2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥
体の様々な細胞に変化できるiPS細胞を生み出した
山中は日本の多くの研究者と違う点がある
それは、一つのテーマを研究し続けるのではなく、
テーマを次々と変えた異例の研究スタイル

 

1936年、34歳でアメリカから帰国、新しい環境で研究に取り掛かった
しかし待っていたのは、実験用のマウスの世話
その数、200匹、これが山中には苦痛だった
アメリカではマウスの世話をする専門のスタッフがいた

 

僕は研究者なのか、ネズミの世話係なのか、いったい何をやってるんだ
肝心の研究に専念できないストレスに襲われていた
山中の周りには同じ研究をする同僚も少なかった

 

実は、山中は当初、血圧の研究をしていた
その後も動脈硬化、がんなど次々と研究テーマを変えた
同じことを長くやる事が研究者にとっての勲章という考えが日本では普通
日本でどんな風に評価されるんだろう、と山中の不安は大きかった

 

そんなある日、とある講演会に訪れた
話していたのはノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進
山中にとっては雲の上の人物
講演会が終わった後の質問タイムで、意を決し 悩みをぶつけた
「日本では研究テーマの一貫性が評価の対象になっていますが、それについて先生どうお考えか?」
恐る恐る質問する山中
「別に持続性なんかなくたっていいと思います。面白いことを科学者はやるべきであって。僕は割と飽きるたちですから、同じテーマを一生やるなんて考えられない」
利根川の言葉で、山中は救われた

 

一貫性にとらわれず面白いことをやる
このわずか4年後、山中は人のiPS細胞を生み出した
利根川進の現在の研究テーマは、ノーベル賞を受賞した免疫学ではなく脳の研究

(1107)

スポンサード リンク

丸山は、ガンと闘いながらアイドルを続けてきたが、21年の生涯を閉じた

 

1993年、福島県郡山市に生まれる

両親と妹と暮らす丸山は、脳腫瘍を発症したのは小学2年生のとき

3カ月の入院生活、励ましてくれたのはモーニング娘。

先生からは「夏鈴ちゃんは病院のアイドルだね」と言われた

 

2009年、地元の尚志高校に入学

歌が大好きだった丸山は、アイドルになりたいという夢を抱く

2年生になると生徒会長を務める

その任期中、2011年3月11日、東日本大震災と原発事故が発生

みんなで乗り越えようと全校生徒を励ました

 

2012年3月3日、卒業式で答辞を読んだ

「成功の反対は、失敗ではなく挑戦しないことです。卒業生代表、丸山夏鈴」

卒業後、3度目、4度目の脳腫瘍の手術

 

 

この入院中に、丸山はアイドルオーディションに応募

オーディション:ミスiD2013の一般投票の期間中に

芸能事務所:Happy Strikeからスカウトされ所属した

 

7月からアイドルとして活動を始める

デビュー曲は「Eternal Summer」

歌詞には丸山がブログやツイッターで発信してきた思いが込められていた しかし脳腫瘍が肺に転移、手術はできないと宣告された

 

2013年2月25日、5度目の脳腫瘍摘出手術

6月、6度目の脳腫瘍摘出手術

 

2014年12月、デビュー曲のレコーディング

 

2015年1月2日、初詣の絵馬に“この先もずっと健康で、ファンの方に笑顔を届けられますように!!”と書いた

 

2月3日、CDのジャケット撮影、夜に緊急入院

肺には2ℓの水が溜まっていた

 

2月5日、脳腫瘍の一部が肺に転移し肺癌の治療中である事を公表

 

2月7日、高田馬場のライブハウスでライブ

酸素チューブを取り付けてステージへ

肺の水を抜くため週に2回、通院

 

Eternal Summer [ 丸山夏鈴 ]

Eternal Summer [ 丸山夏鈴 ] 価格:1,000円(税込、送料込)

 

2月28日、「Eternal Summer」でCDデビュー、

郡山のタワーレコードでミニライブを開催

酸素チューブを外して、ステージに

「こんばんは、酸素チューブが宇宙一似合うアイドルです(本人が撮影したコメント)」

 

3月22日、東京でCDジャケットの衣装を身につけてライブ

 

4月20日「のどの痛みは前よりも落ち着きました。喉につっかえてる感じが取れれば完璧です。歌も歌いたいし(本人が撮影したコメント)」

 

4月25日「先生から許可を貰って、病院の外に来ました。桜がキレイです。外は気持ちいいね(本人が撮影したコメント)」

 

