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ザ!世界仰天ニュースで紹介された

福岡ダイエーホークス:藤井将雄 最期の1年間

気迫あふれる強気のピッチングで1年目から活躍

1999年、ホークス悲願の初優勝に貢献した中継ぎのエース

パリーグ最多ホールド賞を獲得

体に異変が現れ始めたのはリーグ優勝を決めた直後

これから日本シリーズという時だった

 

幼い頃、両親は離婚、母は女手一つで子供たちを育てた

毎朝 休むことなく朝市で店を出し、一家を支えた

家計が苦しくても息子に不自由な思いをさせなかった

そんな母の想いに応えるように藤井は練習に励んだ

社会人野球で頭角を現すと1994年、広島アジア大会では

日本代表に選ばれ金メダルを獲得

そしてその年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団

●愛する仲間のために生きた藤井将雄

1999年10月13日、健康診断を受けた藤井の肺に影が見つかった

「すぐに入院の手続きをしてもらえますか?」

「来週から日本シリーズが始まる大事な時期なんです。チームにも迷惑かけられないし」

このタイミングで入院する訳にはいかない

藤井は医師を説得し、試合に出た

日本シリーズでは第2戦と第5戦に登板

そしてダイエーホークスはチーム創設以来、初の日本一

1999年11月7日、福岡で凱旋パレード

佐賀に住む母と妹も藤井の雄姿に喜んでいた

この翌日から藤井の闘病生活が始まった

 

1999年11月10日、精密検査の2日後、藤井の実家に病院から連絡が…

本人に伝える前に家族が呼ばれた

「悪性度の高い肺がんになります」と宣告

がんは肺の広い範囲に広がっており、首のリンパ節にも転移していた

抗がん剤や放射線も効果はほとんどない、と説明を受けた

「半年もつかどうか…早くて余命3ヵ月」

血中の酸素量を表す酸素飽和度は通常95%以上だが、

肺機能が低下した藤井は80%ほど

かなり息苦しい状態だという

「本人には伝えていません。ご家族のお考えをお聞きできればと」

 

思い悩んだ末、母と妹はある決断をする

「告知の件なんですが、息子には言わないでください。野球が出来なくなると分かったらあの子は生きる希望を失います」

こうして藤井には隠し通す事を決めた

藤井は余命3ヵ月とは思えない元気な姿

母は妹と藤井の前では気丈に振る舞うと約束していたが…

母は息子を前にして感情を抑えられなかった

「ちょっと明日の仕事の支度をしないといけないから帰るね」

それ以来、母は病院へ行く自信がなくなった

 

病気の事を球団に黙っているわけにはいかない

しかし病気が分かれば来年の契約はない

そうなれば息子は希望を失ってしまう

何とか公にせず王監督に事情を説明したかった

そこで後援会事務局長:北方伸一に協力をお願いした

全てを知った北方は、若田部健一に電話をかけた

藤井と最も仲が良かった当時のエース

若田部の計らいで王監督に直接会う段取りが組まれた

「将雄はもって半年、来シーズンはもう無理です。だからクビで構いません。でも息子には残りの人生 生きる希望を失ってほしくないんです。嘘でいいので契約更改をして頂けないでしょうか?形だけでいんです。お願いします」

と母は王監督にお願いした

「何も心配しなくていいですよ。契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」

と王監督は母と妹に話した

1999年12月4日、藤井は正式に来季も契約更新され、年俸は倍増だった

命の保証のない選手にこの契約はプロスポーツの世界では考えられない事

契約更改後、王監督から藤井に連絡が、

「ゆっくり焦らず治療してください。若手がバテ始める6月に照準を合わせて戻ってくれればいいですから」

「分かりました。6月には完全復活しますので」

もう一度マウンドに立ちたい、この思いが藤井の心の支えになった

 

藤井の復活への気力は凄まじかった

足腰を鍛えるため、10階の病室まで階段で上り下り

血中の酸素が足らないので激しい運動は無理なはず…

体は病魔に蝕まれていたはずだが、人前では決して苦しい姿を見せなかった

藤井の気迫は病気に勝っていた

2000年1月、これといった治療をするわけでもないので一時帰宅が認められた

王監督との約束を果たすため藤井はトレーニングを続けた

 

そしてついに3月3日、死の宣告から5か月 2軍キャンプに復活した

息苦しさ、体力の低下など本人はかなり辛かったはずだが、

それらを気力で乗り越え、

2000年5月18日、およそ半年ぶりの実践登板

この日計測した球速は最高139キロ

急速は落ちたが、22球の気迫の投球だった

この時、藤井が末期がんを患っているなど誰も思いもしなかった

 

