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●耳の聞こえない彼女の夢を叶えた彼の愛

1977年、山形県米沢市に生まれた清美さん

清美さんは生まれながらにして重度の難聴、そのレベルは1種2級

人が話す言葉や音楽は聞き取れない

しかし母の猛特訓により幼稚園に上がる頃には、

人の口元を見て言葉を読み取れるように…

小学生になった清美さんはテレビに釘付け

視線の先は松田聖子

歌声は聞こえなくても松田聖子は輝いていた

私も歌を歌いたい、でも耳が聞こえない清美さんには歌うことなどできない

高校を卒業し就職

 

2002年6月、清美さんは北千住の駅前で

一人のストリートミュージシャンと出逢う

耳の聞こえない清美さんに不思議なことが…

目の前で歌う彼の声が清美さんの体を震わせた

そして“私は耳が聞こえませんが今度隣で手歌で歌の表現をさせて下さい”

と手紙を渡した

清美さんの強い想いに動かされ、申し入れは受け入れられることに

彼の名前は佐々木厚

2人は北千住の駅前で路上ライブをやる事に…

厚さんは歌を、清美さんは手話でサインボーカルを

何度も路上ライブを重ねていく中で、

清美さんはやっぱり歌姫になりたい、あの夢が甦る

その想いを聞いた厚さんは清美さんの夢を叶えるための詩を書いた

曲の名は「キセキ」

耳の聞こえない清美さんには音程を取ることなど不可能

何度も何度も繰り返し間隔だけで音程を覚えるしかない

3ヵ月間、猛特訓が続き2002年9月、ついに念願の初ライブの時がやって来た

しかし上手く音程を取る事は出来なかった

彼女は限界を感じていた…

しかしそんな時、厚さんがかけたのは前向きな言葉ばかり

厚さんは決して諦めようとはしなかった

どんなに時間がかかってもいい、2人で奇跡を起こそうと誓った

 

2003年、2人の夢だったレコーディングが実現

レコーディングは簡単にはいかなかったが、厚さんは諦めない

清美さんの傍でずっと励まし続けた

そして2004年11月、「♪キセキ」でメジャーデビューを果たした

 

しかし音楽の世界は甘くはなかった

徐々に仕事も減り、厚さんはバイトをしながら地道に活動を続ける事に…

 

気付けば9年の時が過ぎていた

清美さんの歌の活動も少なくなり、2人が会う事はなくなっていった

会わなかった空白の時間が、清美さんは厚さんが、

厚さんは清美さんが、1番大切な人だと気付かせてくれた

出会って12年、長い時間がかかったが2人は結ばれることに

結婚式に向けた清美さんは生まれて初めて歌詞を書いた

自分の夢の実現のために常に傍で励まし続けてくれた厚さんに感謝の気持ちを込めて

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中国全土が涙した奇跡

●母の車いすを押した3300キロの旅

北京で母親と一匹の犬と暮らすハン・モウさん(26歳)

仕事では失敗続き、さらに4年間付き合っていた彼女にもフラれ、失意のどん底にいた

しかし塞ぎこんでいても仕方がない、そう思ったハンさんは旅行に行くことにした

母親のコウ・ビンクンさんは、幼い頃、小児マヒを患い足に障害が残っていた

さらに心臓に持病を抱え、飛行機や車での長距離移動も出来なかった

そのため彼女は生まれてから一度も旅行に行ったことがなかった

そんな彼女が、一度は行ってみたいと思っていたのが、中国南部のシーサンパンナ

タイ族などの少数民族が独自の文化を築き、

暖かい気候と美しい自然に溢れた観光地

ハンさんは母親を連れてシーサンパンナまで旅をする事に…

旅の目的を傷心旅行から母へ捧げる親孝行の旅へと変えた

登山リュック、テント、寝袋などをはじめ合計150キロの荷物を用意した

北京からシーサンパンナまでは3000キロ以上

飛行機や長距離バスに乗れない母のために車いすを押し、歩いて旅行する事にした

2012年7月11日、果てしない旅がスタートした

母と愛犬、そして150キロの荷物を車いすに乗せて

水や食料は必要な分だけを買い込み、無くなるたびに補給

夜は宿泊施設が無ければ道端にテントを張って野宿した

7月14日、3日間ずっと押し続けたハンさんの靴下は破れ、

足にはいくつものマメができていた

 

1959年、ハルピン市に生まれた母が北京に引っ越したのは2歳の時

ほどなくして小児マヒにより杖がなくては歩けない体になってしまった

そんな彼女を慰めようと父親が見せてくれたのが、

シーサンパンナのお祭りを撮影した映像だった

その美しい光景に目を奪われた

シーサンパンナは、いつしか彼女の中で憧れの地となっていた

 

旅を始めてから1月ほどするとハンさんの肉体は逞しく成長

1日に進む距離もどんどん上がっていった

車いすのタイヤは穴が開くたびに修理し、擦り減ったら予備のタイヤに付け替えて進んだ

9月24日、サーサンパンナまで730キロ

険しい山道の連続に車いすの車輪が壊れてしまった

あたりに人が住んでいる気配はなく予備のタイヤも底を尽いていた

何度か修理を試みたが、これ以上車いすで進むことが出来ないのは明らかだった

旅を諦めるしかない、と思ったその時、

見ず知らずの人が新品の車いすを持って現れた

「書き込みを見てるよ」

実はハンさんは道中の様子を中国版ツイッター(ウエイボー)に書き込んでいた

そして車いすが壊れた事も…

ハンさんの書き込みを見た多くの人が

彼の途方もない親孝行の旅に大きな共感を寄せていた

そして、すぐさま車いすを持って駆け付けてくれた

親と子が思いやる気持ちは次第に多くの人の心を動かし、

やがて水や食料、着替えなど、旅に必要な物を届けてくれる人たちが次々と現れた

気付けばたくさんのボランティアに囲まれながらシーサンパンナを目指していた

そして数々の困難を乗り越え出発から100日後の2012年10月18日、

親子はシーサンパンナに到着した

現地の人は親子を心から祝福

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日本が世界に誇る50人で紹介

 

●羽生結弦を救った金メダリスト

 

2種類の4回転ジャンプを有するフィギュアスケート選手:羽生結弦

子供の頃、彼はスケートを辞めるかもしれない状況に追い込まれていた

2004年、全日本選手権 9歳から11歳の部門で優勝

仙台の天才少年の将来に期待が集まった

 

そのわずか1ヶ月後、練習していた勝山リンクが財政難で閉鎖されてしまった

その報せを聞いて号泣、スケートを辞めなくちゃいけないのか?と悲嘆した

 

しかし奇跡が起きる…2006年、トリノオリンピック

イナバウアーで世界を魅了した荒川静香

オリンピックのフィギュアスケートで日本人初の金メダルを輝いた

直後の会見、荒川は世界のメディアを前に

「私が基礎を作り上げてきたリンクは閉鎖されてしまいまして、小さい子たちが練習場所を探すのに非常に困っている状況です…」

荒川は仙台育ち、羽生と同じリンクで練習していた

「リンクの状況が今後良くなっていくことをいつも願っています」

 

金メダリストの訴えは、一気に事態を動かした

宮城県と仙台市が合わせて1億円を支援

金メダリストを育てたリンクは2007年に再開された

 

その1ヶ月後、再開されたリンクで金メダリスト:荒川がスケート教室を開いた

そこには当時12歳の羽生の姿が…

羽生は荒川の前で得意のイナバウアーを披露してみせた

 

男子のトップ選手でイナバウアーをやるのは羽生以外にはいない

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