大正から昭和初期、パラオは日本の統治下にあった

先住民を奴隷のように働かせ、国を支配するのが当たり前だった時代、

パラオを重視していた日本は、25年の年月をかけて

農業を伝え電気を通し道路を舗装、人々が豊かに暮らせるように尽力した

そのためパラオ人は、親日家が多い

日本への憧れから日本の国旗に似た国旗を採用している

●パラオ900人の命を守った日本軍人:中川州男

1898年、熊本県玉名郡に生まれる

父:文次郎は、西南の役で西郷隆盛と共に戦った経験もある藩士

そんな父から口酸っぱく諭された言葉があった

「弱い者に優しくなれるよう強い男になれ」

18歳で陸軍士官学校に入学

そしてはじめて中隊長となった時、

「鉄拳制裁の禁止」という型破りな決まりを設けた

 

中川指揮の下、演習を行っていた時、兵士たちは束の間の休息をとっていた

ある兵士が故郷で息子の帰りを待っている母親の写真をポケットから取り出した

休憩を終え、演習を再開した時、一枚しかない写真を落としてしまった

演習地から基地へと戻った後、兵士は写真が無くなっていることに気付いた

しかし軍の規則で個人的な外出は許されず、写真を探しに引き返すことはできない

そこに中川が通りかかる「どうした?」「実は写真を落としたみたいで」

「探しに行くぞ!今ならまだ見つかるかもしれん」

中川は自ら演習地へ戻り、部下のために写真を探し見つけ出した

軍の規則にとらわれず、型破りな行動をする中川は部下からの信頼が厚かった

 

1941年、太平洋戦争が勃発

アメリカは圧倒的軍事力で日本領土を次々と制圧

次にパラオ諸島のひとつペリリュー島が目標とされた

戦況が悪化する中、守備隊長に任命されたのが中川州男

ペリリュー島に到着後、最初に行ったのは、戦場となる島の視察

島全体がジャングルで覆われ、頑丈な岩山が連なる特殊な地形

中川は岩に穴を掘って基地を造り、頑丈な岩を縦に戦う作戦を思いつく

ペリリュー島の地盤は想像以上に硬く、手作業で掘るのは極めて困難

部隊の士気を保つため、つるはしを持ち基地造りの先頭に立った

しかし基地造りは一向に進まず、アメリカ軍は徐々にペリリュー島に接近

そんな時、つるはしを持ったペリリュー島の住民が現れた

「私たちは日本の人たちに大変良くしてもらいました。私たちも手伝います」

中川たちは島民と手を組み、作業は急速に進められていった

苦楽を共にし、固い絆で結ばれた日本兵と島民

中川は手伝ってくれた島民たちに対し、深い感謝の想いを抱いていた

 

アメリカ軍を率いるのは、アメリカの英雄:チェスター・ウィリアム・ニミッツ

こんな小さな島、3日で制圧できる

アメリカは日本軍の難波もの兵力を集結し、ペリリュー島へ接近

戦闘を間近に控え、本部では連日 作戦会議が開かれる緊迫した状況

そこへ「隊長さん、私たちも一緒に戦わせてください」

家族同然に接してきた中川たちのため、島民は戦闘に参加する決意をしてきた

「ふざけるな!我々誇り高き帝国軍人が、貴様ら土人などと一緒に戦えるか!」

中川は島民の申し出を冷たくあしらった「この島から出ていけ!」

命を懸ける覚悟を決めた島民にとって信じられない言葉だった

戦闘に参加することを拒否さえ、追い出されるように島を後に

徐々に島を離れていく船から見えたのは、中川をはじめ敬礼をする日本兵たちの姿

冷たくあしらわれたのは、島民を守るためのウソだったことに気付く

島民を戦闘に巻き込まないよう安全な場所へと避難させた

 

1944年9月、アメリカ軍が遂にペリリュー島に到着

猛攻撃を仕掛けた

日本軍が浴びた砲弾は17万発

それでも日本軍は島民と造り上げた頑丈な基地を盾に応戦

3日で終わると思われていた戦いは、74日間にもおよびアメリカ軍に深い痛手を負わせた

しかし約1万人いた日本兵は次々と倒れ、たったの34人に

1944年11月24日、中川州男は自決、享年46

戦争が終わり島に戻った島民たちが目にしたのは数多くの日本兵の亡骸

悲しみに暮れながら遺体を葬った

 

