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奇跡体験!アンビリバボーで紹介された倒産寸前の十勝バスが起こした奇跡

それは地方の路線バス会社が日本で初めて起こした奇跡だった

北海道帯広市にある十勝バス

社長:野村文吾の誠実さと諦めない心は老舗バス会社の常識を打ち破った

 

十勝バス創業家の長男として生まれる

学生時代はテニス部で活躍、一時はプロを目指すほどの腕前だった

東京の本社を持つ大手ホテルチェーンに入社

広報としてキャリアを積んだ後、札幌に異動

エリートビジネスマンとして活躍する一方、

結婚し子供にも恵まれマンションも購入

順風満帆な日々を送っていた

 

●倒産寸前のバス会社

1998年、帯広でバス会社を経営する父が突然訪ねてきた

「会社をたたむことにした…」

十勝バスは帯広を中心に十勝地方全域に展開している路線バス

市民の足として70年に渡り愛され続けてきた

しかしマイカーブームの到来と共に利用者は減り続け、

その数は全盛期の3割まで落ち込んでいた

「それには筆頭株主のお前の了解が必要なんだ」

2代目社長だった祖父の株は、全て孫の文吾の名義になっていた

バス会社が無くなっても何も困らない…

しかし父がやってきたバス会社があったからこそ

今こうして自分はこの上ない幸せな日々を送れているのではないか

野村は決意した

翌日、父を呼び出しバス会社を継ぎたいと申し出をする

このまま十勝バスの危機を見過ごせない

こうして34歳で十勝バスに入社した野村は、

経営企画本部長として280人の社員の陣頭指揮をとることになった

その頃の十勝バスは補助金なしでは運営できない状況

だがその補助金も利用者が減り続ければ給付されなくなる可能性もある

一刻も早く立て直さなければ倒産するのは必然だった

野村は営業強化とサービス向上を訴えた

当時、十勝バスでは利用者の減少を自然減と呼んでいた

社員の誰もが客の減少は時代の流れ、

何をしても乗客が増えることなどないと諦めていた

それゆえ立て直しを図ろうとする野村と社員が対立するのも当たり前だった

野村は帯広青年会議所に入会した

先輩経営者たちとの交流をきっかけに会社を立て直すヒントを得たい、その一心だった

そんな野村の相談にいつも付き合ってくれたのが会議所の長原氏と笠原氏

毎晩、深夜まで会社再建について話し合った

ある日の事、野村はいつものように社員と父親の愚痴を聞いてもらっていた

「お前いい加減気付けよ。お前が会社をダメにしてるんだ」

「一緒に働いている人の事を愛せよ。従業員の皆さんを愛するって今ここで誓え」

胸を一突きにされた気分だった

今まで精いっぱいやっていいるつもりで大切なことが見えてなかった

「従業員の皆さんを愛します」この言葉にすがるしかなかった

翌日、野村はすぐに行動に移した

社員の前で「僕は間違っていました。すみませんでした」

早朝は出勤する社員全員に挨拶

暇を見つけては自分から歩み寄り、社員との距離を縮める努力をした

そして彼らの意見に耳を傾け、直接自分の想いを語った

その一方でわずかに残った会社の資産を売却するなど、

十勝バス存続のためにできることは全てやった

相変わらず赤字は続き、厳しい経営状態ではあったが、

野村の働きかけにより社員たちが少しずつ変わり始めた

 