最後に1軍で投げさせてあげようと考えたスタッフから

1軍に上がれと言われたが、「いやまだ2軍で成績残していないから」と断った

 

その後も藤井は2軍の試合に出場。復帰後 6度の登板を果たした

2000年6月15日の登板直後、藤井は突然倒れた

緊急入院

肺に溜まった水を抜くための管が取り付けられた

その頃、がんによる激痛が度々襲った

「痛み止めを出しましょうか?」

「痛み止めなんて、どうしても必要な時は言いますから」

薬を飲めば病に負けたことになる、そう考え痛み止めを拒み続けた

 

2000年9月、ダイエーは2連覇に向けて首位争いをしていた

藤井は少しでもチームの力になれればとチームメイトを勇気づけるメールを送った

ダイエーはリーグ優勝まであと一歩

藤井はチームと共に戦った

2000年10月7日、ダイエーは見事2連覇

王監督胴上げの時、藤井の背番号15のマスコットを持った若田部が映っていた

マスコット人形は王監督と一緒に宙を舞った

優勝から6日後、藤井は31歳の若さで力尽きた

10月16日、葬儀が行われた

去年までチームメイトで藤井を可愛がっていた工藤と若田部は最後まで席を離れなかった

2000年10月21日、第1戦 奇しくも先発のマウンドに立ったのは工藤と若田部

藤井への思いを胸に力投した

 

福岡ドームの15番ゲートは、背番号にちなんで藤井ゲートと呼ばれている

選手のロッカールームにも藤井選手の写真が飾られている

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●生まれつき聴覚に障害のある母親が初めて聞いた愛する娘たちの声

1982年、アメリカ テキサス州

サラは、ごく普通の家庭に生まれた

2年後、大きな音にも反応を示さないサラを病院で検査

その結果、ほとんど音が聞こえない感音難聴と診断された

補聴器を付けるも、サラにとって言葉は、ただの雑音でしかなかった

そこで両親は口の動きから言葉を読み取る読唇術を学ばせる事に

両親はあえて手話を使わずサラに読唇術を身に付けさせた

やがてサラは一般の小学校へ入学

座席はいつも先生の口が良く見える一番前の席

誰よりも努力し成績も優秀だった

こうしてサラは自分から逃げることなく学校に通い続け、一般の高校を卒業

その後、サラは近所のカフェで働き始めた

前向きな性格と明るい笑顔、彼女は周囲の人達から愛される存在だった

 

そんなある日、いつもサラを可愛がってくれる常連客の息子:スローンと出会った

スローンは、一目で恋に落ちた

やがて足繁くサラの店に通うようになり、

いつしか2人の距離は縮まっていった

「今日はご飯を食べに来たんじゃないんだ。初めて会った時から君の事が好きだった」

スローンの突然の告白、サラは生まれて初めて恋をした

2人は どこに行くにも一緒だった

スローンは恋人であると同時にサラの耳となった

2001年、サラが19歳の時 2人は結婚

数年後、サラは2人の娘の母親となった

絵に描いたような幸せな生活…

しかし幸せになればなるほどサラには、ある思いが募った

 

愛する娘たちの声が聞きたい…

 

2011年、車を運転するスローンが何気なくラジオを流していると、

「耳に直接 埋め込むことで難聴の方でもより自然な音が聞こえるようになる画期的な医療技術が開発されました」

サラの難聴が治るかもしれない、スローンは興奮を抑えられなかった

すぐに問い合せすると、片耳で3万ドルかかる事を知る

数日後、スローンの母親が老後の生活費に貯めていた貯金をサラに渡した

最新の技術でサラの耳が聞こえるようになる、そんな噂は瞬く間に広まった

家族や友人たちの支えにより手術に必要な費用が集まった

 

サラが29歳の時、手術が行われた

頭の内部に埋め込み、鼓膜の振動を拾って

補聴器よりも強力に音を増幅して伝える技術

手術は9時間にも及んだ

手術から2ヵ月、埋め込んだ機械を作動させる日

29年間、音のない世界で生きてきたサラが初めて音を聞く

 

 

こうしてサラは何よりも聞きたかった家族の声に囲まれ、

幸せに暮らしている

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世界一受けたい授業で紹介

●脳腫瘍に侵されながらバスケの試合に出場したローレン・ヒルさん

 

アメリカ、オハイオ州に住むローレン・ヒルさん

2013年11月、頭部の手術不可能な場所に脳腫瘍が見つかった

医師からは、2012年12月までしか生きられない、と宣告

 

