お笑い芸人:オオカミ少年が語った粋な話

 

●おしどり夫婦のおじいちゃんとおばあちゃん

 

近所でも有名なおしどり夫婦だった

 

ある日、交通事故に遭ったおじいちゃんは、

記憶を失ってしまった

 

愛する家族の記憶も、

最愛のおばあちゃんの記憶も無くなってしまった

毎朝おばあちゃんを見ると「初めまして」と挨拶してしまう

しかし、おばあちゃんは懸命に毎日お世話を続けた

 

数年後、正月に家族が久しぶりに集まることに

 

家族の記憶もないおじいちゃんに、

おばあちゃんが家族を紹介していると、

急におじいちゃんが

「あなたは本当に優しい方だ。いつも僕に笑顔で話しかけてくれる。本当に僕は嬉しくてしょうがない。もしあなたがひとり身ならば僕と結婚してください」

それを聞いておばあちゃんは

「はい。何があってもあなたの横にいさせてください」

と人生2度目のプロポーズに返事した

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●8万人を救ったバルーンカテーテル

年間4万人が死亡する心筋梗塞

心筋梗塞の応急処置に使われるバルーンカテーテル

心臓近くまでのカテーテルの風船を広げると

血管の中の圧力が上がり心臓に向かって血液が送り込まれる

風船を縮めると血管内の圧力が下がり逆に心臓から血液が送り出される

これを繰り返す事で心臓を助ける

 

国内のシェア3割を誇るのが、東海メディカルプロダクツ

従業員180人、売上高32億円

製造工程の9割が手作業

ライバルは機械化を進めているが、東海メディカルは一つ一つ手作り

全ての製品を検査してから出荷する

 

開発したのは、筒井宣政

1964年、大学卒業後 筒井は父親が経営していた樹脂加工の町工場を継ぐ

大赤字で倒産寸前の零細企業だったが、

筒井はビニール製の紐を売り、起死回生を図った

それがアフリカで髪を縛るオシャレ紐として大ヒット

会社は息を吹き返した

全てが順調に回り始めた時、

生まれながらに心臓が悪かった次女は、余命わずかという宣告まで受けた

娘の心臓を治そうと全国を回ったが、アメリカでも不可能と言われた

するとある医師が声をかけた

「貯めたお金で人工心臓の研究をしてみませんか?」

人工心臓を作れれば娘を助けられるかもしれない

筒井は経済学部出身、畑違いの素人だったが、

37歳でゼロから医学の勉強を始める

そして8年の歳月と8億円を投じ、1986年、人工心臓の試作品が完成した

動物実験の結果も上々

しかし実用化にはさらに1000億円もの資金が必要だった

筒井にそんな資金があるはずもなく人工心臓は断念

 

 

そんな時、ある事実を知る

当時のバルーンカテーテルは、全て外国製

日本人に合わず医療事故が多発していた

日本人に合ったカテーテルを作れば多くの命を救えるかもしれない

筒井にはこれまで培ってきた樹脂加工の技術と

必死で学んだ心臓の知識があった

 

人工心臓を諦めた3年後、

1989年、初の国産バルーンカテーテルを完成させた

外国製の事故発生率が1%~5%だったのに対し、東海メディカルは0%だった 高校卒業後、次女は会社の事務を手伝った

「お父さんまたこれで1人の命を救う事が出来たのね」が口癖だった

カテーテルが完成して3年後の冬、次女は23歳の若さでこの世を去った

 

心臓用カテーテルは、SS~LLまで計6種類

ライバル社は、せいぜい3種類

使う人が少ないサイズを製造しても

コストがかかるだけなのでライバル社は作らない

しかし、自分の娘がこのサイズだったらどうするか?