そんな頃、野村は正式に社長に就任

まさにこれからと思っていた矢先、最大に危機が襲う

世界的な原油価格の上昇で燃料費が高騰

十勝バスはついに破産寸前に追い込まれた

さすがの野村も覚悟した

しかし、社員から「営業を強化するしかないですよね」の意見

それは10年前に野村が提案し社員に一蹴された営業強化、

しかも現状維持を望んでいた社員が前を向き始めた

社員らは自主的に各家庭に時刻表と路線図を配る準備を始めた

これはかつてどこの路線バス会社もやったことがない日本初のアイデアだった

実行に移せば新しい顧客開発に効果がある、野村はそう確信した

「チラシは白樺通19条停留所の周辺だけに配ります」

せっかくのアイデアだったが配布するのは一つの停留所、その周辺だけ

社員の中にまだ営業に対する拒絶感が残っていた

それは野村の想像の1/10程の範囲だったが、

社員自らが出した初めての提案にかけてみる事にした

十勝バス初めての営業、無論 社員たちにとっても初めての経験

緊張と恥ずかしさでポストに投函するだけでも勇気が必要だった

嫌な顔をする住人は一人もいなかった

逆にいろいろ質問されることの方が多かった

そして数日後…

「社長、最近何かありました?いつも素通りする停留所に客がいるんです」

「どこの停留所ですか?」「白樺通19条です」

それはまさに社員たちが自分の足で営業した停留所だった

これをきっかけに社員たちから様々なアイデアが出るようになった

通院や買い物する利用者のために目的別の路線図を作った

定期を利用する乗客には土日乗り放題のサービスを始めた

それらは皆 利用者の立場で考えたモノ

乗客にとって新しく魅力的なバスの利用法が生まれた

社員を愛すると決めてから6年余り、

その想いはいつしか利用者を愛する事に繋がっていた

そして十勝バスの乗客は自然と増加していった

十勝バスを取り巻く環境が少しずつ変わっていく

自分たちは必要とされている、その誇りが社員一人一人を支えた

野村が入社してから13年目の2011年、ついに十勝バスは増収に転じた

地方の路線バスの増収は全国初の快挙だった

さらに2014年2月、十勝バスの奮闘ぶりがミュージカル「KACHI BUS」となり、

地元帯広で上演された

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●23年ぶりの奇跡のライブ

伝説のバンド:ROGUEの奥野は今…

群馬県にある障碍者支援施設で重度の障害者として暮らしている

正常に動くのは胸から上の部分だけ、肘から先の手も自由がきかない

 

同じ群馬県で生まれた奥野敦士と香川誠は18歳で上京

音楽の専門学校で出会った彼らは意気投合、共にメジャーデビューを目指した

安アパートで一緒に暮らすギリギリの生活

それでも夢だけは諦めなかった

●1985年、2人が中心となり結成したROGUEがメジャーデビューを果たす

代表作は奥野が作詞作曲を手掛けた「終わりのない歌」

1989年、日本武道館で行われた単独ライブで8000人を動員

伝説のバンドとなった

しかし翌年、ROGUEは突如解散

それは奥野の一方的な理由からだった

「解散しようと思ってるんだよね。そろそろ自分のやりたい音楽とかさ、やりたい時期に来てるんだよね」

2人はわだかまりを抱えながら決別

それぞれ新しい道を歩み始めた

奥野はソロ活動のかたわら役者としても活躍、その活動は多岐に渡った

一方、香川もギタリストとして氷室京介らと共演など成功をおさめた

月日が流れるにつれ奥野は、

現実の厳しさを思い知らされるようになっていた

徐々に仕事が減り、生活は荒んでいった

いつしかバンドの仲間が恋しくなっていた

同じくROGUE復活を望んでいた香川

再結成のために荒んだ生活から脱却したい奥野は酒を断つことを決意

解体業の仕事を始め、生活を一変させた

そして夜は復活ライブに向け、曲作りに精を出した

●2008年9月11日、奥野は地上7mの屋根から地面に転落した

目を覚ましたのは事故から数時間後のこと

診断結果は頚椎損傷…奥野は胸から下が全く機能せず、

トイレにも行けない完全介護の身となった

厳しいリハビリが始まった

それは歩けるようになる為ではなく

腕や手なの動く可能性が残っている筋肉をほぐし、

僅かな改善を目的としたものだった

事故から2か月が過ぎた頃、奥野は一人屋上に出た

歌が歌えるか確認するため…だが、

歌を歌うための腹式呼吸ができなくなっていた

その後、香川は一度だけ奥野の見舞いに訪れた

しかし2度と行くことはなかった

2009年4月、ベルトでお腹の圧力を加えれば声が出る事が分かり、

以来、声のリハビリを繰り返した

歌のリハビリを開始してから1年半が過ぎた頃、

奥野は自分が歌っている姿を撮影した

●「終わりのない歌」とは?

上京してみると思い描いていた都会とはちょっと違う

寂しい思いもいっぱいしている、孤独感とか

そういう思いを曲に出来たらなと思って…

歌詞にある“臆病者の鳩がガード下で群れを成して”は

上京した直後の上野駅で見た光景だった

孤独に負けていたら何もできない人生は自分との闘いなんだ

●2018年8月、ミスチルの桜井が車いすで歌う奥野について熱く語った

「奥野さんのような状況になってもクシャクシャの笑顔で楽しくハッピーに歌を歌っていたい」

香川はこのライブを偶然、目にした

会場で流れた映像で初めて奥野の歌声を聴いた

「何だ歌えるんじゃん」

そして香川は奥野の元に向かった

「奥野、ROGUEを再結成しないか?」

どうせやるならと香川の発案でチャリティーコンサートして開催

収益金で福士車両を購入し、前橋市に寄付することになった

 

 

●2013年10月19日、23年ぶりにROGUEが復活した

2013年12月29日、群馬県高崎市で行われたイベントには1000人のファンが訪れていた

再結成を記念してCDが発売されていた

香川「新曲を出し続けないと意味がない」

奥野「ROGUEとしての活動はずっと続けていこうと思う」と語った

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