しかし彼女にはどうしても叶えたい夢があった

それは11月に開幕する全米大学バスケットボール公式戦に出場する事

化学療法で顔はむくみ、吐き気や頭痛が襲う

まともにドリブルすら出来ない…

それでも彼女はひたすら練習に打ち込んだ

 

 

そして2014年11月2日、公式戦初日、コートには彼女の姿が…

しかも見事ゴールまで決めた

 

重い病気になっても人生を諦めない彼女の勇気が

全米に感動をもたらし小児がんの飢饉に多額の寄付が集まった

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ありえへん∞世界で紹介された伝説の消防士

1982年2月8日 午前3時過ぎ

ホテルニュージャパンの9階から出火、

異常な速さで延焼し、9時間に渡って燃え続けた

出動した消防車などの緊急車両は128台、600人以上の消防士が出動

33人の尊い命が犠牲となった

防災管理がずさんだったため、

社長:横井氏に懲役3年の実刑が下った大惨事

 

そんな甚大な被害の裏側で逃げ遅れた66名を奇跡的に救出していた

人命救助を専門に行う特別救助隊 隊長:高野甲子雄

●ホテルニュージャパン火災で奇跡の救出劇を成し遂げた伝説の消防士

1948年、山梨県甲府市で13人兄弟の末っ子として生まれる

高校卒業後、働いていた町工場の近くで火事が発生

消防士の活躍を目の当たりにし憧れるように…

20歳で消防士になった高野は、東京の消防署で様々な現場を経験

特別救助隊への入隊が目標となった

しかし身長165㎝と体格に恵まれなかった高野は、

1年に1度の試験に3年連続で落ちる事に

それでも努力を続けた結果、4度目の試験で合格

29歳で入隊した高野は麹町消防署の永田町出張所に配備

すぐにチームの隊長を任され5人の部下を持つように

常に自ら先頭に立って行動し、部下を鼓舞し続けた

 

1982年2月8日、この日 高野たちは日中のトレーニングを終え、

有事に備え、宿直室で仮眠をとっていた

そして午前3時39分、火災発生の通報

場所は千代田区2丁目 ホテルニュージャパン

 

この2か月前、高野は日常的に行っている地域の定期点検で

ホテルニュージャパンを訪れていた

経費削減の為、加湿器が止められており、空気が異常に乾燥

さらに天井にはスプリンクラーが1つも設置されていなかった

廊下や客室、屋上に至るまで細部に渡り見て回った

その後、東京消防庁はホテルに警告を出す

しかし火災の後に発覚したのは、社長の横井が、

配管のない飾りのスプリンクラーを付け、誤魔化していたという事実

 