その後、日本に代わりアメリカがパラオを統治

日本は侵略国家、残虐民族とアメリカは反日教育を進めるものの、

日本と固い絆で結ばれたパラオの人々は何一つ信じなかった

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2011年11月5日、アメリカ ミネソタ州 ミネアポリス

16歳のエイミーは小児がんのためのチャリティーパーティーに出席した

エイミーを誘ったのは同級生のサミーとザック

実は ザックは骨肉腫と闘っていた

エイミーがダンスを楽しんでいると、右わき腹に鋭い痛みが走った

病院に運ばれたエイミーの病名は盲腸

すぐに手術をし退院すると

サミーが友人を引き連れて見舞いに来てくれた

その中にザックもいた

深刻な病に侵されながら人を気遣うザック

これがきっかけでエイミーとザックは親しくなっていった

 

高校の入学式を直前に控えていたある日、

突如 ザックの関節に異変が起きた

母と病院に行くと骨肉腫と診断された

ザックはすぐに治療を始めることになった

まず3か月間の化学治療、入院して学校には通えなかった

化学療法である程度 腫瘍を小さくしてから摘出した

大腿部を数センチと股関節を切除し、人工関節を入れた

高校に入ったらサッカーをやる夢は断たれた

運動ができない分、ザックが夢中になったのは音楽

幼馴染のサミーと歌うことが楽しみとなった

治療を始めて8か月が経ったころ、肺に新たな腫瘍が見つかった

両肺を開き、腫瘍は取り除かれた

この先は3か月ごとに検査をしていくことになった

高校2年生の時に何とか復学

しかしまた新たな腫瘍が発見され、再び抗がん剤治療となった

「抗がん剤は効いていません。治療は中断しましょう」

と医師に告げられ、もはや手の施しようがないと宣告された

 

エイミーと仲良くなったのは、そのころだった

エイミーはいつもザックを元気にした

ザックはエイミーに心が惹かれていることに気づいていたが、

もし告白しても辛い思いをさせるだけ、そう考えていた

だが好きになる気持ちは止められず、半年悩んだが、

エイミーが自分をどう思っているのか探ってくれないか?

とサミーにお願いした

 

「ザックの気持ちはとてもうれしい。でも私に受け止められるかな?」

「友達と恋人では全然違うもんね」

「サミーならどうする?」

「分からない。私は兄妹みたいなものだから。ザックに恋人ができれば生きる目標ができるからうれしい。本当に好きなら付き合ってあげて」

 

おそらく長くない彼と付き合っていけるのだろうか?

悩んだ結果…エイミーはザックに直接、

「頼りにならないかもしれないけど ずっとあなたと一緒にいたい」

「本当に?やった!信じられないよ」

エイミーはザックを支え、ともに困難と闘うことを決めた

 

その矢先「腫瘍は骨盤まで広がっています。骨盤を半分と左足を切断すれば局所の腫瘍は取り除けますが」

「もういいです」

どんな治療にも前向きだったザックが、初めて手術を拒否した

そしてこの日、余命宣告された。18歳の誕生日を迎えられるか…

死の恐怖、愛する人たちを遺して先立つ悔しさ…

命の期限をエイミーにも告げた

エイミーは一緒に泣いてくれた

病状は刻々と進行し、待ち合わせしても

突如入院することになり行かれないことも

エイミーのために腫瘍の増殖を抑える放射線治療を始めた

 

やがてザックの肺の腫瘍は巨大化、呼吸をするたび痛む

エイミーは学校が終わるとザックが眠るまで一緒に過ごした

ザックはみんなへの想いを「Clouds」というタイトルの歌にしていた

 

すると地元ラジオ局がこのことを知り、

ザックとプロのミュージシャンによって

レコーディングされることになった

愛する人のために作った曲は

You Tubeにアップされ300万回も視聴された

「エイミー 僕 新しい目標ができたんだ。プロムに君をエスコートする」

「本当!約束よ」

プロムはザックの18歳の誕生日の翌日に行われる

ザックは痛みを抑える緩和ケアを受けている状態

起き上がるのがやっとだったが、

エイミーをエスコートする、その一心が彼を奮い立たせていた

2013年5月4日、18回目の誕生日を迎えることができた

 

ザックとエイミーはプロム会場へと向かった

立っているのがやっとのザックは、見事エイミーをエスコートした

2013年5月20日、ザックは家族とエイミーに見送られ、この世を去った

 

ザックの死後、ミネソタ州で行われたチャリティーイベント

約5千人がザックが作った「Clouds」を大合唱

さらにこの曲は、iTunesのダウンロードでトップを獲得

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たった1人で1万8千坪のガーデンを造った紫竹照葉

 