筒井は、常に娘=患者の立場に立って考える

 

娘の代わりに一人でも救いたい

(1988)

今…あなたはここまで愛せますか?で紹介された中島啓之の最期のダービー

1985年、第52回 日本ダービーは

トウショウサミットが果敢な逃げでレースを盛り上げた

そして4コーナーで力尽き、馬群に沈んだ…

●中島啓之の最期のダービー

調教師の娘として競馬社会で育った中島聖恵は、

20歳で中島啓之とお見合い結婚した

 

結婚してすぐの1974年、

中島啓之は第41回 日本ダービーをコーネルランサーで優勝

 

1985年、家族団欒の中、突然 背中に激痛を訴え、

救急搬送、末期の肝臓ガンと聖恵に告げられた

今と違い、末期ガンの余命を本人に伝えることなど考えられない時代だった

残された時間…やりたい事をやらせてあげたい、と聖恵は考えた

中島啓之に内緒の闘病生活が始まる

それでも中島啓之の体は確実にガン細胞に侵されていった

 

自厩舎のトウショウサミットでダービートライアルのNHK杯に勝利

第52回 日本ダービーへの出走権を獲得した

 

激痛に耐える中島啓之の体は、すでに限界だった

医者からは入院して治療する事を勧められたが、

「待ってください。ダービーが終わるまで何とかなりませんか?ダービーだけは体が悪くなっても構いません。お願いします。ダービーの為ならこの命 何回でも差し出します」

「ダービーが終わったら治療に専念させるので夫の好きなようにさせてください」

ようやく医師の許可を得た

「ごめんな。家族がいるのに自分勝手で」

「私を誰だと思ってるの?調教師の娘だよ。小さい時から厩舎の中で育ってきた。あなたがやりたいようにやればいい、好きなように」

「俺…聖恵と結婚して良かった、ありがとう」

 

5月26日、日本ダービーで中島啓之はトウショウサミットに騎乗

余命がわずかな事に気付いていたのか、それは魂をかけた逃げだった

「ちゃんと観なさい」娘を抱きながら観戦

しかし無念にもトウショウサミットは馬群に沈んだ

中島啓之は、このレースからわずか16日後に帰らぬ人となった

43歳だった…

 

私は今でも悩みます。夫の好きなようにさせてよかったのかと…

治療に専念する道もあったのではないかと…

しかし騎手として命をかけたのだから…

最期まで騎手として生きていられたのだから…それでよかったのかもしれません

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

アメリカ・アイオワ州デモインのFMラジオ局:KSTZでは

毎年クリスマスシーズンになると恒例のサプライズ企画が行われる

リスナーからクリスマスの願いを募集し、

スタッフから選んだ一人の願いを可能な限り叶えるという人気企画

●天国から届けられたサプライズ

2011年、アイオワ州に住むブレンダ・シュミッツは、

夫のデビットと4人の子供と共に幸せに暮らしていた

しかしブレンダは末期の卵巣ガンを発症

さらに余命半年を宣告された

ブレンダは辛い治療にも耐え続けた

「みんな良くしてくれる。何か病院の人達に恩返しがしたいわ」

周りに気を配る事も忘れなかった

そんな彼女が一度だけ取り乱したことがあった

「どうして!どうして私なの!マックスは2歳になったばかりよ。母親無しで生きていけって言うの?そんなのあんまりよ」

家族との別れが訪れる、その恐怖だけは消えなかった

そして懸命な治療の甲斐なく病状は徐々に悪化…

2011年9月、ブレンダ・シュミッツはこの世を去った

 

デビットはお礼がしたいというブレンダの生前の想いを込め、

彼女が好きだった花を病院に贈った

 

ブレンダの死から1年…

家族は彼女がいない生活に少しずつ慣れ始めていた

 

そんなある日、デビットはジェーン・アブラハムという女性と出会う

ジェーンは2人の子供を持つシングルマザーだった

それは友人から強く勧められた縁談

同じ苦労をしている同士、自然と会話が弾んだ

2人は度々会うようになった

しばらくすると家族ぐるみの交際まで発展

 

