池上彰解説塾で紹介された核戦争を止めた男

●キューバ危機 世界は核戦争 寸前だった

1962年10月のキューバ危機

キューバにソ連から核ミサイルが運び込まれている事が発覚

当時のケネディ大統領は、軍艦で海上を封鎖

キューバに向かう全ての船を強制的に停止すると宣言

 

この時、ソ連からの貨物船は潜水艦に護衛されながらキューバを目指していた

潜水艦には核魚雷が搭載されていたが、

そうとは知らないアメリカ軍は、潜水艦に向かって爆雷を投下し、

浮上するよう警告していた

 

爆雷は潜水艦の手前で爆発し、直撃は回避

 

しかし潜水艦の艦長は「戦争が始まった!」と確信

深く潜ることで外部との通信ができなくなる潜水艦では、

核使用の判断を場合によっては乗組員に委ねられる

艦長を含めた3名で核魚雷の発射を検討、艦長、副艦の1人は発射を主張

しかし「私は反対だ。本部からの連絡を待つべきだ」

ただ1人断固として反対したアルヒポフ中佐

慌てる艦長たちを何とか説得し、核兵器の使用は直前で中止されたという

 

この事実が明らかになったのは40年後、

「キューバ危機から40年の国際会合」での事

当時の関係者の会合で明らかになり1人の男の反対が

全世界を救ったと称賛された

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ありえへん∞世界で紹介

●キルギスの子供たちを救った日本人医師:中島利博

東京医科大学の教授を務め、難病に関する遺伝子を研究していた中島利博

2005年のある日、友人から思わぬ相談を受ける

「キルギスで原因不明の病気が流行して多くの子供たちが苦しんでいるらしい。一度様子を見に行ってくれないか?」

その真相を究明するためキルギスへ渡った

友人の個人的な依頼だったため、渡航費などの費用は全て自己負担

キルギスの病院には、謎の病気に冒された子供たち

良く見るとその手は痙攣していた

子供たちを苦しめる病気の正体を探るため、

キルギス全土を駆け巡り、50カ所以上の病院を調査

病気の正体はリウマチ熱だった

風邪の一種で治療が不十分だと脳や心臓に合併症を起こし、

死に至る可能性もある病

しかし正しく薬を処方すれば簡単に治す事が出来るため、

先進国では何十年も前に根絶された

 

キルギスでリウマチ熱が横行した原因は、極端な意思不足

1991年に起こったソ連の崩壊により、独立直後のキルギスは政治が混乱し経済が破綻

医師の月給が1200円に急下落

そのため多くの医師がは海外へ移住

リウマチ熱の治療のできる経験豊富な医師が残っていなかった

中島医師は、キルギスの若き医師たち10人以上を自費で日本に招き、

高度な医療技術を学ぶ機会を与えた

こうして現在はキルギスの医師がリウマチ熱を治療できるようになり、

数多くの幼い命が救われた

さらに中島医師は日本で募金を集め、リウマチ熱を15分で診察できる検査キットを大量に寄付

8年間に渡り、キルギスで幼い命を救い続けた中島医師は、

その功績からキルギス共和国の国家顧問に任命された

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

フィリピン マニラではカラオケが人気

実演販売のため街中の電気店にカラオケ機が置かれており、

買い物客は自由に歌を歌うことが出来る

 

ゼンディー・ローズはフィリピンの地方都市で生まれた

幼いころに両親が離婚、母:ジンキーは娘を育てるため、

クラブシンガーとして生計を立てていた

ステージで歌う母はゼンディの憧れだった

だがクラブ専属の歌手ではなかったため、安定した収入はなく、

次の仕事が数か月先という事も…

電気や水道が止められるほど生活は苦しかった

「私 ママと歌って過ごせれば十分。今はどん底にいてもこれから這い上がっていけばいい。人生は階段じゃない?」とゼンディーは母を勇気づけた

11歳になったゼンディーは苦労している母を助けようと、歌のコンテストに出場

入賞するたび、その賞金を母に渡した

高校を卒業後、奨学金で大学に進学

クラブシンガーだった母の背中を追うように歌手のアルバイトに没頭した

卒業を間近に控えた2011年10月、

銀行から内定をもらったゼンディーは、嬉しいはずのニュースに浮かない

母はゼンディーの心を見透かしたように、

「自分に嘘をついちゃだめよ。本当は歌手になりたいんじゃないの?後悔しないように自分の行きたい道を選びなさい」

歌手として生きていくことを決めたゼンディー

 