大変な事態を覚悟した高野たちはすぐに出動した

午前3時44分(通報から5分後)現場に到着

東京消防庁は空前の指令:第4出場に踏み切る

それは東京23区全域の消防車を動員する最大規模の指令

消防車を含め128台の緊急車両がホテルニュージャパンに集結

そんな中、高野たちは「俺達は一番危険な場所へ行くぞ」

火元に近く最も火の勢いが強い9階、10階を目指した

まず向かったのは警備室「非常階段の場所を教えてください!」

「今 社長と電話中なんです」

こんな状況にも関わらず、

その指示は「フロントの高級家具を非難させろ」だった

「人の命がかかっているんです!今すぐ非常階段の場所を教えてください!」

教えられた非常階段に駆けつけると、そこはすでに煙が充満

マスクを装着し、9階に駆け上がる

9階の非常階段のドアが熱で膨張し開かない

高野が下した決断は屋上に上がる事だった

午前3時49分、通報からわずか10分で屋上にやって来た

高野たちは窓から助けを求めている人たちにロープを渡し、引き上げ始めた

パニック状態になっている宿泊客に的確な指示を出し、ロープで引き上げる

こうして屋上から次々と逃げ遅れた人々を救出していった

落ち着きを取り戻した1人の客が、まだ部屋に取り残されていることを口にした

「あの部屋です。助けてください」

そこはまだ燃えてはいないものの隣まで火が迫っている部屋

高野は、フラッシュオーバーが脳裏によぎった

それは炎が1つの部屋から隣の部屋へ燃え移る時に突然起きる爆発的な火柱

一度起きれば部屋の温度は1000℃にも達し、防火服を着ていようが命を落としてしまう

フラッシュオーバーが起きるまで数分しか猶予はない

高野はチームで最も俊敏な浅見に突入命令を下した

浅見は、酸素ボンベを背負いマスクを付け、救出に向かった

祈るような気持ちで浅見を待つ隊員たち

その時、聞こえてきたベルの音は浅見の背負っていたボンベが切れる合図

慌てて命綱を引き上げる

何とか戻ってきた浅見「隊長!俺をもう一度行かせてください!」

高野は一瞬悩んだ

いつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない

助けに行けば誰かが命を落とす可能性が高い

「俺が行く」隊長自ら突入するのはマニュアル違反

「行ってくる。援護を頼む」

部屋に到着すると、そこは異様な雰囲気だったという

逃げ遅れた宿泊客を探した

そして間もなくその男を発見、落ち着いて救助用のロープをかけていく

抱え上げようとしたその時、恐れていたフラッシュオーバーが起きてしまった

屋上の隊員たちは渾身の力を込め、命綱を引き上げる

すると炎の中から現れたのは、男を抱えて離さなかった高野だった

男は全身に大火傷を負い、高野も頭や顔などに大きな火傷を負った

熱で気管支をやられた高野は、救助を続けられる状態ではない

午前4時15分、通報から30分で高野は病院へ運ばれる事になった

 

残された隊員たいてゃ高野の姿に奮起、その後も必死に救助活動を続けた

600人以上の消防士が懸命に消火、救助を続け、7時間後…

午後0時36分にようやく鎮火した

その間、66人もの宿泊客の命を救った

午後1時、病室のベッドで消火の報せを受けた高野

そこへ活動を終えた隊員たちが駆け付けた

皆 真っ黒にススが付いた防火服のまま

高野の無事な姿を見て泣き出す隊員たち

「お前らこんな所いないで早く家族の元へ帰ってゆくり休め」

と高野は命令を下す

 

その後、高野は病室でフラッシュオーバーの最中、

助け出した客が亡くなった事を知る

 

高野はその後1000を超える現場で救助活動を行い多くの命を救い続けてきた

2007年、小金井消防署 所長に就任

どんな難しい状況であろうが、1人でも多くの命を救える消防士になりたい

純粋な想いをもった小柄な男は、いつしか伝説の消防士と言われるように

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今…あなたはここまで愛せますか?で紹介された中島啓之の最期のダービー

1985年、第52回 日本ダービーは

トウショウサミットが果敢な逃げでレースを盛り上げた

そして4コーナーで力尽き、馬群に沈んだ…

●中島啓之の最期のダービー

調教師の娘として競馬社会で育った中島聖恵は、

20歳で中島啓之とお見合い結婚した

 

結婚してすぐの1974年、

中島啓之は第41回 日本ダービーをコーネルランサーで優勝

 

1985年、家族団欒の中、突然 背中に激痛を訴え、

救急搬送、末期の肝臓ガンと聖恵に告げられた

今と違い、末期ガンの余命を本人に伝えることなど考えられない時代だった

残された時間…やりたい事をやらせてあげたい、と聖恵は考えた

中島啓之に内緒の闘病生活が始まる

それでも中島啓之の体は確実にガン細胞に侵されていった

 

自厩舎のトウショウサミットでダービートライアルのNHK杯に勝利

第52回 日本ダービーへの出走権を獲得した

 

激痛に耐える中島啓之の体は、すでに限界だった

医者からは入院して治療する事を勧められたが、

「待ってください。ダービーが終わるまで何とかなりませんか?ダービーだけは体が悪くなっても構いません。お願いします。ダービーの為ならこの命 何回でも差し出します」

「ダービーが終わったら治療に専念させるので夫の好きなようにさせてください」

ようやく医師の許可を得た

「ごめんな。家族がいるのに自分勝手で」

「私を誰だと思ってるの?調教師の娘だよ。小さい時から厩舎の中で育ってきた。あなたがやりたいようにやればいい、好きなように」

「俺…聖恵と結婚して良かった、ありがとう」

 

5月26日、日本ダービーで中島啓之はトウショウサミットに騎乗

余命がわずかな事に気付いていたのか、それは魂をかけた逃げだった

「ちゃんと観なさい」娘を抱きながら観戦

しかし無念にもトウショウサミットは馬群に沈んだ

中島啓之は、このレースからわずか16日後に帰らぬ人となった

43歳だった…

 

私は今でも悩みます。夫の好きなようにさせてよかったのかと…

治療に専念する道もあったのではないかと…

しかし騎手として命をかけたのだから…

最期まで騎手として生きていられたのだから…それでよかったのかもしれません

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