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1977年、神戸で3人姉妹の次女として生まれる
地元の女子大を卒業後、母校の事務員に
28歳のとき、平凡な毎日を変え、私にしかできない仕事をしたいと子供やシングルマザーを助ける団体に連絡を取ってみた
10日間だけでもいいからすぐに現場に来てほしい、との返事
夏休みで特に予定もなかった陽子さんは、何の気もなしに申し出を受けた
現場は日本ではなくフィリピンだった
一度受けた以上断るわけにもいかず、陽子さんは貧しい子供と遊ぶという活動に参加
以来、大学で事務の仕事を続けながら、
まとまった休みが取れるとフィリピンに来て活動に参加するという生活
2年後、陽子さんが体調を崩し、手当してくれた日本人女性の冨田江里子さんと出会った
冨田さんは、フィリピンで助産院を立ち上げ、貧しい人を助けていた有名な人物
「フィリピンには、元気に生まれてきても貧しくて学校に行けない子供たちがたくさんいる。この子たちが学校に行けないことでさらに新しい貧困を生み出している。どこかで誰かがこの負の連鎖を断ち切らなければならない」と冨田さんから聞いた
これこそが自分がやるべきことでは、とはっきりとそう思った
陽子さんは、フィリピン移住を決意
2008年、30歳でフィリピンへ
支援者を募り、資金を集め、自らの貯金もつぎ込み、活動の拠点となる場所を造った
場所ができると学校に通っていない子供の親を説得して子供を集める日々
こうして学校に行けない子供を学校に戻れるように橋渡しする寺子屋のような施設「ウィッシュハウス(希望の家)を開設
そんなある日、施設にガリガリに瘦せ細った1歳9カ月の女の子ユニスちゃんがやって来た
両親が育児放棄し、親戚すらも押し付け合い、誰も面倒を見ようとしない
あらゆる施設をたらいまわしにされ、最期に連れてこられたのが、陽子さんの施設だった
命の危険を感じた陽子さんは、何とかしなけらばと特別にユニスちゃんの世話を引き受けた
医師と相談しながら必死の看病を続けた
ユニスちゃんは次第に健康を取り戻し、体重も少しずつ増えていった
一度が育児放棄した親も改心し、半年間施設に通い育児の訓練を受けた
両親から何とか引き取らせてほしいと懇願されたので、ユニスちゃんを親元に返した
しばらくして、実の母親が与えたミルクを吐き戻し、肺に詰まらせた
しかし治療費がなく病院に行くのが遅れ、ユニスちゃんは意識不明の重体に
陽子さんが病院に駆け付けた時には、もう手遅れの状態だった
一度は救った命、救えたはずの命…2年6か月の命だった
陽子さんはあまりのショックの大きさに施設を閉鎖しようか…そうまで考えていた
その2か月後、またガリガリに痩せ細った少女が連れられてきた
8歳なのに、体重はわずか10㎏、同じ年の子の半分しかない
生まれて間もなく母を亡くし、その1年後に父を亡くし、その後、育ててくれた祖母までも亡くした少女
幼いときから慢性的な栄養失調で、親戚も引き取るのを嫌がった
私がこの子を守らなければ、陽子さんは引き取り、看病を続けた
陽子さんは、今、無事 回復した少女:プリちゃんと一緒に暮らしている

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