ワンダイレクションやレオナ・ルイスなどを輩出した

イギリスのオーディション番組「Xファクター」に参加することに

この頃、母とゼンディーはアパートを追い出され、

知り合いの好意で地元の消防署内の一角で間借りさせてもらっていた

地方予選を順調に通過したゼンディー

2012年6月5日、マニラで2次予選

結果は落選、本選に進むことはできなかった

問題は歌ではなかった

フィリピンでは人気の歌手は、みな身長が高く、容姿端麗

外見が最も重視されたため身長159㎝のゼンディーには、

スター性がないと判断された

 

2012年7月28日、親子は久しぶりにマニラ市内のショッピングモールに来ていた

オーディションに落ち、元気のないゼンディー、

気分転換のため母が買い物に連れ出してくれた

ゼンディーは母に赤いリュックを買ってもらい、すぐに背負った

立ち寄った雑貨店、盗難防止のためバッグを持ち込んでの入店はできなかった

ゼンディーは店の外で待つことに

すると隣の電気店が実演販売の為に置いていたカラオケ機を発見

ゼンディーはマイクを握った

選んだのはアメリカの人気歌手の歌だったが、

キーが高く、これまで一度も人前で歌ったことがない曲だった

 

 

歌い終えると、歩みを止めた客たちから拍手喝采

母を待つ間の時間つぶしに歌ったカラオケが彼女の運命を変える

 

翌日、友人から連絡「あなたが動画サイトにアップされてるの」

ショッピングモールで歌う自分の姿が動画サイトにアップされていた

すでに300万回以上も再生されていた

さらに“素晴らしい歌声だ(マレーシア)”“鳥肌が立ったわ(アメリカ)”

“なんて美しい歌声なんだ(イタリア)”“彼女が誰だか教えて(アフガニスタン)”

世界中から数千件のコメントが寄せられていた

たまたま その場に居合わせた客が、

ゼンディーを録画して動画サイトにアップしていた

再生回数は日を追うごとに増え、そして…

アメリカの人気トーク番組「エレンの部屋」からの出演オファーが

この番組でゼンディは全米の視聴者にむけて歌を披露、喝采を浴びた

フィリピンに帰国したゼンディーを待っていたのは、

世界トップシェアを誇るユニバーサルミュージックのプロデューサー

何度もオーディションに落ちた少女が歌手になる夢を叶えた

2013年、ゼンディーのファーストアルバム ZENDEE「I BELIEVE」が発売

フィリピン国内のヒットチャートで2位にランクイン

そしてシンガポール、香港、オーストラリアなど世界各国でライブの依頼が殺到

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世界番付で紹介

●250人の警察官が終結したネイサン君のクリスマスパーティ

アメリカ ヴァージニア州に住むネイサン・ノーマン君

彼の憧れは警察官

そんなネイサンは悪性脳腫瘍におかされていた

その腫瘍は脊髄まで転移

 

2009年9月、病状はさらに悪くなった

もう長くは持たないかもしれない…

 

そこで彼は両親に「僕の為にクリスマスを早めてくれない?」とお願い

「おまわりさんもパーティに来てほしいな」

 

すると彼の願いが地元警察の耳に届いた

警察官たちが集まり、ネイサン君の自宅にお祝いに向かった

地元警察のみならず、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、

バージニア州の3つの州の警察署からも駆けつけた

合計87代ものパトカーがネイサン君のもとへ向かった

何とその数250人にも及んだ

 

警察官はネイサン君にとっておきのプレゼントを考えてくれた

「今日は君も我々警察の一員だ!さあみんなに号令をかけてくれ!」

「整列!敬礼!」兄たちに支えられ、

憧れの警察官から最高のプレゼントを受け取った

警察官は病気と闘うネイサン君に勇気を与えた

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1987年、当時のドイツはベルリンの壁で分断されていた

 

●ベルリンの空に花火を打ち上げた花火師:佐藤勲

 

そんな折、西ベルリンで行われたベルリン市制750年祭典で

7000発の花火が夜空を彩った

 

この花火は日本の花火師:佐藤勲さん等が打ち上げた

 

記者会見で佐藤さんは、

ベルリンの地上には壁はありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西のお方も東のお方も楽しんでください、と語った

 

この言葉は翌日“空に壁はない”と西ドイツの新聞の一面を飾った

 

その2年後、1989年にベルリンの壁は崩壊した

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