生まれも育ちも北海道帯広市

建設会社を営む家庭に生まれ、

20歳で4歳年上の勲さんと結婚

父親の跡を継ぎ建設会社の経営に携わった

2人は口喧嘩ひとつしたことがない超ラブラブな夫婦

3人の娘にも恵まれ、幸せな生活を送っていた

 

しかし照葉が56歳の時に最愛の夫:勲さんが心筋梗塞で急死

最愛の夫を失い、何一つ手につかない日々

そんな時、長女:和葉さんが、

「お父さんはお母さんのことを ひまわりのような太陽みたいな人だ。そんなお母さんが大好きだって言ってたのよ。それなのにいつまでも泣いてばかりでいいの?」

 

私がメソメソしている姿を空にいる主人が見たらがっかりしてしまう

 

昔から花が大好きだった昭葉さんは、

63歳にして大きな花畑を造ることを決めた

貯金をはたいて1万8千坪の土地を購入

当然、家族は猛反対

そんな話には聞く耳を持たず実行に移した

元々はただの牧草地

たった一人で花畑を造り始めた

その情熱と行動力により周囲の反対や心配も

いつしか応援へと変わっていった

 

しかし霜のせいで1年目に植えた花は全滅

 

 

試行錯誤の末、スタートから3年、

66歳にして紫竹ガーデンをオープンした

 

2500種類の花々を観に年間12万人も訪れる帯広の観光名所になった

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1942年、両親共にオックスフォード大学 卒業という超エリート一家に生まれた

子供のころクラスメイトに付けられたニックネームは、アインシュタイン

周囲と比べ桁外れの知能を持ち合せていた彼は、

数学の先生が教科書から宿題の出すと

問題を解いた上で教科書の全ての間違いを修正して提出

 

1959年、飛び級して17歳でオックスフォード大学の物理学部に入学

ボートクラブに入り、毎日パーティーをして遊んでいた

しかし彼の身体に異変が起きる

大学の最後の年、突然転んでしまうことが何度か起きた

大学を首席で卒業すると20歳でケンブリッジ大学の大学院に進学

そこで当時、科学界の最大の争点、宇宙の始まりについて研究を始めた

 

体の異変がおさまらず2週間入院して精密検査を受けた

運動ニューロン疾患(筋委縮性側索硬化症)と診断された

手足や口など身体の筋肉を動かす神経が障害を受け、

徐々に体が動かなくなり最悪の場合 呼吸不全で死に至る難病

医師からは余命2年と宣告された

体がいつ動かくなってしまうのか?彼は途方に暮れた

研究していたことも全て無駄になるのではと自暴自棄になった

 

そんな彼を絶望から救ってくれたのが、

ジェーン・ワイルドとの出会いだった

彼は恋におち、生きる望みとなった

彼女と結婚するにはお金が必要、そのためには生きなければならない

そんな彼が生計を立てるには、物理の道しかなかった

すると世界を揺るがす事になる新たな説に辿り着いた

それは 宇宙はビッグバンと呼ばれる大爆発によって始まったという説

彼は限られた期間で、ビッグバン宇宙論を証明するしかない

研究を続けることで大学から奨励金を貰う事が出来た彼は、

ジェーンと結婚

 

だが彼の体を徐々に病気が蝕んでいく

ハネムーンはニューヨーク州にある大学の物理学会議だった

2人は子宝にも恵まれ、いつしか余命の2年も過ぎていた

 

大学院で博士号を取得した彼は、

宇宙の研究を続けながらケンブリッジ大学で物理学を教えることに

その頃になると彼は立つことが出来なくなり以来、車いす生活を余儀なくされる

体が衰弱する一方で、ビッグバン宇宙論の理論を組み立てることに成功

多くの科学者を納得させるもので

やがてホーキングの理論が科学界の定説となった

 

だが病気はさらに進行

手がほとんど動かなくなり文字や計算式を書く事もできなくなった

彼は髪やペンを使わず頭の中で宇宙の図式を組み立てることにした

もはや時間は残されていないと思い、宇宙の始まりについての研究を本に残そうと決意した

 

