丸の意志を継ぎ、

シュワリックレンジの植林を続けた

 

そして現在、かつて不毛の土地と呼ばれた土地は、一面 見事な緑の木々に覆われている

土砂の崩落はなくなり、荒れ果てた土地が生まれ変わった

インド全土で龍丸の緑化技術は広まり、農作物の生産量は当時の約3倍に上昇

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ニッポン無名偉人伝で紹介

中国 内モンゴル自治区のゴビ砂漠

広さは130万㎢、日本の国土3.5倍にも及ぶ

中国の砂漠緑化は不可能と言われた時代

砂漠に埋もれつつあった貧しい村:恩格貝(オンカクバイ)

オンカクバイとはモンゴル語で平和と幸福を意味する

●砂漠に300万本のポプラを植林した日本人:遠山正瑛

1年間に中国では東京都と同じ面積が砂に飲み込まれている

風に吹かれた砂が移動し、砂漠に変えてしまう飛砂

食い止めるには木が生い茂る森を作らなければならない

 

1906年(明治39年)、山梨県富士吉田市の大正寺で生まれた

京都大学で園芸を学び、後に鳥取大学の教授となった

心血を注いだのは砂丘での野菜栽培

鳥取の特産になった砂丘長芋は遠山の功績によるもの

 

遠山が初めて中国に来たのは30歳の時、

国費留学生として砂漠の研究にやって来た

しかし1937年(昭和12年)日中戦争が始まり、遠山はスパイ容疑で逮捕される

遠山は命からがら日本に帰国した

 

遠山が恩格貝に来たのは鳥取大学教授を退官後、73歳の時

当初、遠山はポプラではなくクズを植えてきた

クズは水が少なくても良く育ち、地下1.5mほどまで根を張る

クズの種は全国の小学生が砂漠緑化のために送ってくれたもの

植えた数は2日かけて3000本…順調に思われた

翌日、クズは ほとんど放牧のヤギに食い散らかされてしまった

「木を見ていても飯は食えない」と地元住民は言った

遠山は黄河に身を浸しながらヤギの対策を考え、クズからポプラに変更

 

砂漠は厳しかった…

夏は気温50度、冬は-20度、日中照りつけられた砂は70度を超える

最初の2年で20万本を植林したが、半分は枯れた

「やればできる やらなきゃできない」

遠山は吸水性の高い日本の紙おむつの素材を水に溶かし、

根元につけて乾燥を防いだ

今でこそ井戸の水をホースで水を撒いているが、当時はバケツリレー

ポプラは植えてから2週間おきに、水を撒かなければならない

遠山は10年の歳月を要し、300万本のポプラを植えた

 

1996年、時の中国 国家主席:江沢民が遠山を訪ね、

友好の固い握手を交わし、中国政府は遠山の貢献を高く評価した

この時も遠山は作業着を着たまま、「これが私の制服です」と言った

1999年、遠山が93歳の時に銅像が建てられた

中国で生前に銅像が建てられてのは、毛沢東と遠山だけ

2003年、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞

そして2004年2月、遠山正瑛 永眠

「緑なくしては人間生活できない。知恵のある人 知恵を出す。物のある人 物を出す。金ある人 金を出す。命出す人 命出す。4つが組んで頑張れば世界の砂漠は緑化する。これが私の信念」と生前語っている

 

今も遠山が立ち上げた沙漠緑化実践協会は植林を続けている

植林したポプラは450万本

沙漠緑化実践協会 恩格貝事務所長:間瀬弘樹は、

日本からのボランティアの受入や指導などを行っている

砂漠の森は、飛砂を防ぎ農地が生まれ、貧しかった恩格貝は豊かになった

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地球上で最も広いサハラ砂漠

●たった1人で砂漠を森に変えた男:ヤクーバ・サワドゴ

絶え間ない干ばつと飢饉…

広がり続ける砂漠から非難する人が後を絶たない

そんな場所にある小さな国:ブルキナファソ

今から50年前、当時7歳のヤクーバは、

家族の元を離れ寄宿制の学校に通っていた

卒業後は機械の部品を売る店を開いた

1908年ごろ、ヤクーバの故郷:ゴルマ村は、干ばつにより深刻な食糧難に

そのためもっと肥沃な土地を求め、移住していく人が後を絶たなかった

村民の1/4が村を捨てた

村のピンチにヤクーバは店をたたみ、故郷へ戻る事を決意

故郷に帰るとそこは荒れ果てた土地に変わっていた

ヤクーバは一人、村の土地を耕した

この地域には古くからの伝統的な農法があった

それは雨期直前のある決められた日に小さな穴を掘って種を植えるというもの

しかし、この方法を試しても状況は変わらなかった

そこでヤクーバは、皆が休んでいる乾期の時期から、

大きな穴をたくさん掘り、

その中に動物の糞など堆肥を入れる方法を試した

さらにシロアリを農地に放し、

巣を作らせることで土を柔らかくする方法も取り入れた

雨期が来るまでの間、一人この作業に明け暮れた

これまで雨水は硬い土の上をあっという間に流れていくだけだった

そこで石を並べ低い堤防を作り、雨水をせき止めてしまえば、

ゆっくりと土に吸収させることが出来ると考えた

自分が信じたやり方で一人荒れた土地を耕し続けるヤクーバ

すると耕した穴から植物が育ち、多くの農作物を収穫することが出来た

この農法はザイ農法と呼ばれ、

ヤクーバは村のために来る日も来る日も耕し続けた

その姿はいつしか村人の心をうち、賛同者が現れ、

規模は次第に大きくなっていく

仲間が増えヤクーバはザイ農法を使い、

砂漠に種を植えて木を生やそうと試みた

すると数年後、サッカーグラウンド12面分もの広大な緑地ができた

ヤクーバは木が一本も生えていなかった砂漠に森を作る事に成功した

1990年、再び大規模な干ばつに襲われたのだが、

作物を収穫できたのはザイ農法を取り入れた土地だけだった

20年余りの歳月をかけてヤクーバが砂漠に作った緑地は、

サッカーグラウンド30面分にまで広がっていた

そんなある日、ゴルマ村近くの町を拡張する国の計画が持ち上がり、

ヤクーバが必死に開拓してきたのうちヤモリが潰されることとなった

そこへヤクーバが砂漠に森を作ったニュースが世界に届いた

貧困地域支援団体オックスファムから

ザイ農法について話してほしいとアメリカに招待された

そこには多くのNGOスタッフや政府関係者の姿が…

彼はアメリカの様々な場所で体験談を語り大成功を収めた

ヤクーバの試みが世界に認められたのか、

都市拡張計画が変更され農地や森は潰されない事になった

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