2013年12月16日、ブレンダの死から2年…ある日のこと

「デビット・シュミッツさんですか?」「はい」

「FMラジオ局:KSTZなんですが、番組にあなた宛ての願いが書かれた手紙が届いているんです」

「私ですか?誰からです?」

「それは事情があって電話ではちょっと…木曜日に翌日放送分の収録があるのですが、スタジオにお越しいただけないでしょうか?」

 

12月19日、

「デビット 来てくれてありがとう。君に特別なクリスマスの願い事があるんだ」

スタッフの女性がある手紙を読み始めた

 

「こんにちは 私の名前はブレンダ・シュミッツです。この手紙が届く時 私はもうすでにガンに負けてしまっている事でしょう。私はこの手紙を友人に託し、もしデビットが新たなパートナーを見つけたらラジオ局に この手紙を送ってほしい と伝えました。デビットは素晴らしい夫であり父であり今後も家族のために最良の決断を下してくれるでしょう。そしていつか子育てを手伝ってくれる思いやりのある女性を見つける事でしょう。彼女はきっと素晴らしい女性のはずで。私たちの4人の息子、あの子たちが母親をなくすなんて今 考えただけで泣けてきます。彼らが大人になるのを見られないのはとても心残りです。私がこの手紙を書いてのはデビットと子どもたちを心から愛しているという事、そしていつも見守っているという事を知って欲しいからです」

 

手紙の日付は、2011年8月3日、ブレンダの死のおよそ2か月前だった

あの時、すでに死を覚悟し、

残された家族のことを考え番組に手紙が届くようにしていた

 

そして手紙にはデビットの新しいパートナーについても書かれていた

「息子たちの母になってくれてありがとう。母親として愛情を注いでくれて本当にありがとう。あなたがだれであろうと、あなたのことを愛しています」

 

手紙の最後にはブレンダの3つの願いが書かれていた

 

“まずは4人の子供たちの新しい母親に思いきりリラックスできる時間を与えて欲しいです。彼女を笑顔にしてあげてください”

 

“家族には魔法にように素敵な旅行に出かけて欲しいです。一生の思い出ができる場所へ”

 

“最後に私のガン治療をしてくれた病院のスタッフにご馳走たくさんのパーティーを贈りたいです”

 

ブレンダの3つの願いは、ラジオ局によって叶えられた

 

このラジオが翌日放送されるとメディアで大きく取り上げられた

 

2014年8月30日、デビットとジェーンは結婚式を挙げた

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解決!ナイナイアンサーで紹介

●ラーメンの鬼:佐野 実が最後に妻に送った言葉

2014年4月11日、糖尿病による多臓器不全により63歳でこの世を去った

 

妥協を許さないその姿勢からラーメンの鬼と恐れられた

ラーメン屋志那そばやで一躍人気者になった佐野

しかし実はその裏で、糖尿病を患い闘病生活を送っていた

そんな佐野実を支え続けたのは妻:しおりさん

佐野は妻の手料理にまで厳しく、家庭でも妥協は許さなかった

 

2014年2月、糖尿病が悪化し腎臓と肝臓の機能が低下し緊急入院

何とか命の危機を脱したが、予断を許さない状態

それでも…「何かしてほしいことある?」「ラーメン食べたい」

頭からラーメンの存在が消える事はなかった

妻は弟子に頼んでラーメンを用意

病床の佐野を気遣い、通常のスープをお湯で薄めた特別なもの

しかし「スープが薄い!お前らこんなもの店で出してるのか!」

 

死の2日前、「今までで1番嬉しかったことは何?」と妻が聞いた

「お前と出会ったこと」「他にもあるでしょう?2番目は?」

「2番目もお前と出会えたこと」「じゃあ3番目と4番目は?」

「3番目も一緒だよ。同じこと何度も言わせんな」

佐野の言葉は妻も意外だった

それから2日後、佐野実は息を引き取った

 

そして今、妻は夫の意志を継ぎ、

オーナーとして佐野が大切にした店を守っている

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