そんなある日、肺にばい菌が入り、それが元で肺炎に

こん睡状態で生命維持装置に繋がれた

医師はジェーンに生命維持装置のスイッチを切ることを提案した

ジェーンは拒否

数週間に渡る治療の末、何とか一命をとりとめる

この時の手術で喉を切開したため話す事は完全にできなくなった

常に人工呼吸器に繋がれ、24時間の看護が必要となった

もはや本を書き上げることは不可能と誰もが思っていた

だが彼はわずかに動く手でマウスを握り、執筆を再開した

そして数か月後、驚くような速さで書き上げた本が「ホーキング、宇宙を語る」

世界40カ国で翻訳され、発行部数は1000万部以上となった

そしてホーキングは研究以外にも様々な事にチャレンジし、人生を謳歌していく マスコミに追われる事でストレスを感じるようになったジェーン

結婚から26年後に離婚した

1953年、53歳の時 看護師のエレインと2度目の結婚したが、11年後に離婚

 

「私は死ぬことを恐れていません。ただ死ぬ前にしたいこと発見したいことが山ほどあるのです」

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デビューから10年で世界4大 大会において計8回の優勝も誇り、

1988年、世界ゴルフ殿堂入りを果たした伝説のプロゴルファー

 

1973年、プロ2年目のトム・ワトソンが練習場で

18歳のブルース・エドワーズに声をかけられた

「僕をあなたのキャディにしてくれませんか?」

高校時代にアルバイトでキャディを経験、

高校卒業後はプロのキャディとして仕事を探していた

その熱意に押されワトソンは、ブルースを専属キャディとして採用する

ブルースの手帳には細かいメモがビッシリ書き込まれ、

パットの際のアドバイスも的確だった

現在はキャディが戦略的アドバイスをするのが普通だが、

当時はバッグを担ぎクラブを渡せば十分だった

 

2人のコンビは、快進撃を続け、

1977年から4年連続でアメリカのゴルフツアーで賞金王に輝いた

そして1982年、全米オープンで優勝した

だがその後、ワトソンはスランプに陥った

優勝から遠ざかり賞金ランキングは39位まで転落

思い通りのショットが打てない事から出場を見合わせる試合が増えた

試合に出なければキャディであるブルースの仕事もない

 

ワトソンは優しさから、他の選手のキャディになる事を薦め、

ブルースはワトソンの元を去っていった

ブルースはグレッグ・ノーマンからのオファーを受け、キャディとなった

ノーマンは世界中で様々な大会に出場し、好成績をおさめていた

ワトソンについていた頃に比べ、ブルースのギャラは2倍

一方、ワトソンは相変わらずスランプから抜け出せずにいた

そんなある日、「トム誕生日おめでとう」ブルースからの電話だった

「ノーマンのキャディはもう辞めようと思うんだ」

「今の生活を捨てる気か?キャディとして最高の舞台に立っているんだぞ」

「あぁ立ってるよ。でもどうせ立つなら…君と立っていたいんだ」

ブルースはワトソンのキャディに戻ることを選択し,

これまで以上にワトソンを支えた

そしてコンビ復活から4年、

1996年 世界最高峰のツアーで9年ぶりの優勝を果たした

 

ある日、物を上手く掴むことが出来ず、ろれつも回らないブルース

心配になったワトソンは、検査を受けさせた

すると、ALS(筋委縮性側索硬化症)と診断された

筋肉が徐々に衰えていき、最終的には手足を動かす事はおろか、

呼吸さえも自力でできなくなる

原因不明の難病で治療法は存在しない

「ALSという病気らしい。あと3年生きられるかどうか…だってさ。残念だよ、もっと君とコースに立ちたかったんだけどな。こんな体じゃ君に迷惑をかけ…」

「諦めるのか!僕はゴルファーとしてこれからも世界の舞台に立ち続ける!でもどうせ立つなら君と立っていたいんだ」

ワトソンは練習時間を調整しバッグの重量を軽減、

医師を探し出し、ブルースの為に最新の治療を提供

 

時間が残されていないことを悟った

2003年、全米オープン

招待選手としての特別参加でカートの使用を認められたが、

ブルースは自分の足で歩く事を決めた

これが最後の全米オープンになるかもしれない

次の瞬間 ベストを尽くす、それが2人のゴルフだった

最終日 最終ホール、2人を迎えたのは

「ブルース」の大合唱とスタンディングオぺーション

2004年4月8日、ブルース・エドワーズはこの世を去った

 

「トムと出会ったことが僕の人生で最高の出来事なんだ。病気になるとしてもう一度同じ人生を歩みますかって聞かれたんだけど、もちろんだ毎回 同じ人生を歩むよって答えた。僕は本当にラッキーなんだ」

と生前、ブルースは語っている

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