5月18日「何としてでも活動再開できるように頑張りたいなって思います。ファンの方も含めて応援してくださっているので、ここでへこたれてはいけないんだって思いました(本人が撮影したコメント)」

 

5月19日「今日は昔からお世話になっている美容師さんが来て、ちょちょちょと髪の毛切ってくれました。明日にでも記念撮影しようと思います」

 

5月21日「薬のせいで眠いです。じゃあ、さよなら、バイバイ(本人が撮影したコメント)」

 

2015年5月22日、丸山夏鈴 享年21 永眠

(2613)

1972年、徳島県阿波市生まれ

剛が生まれたとき、母:芳江は40歳、父:一(はじめ)は50歳

高齢出産だったので剛が小学校に入学したころには、

2人とも見た目はお婆さんとお爺さんのようだった

 

学校で授業参観があったとき、

「ひとりだけお婆さんが来とるぞ」「ほんまじゃ婆さんじゃ」

「違うわ。あれ原田の母ちゃんじゃわ」

まわりは若いお母さんでいっぱい、剛は恥ずかしくて堪らなかった

「母ちゃん、恥ずかしいけん、もう来んといてくれ」

「何が恥ずかしいんえ、次も必ず行くけんな」

「ほんなことより剛、授業中もっと手を挙げんか」

「…うるさいわババア」

「親に向こうて何なその口の聞き方は!反省するまでここに入っとき!」

母は怒ると剛を納屋に閉じ込めた。まるで鬼のようだった

そんな母と父の仕事は農家でナスビをいっぱい作っていた

でも年寄りだった2人は一生懸命働いても他の農家のようにお金を稼げず、剛の家は貧乏だった

晩ごはんも 形が悪くて売り物にならないナスビを使ったナスビ料理ばかり

「またナスビか…」

剛はもうナスビを見るのも嫌で、ナスビの鬼に追いかけられる夢まで見た

 

そして剛が10歳の時、学校から帰ると玄関で母が仁王立ち

「どうしたん母ちゃん」「ええから行くじょ」

車で向かった場所は団地だった「ここじゃ」

ざるに盛られたナスビを手渡され「剛、これを一人で一袋100円で売ってきい」

「なんで?」「つべこべ言わんと売って来るんじゃ!」

母は剛に市場で売れないナスを近くの団地に売りに行かせた

 

「ナスビはいりませんか?」

剛は一人で知らない団地のピンポンを押し、一軒一軒訪ねて回った

怖いおっちゃんから「邪魔じゃ!出ていけ!」と怒鳴られても母は助けてくれなかった

他に家でも「ナスビいりませんか?」「ほんなもんスーパーで買うわ!」

結局一つも売れなかった

すると母は「何しとるで剛、ちゃんと声出したんか!明日は絶対 売ってこなアカンでよ」

 

剛は次の日も知らない団地に売りに行かされたが、一つも売れない

そんな剛に母は鬼の顔で怒る

売れなかった母に怒られる、剛は必死で声をあげた

「獲れたての美味しいナスビはいかがですか?いっぱい入ってたったの100円ですよ。お得ですよ」

すると……あの怖いおっちゃんが出てきて「小さいのにえらいの、ほな買うたる」

それから毎日 剛は一人でナスビを売りに行った

だんだん売れるようになってきて剛は楽しくなってきた

 

そんなナスビ売りが1か月くらい続いたころ、突然、団地に行くことが中止になった

それは母が農作業中に倒れ 入院してしまったから

「母ちゃん 何の病気?大丈夫なん?」

「大丈夫に決まっとる」無口な父はどう言ううだけ

母はそれから4年間 入退院を繰り返した

 

そして1987年7月、剛が14歳になったとき、母は息を引き取った

白血病だった

火葬場では母の骨は少ししか残らなかった

何年もキツイ薬を飲んでいたので母の骨はボロボロだった

「剛、これから母ちゃんの分も2人で頑張って生きて行こな」

剛はずっと疑問に思っていたあのことをたずねた

「そういえば父ちゃん、あんとき何で母ちゃんは僕にナスビを売らせたん?」

「剛、お前がナスビを売ってるとき、ほんまは母ちゃんはな、車の中で泣いとったんじゃ」

「えっあの鬼のような母ちゃんが…」

「母ちゃんが死んでも強く生きて行くんじょ、と。母ちゃんは自分が近いうちに死ぬのを分かっとった。ほなけん心を鬼にして剛に生きる方法を教えようとしたんじゃ」

 

“今 大人になったボクは まだまだダメな所もありますが、子供の頃にナスビを売ったことがあるのでどんなしんどいことも平気です。お母さんが天国から見ていてくれるからどんな苦しいことも平気です。そして今ボクはナスビが大好きです”

(2830)

佐々木裕美は、女子王座位決定戦の出場経験もあるトップボートレーサー

小学4年生の時、ボートレース徳山に連れて行ってもらい憧れを抱いたのが、

ボートレーサーを目指したきっかけ

高校卒業後、念願のボートレーサーとしてデビュー

2004年、同期のトップレーサー:坂谷真史と結婚

長男:凱くんが誕生、幸せだった

佐々木は、優しい夫を「国宝」と呼んでいた

2007年2月26日、佐々木は山口で女子日本一を決める戦いを翌日に控えていた

一方 住ノ江ボートレース場の坂谷は、レース中 事故に遭う

享年26、若すぎる死だった

突然訪れた夫との永遠の別れは、佐々木の心を空っぽに

佐々木はこれで引退する、誰もがそう思った

 

そんな彼女のもとに届いたのは、亡き夫からの贈り物

生前 夫が作った息子の名前入りの横断幕“ないす凱💛佐々木裕美”

事故で亡くなったその日に、佐々木がいたレース場に届いたという

横断幕は佐々木に内緒で作られていた

 

「私が一人になっても頑張れるように、というつもりじゃなかったと思うんですけど、そういう風に捉えてしまします」

 

2007年10月13日、夫の事故死から8か月後、

ボートに乗ることすら無理だと思われていた佐々木がレースに復帰

その復帰戦は、愛する夫が亡くなったレース場をあえて選んだ

2008年7月17日、夫の地元 福井ボートレース三国、三国女子リーグで優勝

(1235)

2015年3月、宝塚駅に街のシンボルとして設置された犬の銅像

 

1987年12月25日、木村佳友さんは結婚して2年目、27歳の時、

路面の凍結によりバイクが転倒、対向車に衝突した

首を骨折し神経がすべて切断、胸から下の感覚がマヒ状態に

車椅子での生活、在宅勤務でプログラマーの仕事をしていた

ある日、妻が「○○さんが柴犬飼ったんやって。うちも飼いたいな」

「無理やろ」自分のことだけで精一杯だった木村さんは、

犬を飼うことに反対した

しかし仕事や家事、自分の介護で気が休まらない妻のことを思い、

ラブラドールリバーを購入、シンシアと名付けた

おてんばなシンシアは 木村さんの言うことを全く聞かない

手足の不自由な木村さんを格下と見なしていた

 

ある日、障がい者を補助する介助犬の記事を発見

訓練所にシンシアのトレーニングを依頼した

4か月後、しかし、帰ってきたシンシアは、

トレーニングを受ける前よりも木村さんを無視するように

全く言うことを聞かないシンシア

訓練を終え1か月近く、諦めかけていたある日、

シンシアは履こうとした木村さんの靴を奪い、遊び始めた

木村さんは必死にシンシアに叫び続ける

ふとシンシアは、木村さんのもとに靴を置いた

これをきっかけにシンシアは指示に反応するように

 

いつしかシンシアは、木村さんと親子のような関係になった

木村さんを喜ばせようとどんどん新しいことを学んでいった

木村さんの生活に必要な100項目の補助する介助犬に

 

駅では「お客様と同伴して乗車できるのは盲導犬と警察犬だけなんです。介助犬というのは分かるんですが、次回からは遠慮していただけませんか」

当時、盲導犬と介助犬の違いは全く違った

盲導犬と同じように障碍者を介助する犬なのに

公共の場ではペット扱いされ、どこに行っても入店拒否

世間で認知されていた盲導犬は、法律で同伴することが認められてたが、

介助犬に関する法律など当時何もなかった

 

木村さんは介助犬を知ってもらうため奔走

講演会などを行い、介助犬の現状を訴えた

 

当時 国会議員で宝塚市長を務める中川智子が木村さんの活動を認め、

木村さんとシンシアが普段どんな暮らしをしているのか、

デモンストレーションを国会で行った

介助犬としてシンシアは、素晴らしいパフォーマンスを披露し、

2002年5月22日、障がい者の人が補助犬を同伴して施設を利用できるなどの法律:身体障害者補助犬法が成立した

 

その後も木村さんを支え続けたシンシアは、2004年に他界

2015年3月、宝塚駅に街のシンボルとしてシンシアの銅像が設置された

(575)

スポンサード リンク