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1983年、神奈川県相模原市で4人兄弟の長男として生まれる

2歳になった時、旅行会社で働いていた父が、

仕事の拠点をアメリカ バージニア州に移転し、家族で移住した

アメリカの暮らしは、しんにとって順風満帆ではなかった

地元の高校に進学すると地獄のような日々が始まった

 

●いじめと後悔

「お前 腐ってるから洋服を燃やした方がいいんじゃないか」

同級生から言葉のみならず肉体的にもイジメを受けるように

文化が違う、言葉が違う、何より肌の色が違う、差別が多かった

黒人の同級生も身を守るため体の小さい しん をターゲットにした

そんな絶望から救ってくれたのが、あるクラスメイト

彼は弱い者いじめを嫌う正義感の強い人間だった

その後、彼の友人になり いじめは次第になくなっていった

「いじめられている人がいたら助けられるような人間になりたい」

そんなことをも思って矢先、しんはある現場に遭遇する

「助けて!助けて!」

一人の女性が複数の男性に暴行を受けている姿

怖くて助けられなかった

助けを求めている人を見捨ててしまった…しんは後悔した

 

●ホンジュラス

2002年、バージニア州の大学へ進学

大学で知り合った友人から

「ホンジュラスで孤児院のボランティアを募集してるんだけど行ってみない?」

大学はちょうど冬休みで暇だった

軽い理由からホンジュラス行きを決めた

2004年、21歳の時、初めてホンジュラスを訪れる

そこで しんは、ストリートチルドレンを目撃

家族に捨てられ家を無くし、

時には犯罪にも手を染める世間から見放された子供たち

さらにボランティアに行った孤児院では、

明るく笑っている子供たちから壮絶な生い立ちを聞く

しんは子供の強さ、屈託のない笑顔に惹かれ、

いつしかホンジュラス、子供たちの魅力に夢中になった

 

●カルメン

そんなある日、貧しいスラムに暮らす少女:カルメンと出会う

10歳の女の子がカゴのオレンジを売り歩いていた

この子の生活の少しでも足しになればと、

しんは彼女と会うたびにオレンジを買えるだけ買っていた

それをきっかけに2人の間に親子のような絆が生まれる

ある日、カルメンから一通の手紙を受け取る

それは彼女の切なる願い、一軒の家の絵とメッセージだった

“私の家は貧しいけれど、いつか近所の友達とみんなで安全な家に住んでみたいな。それが私の夢”

当時、カルメンが暮らしていた家は、段ボールで作られた家

貧乏学生のしんには、家を作るなんてできやしない

そう考えていた しんの脳裏に、あの辛い記憶がよみがえる

助けを求めている人を見捨ててしまい、ずっと後悔していたあの記憶

もう後悔したくない、何かしないといけない、

何もせずに後悔するなら兄かやってから後悔しよう

 

 

●行動

早速、カルメンとスラムの人たちの願いを叶えるため、

資金を集めに一度アメリカに戻る

大学の清掃員やパン屋で働いてお金を貯め、

地道に粘り強く募金を呼びかけた

名もなき大学生の訴えに協力者はどんどん増え、

気付いた時には3年間で3000万円の資金を集まっていた

 

2006年、沼地の土地を購入

カルメンが暮らしていたスラムの人と共に手作りで村を作り始める

3年後、現在のソレアダ村が完成した

カルメンが描いた家の絵をもとに、

コンクリート製の家を造り上げた

 

2011年、ストリートチルドレンを救うべく村に孤児院を建てる

「ホンジュラスの子供は、学校に行かないとギャングに入らないといけない。銃やマシンガンを持っているより鉛筆やノートを持っていた方が良い」

教育を受けることが貧困、治安の改善につながると信じている

しんが、新たな募金で今までに建てた学校は全部で20校

ホンジュラスに学校を1000校建てる、それが今の しんの夢

 

スチューデンツ・ヘルピング・ホンジュラス

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●自らの命と引き換えに多くの人を救い慕われる日本人医師:肥沼信次

1908年、東京 八王子で誕生した

外科医だった父:梅三郎の影響を受け、日本医科大学に進学

アインシュタインを知り、ドイツへの強い憧れをもつように

ドイツ生まれのユダヤ人で相対性理論を生んだ天才物理学者

肥沼はアインシュタインの洋書を読み込む中で、

“誰かの為に生きてこそ人生には価値がある”という言葉に強い影響を受ける

日本医科大学を卒業した肥沼は、

現在の東京大学にあたる東京帝国大学医学部で放射線を研究

 

1937年、29歳で憧れのドイツに留学

当時のドイツは、ナチスが台頭し軍事力の強化にまい進

不穏な空気をよそにベルリン大学で放射線の研究に明け暮れる

 

1939年9月、第二次世界大戦勃発

肥沼のいたベルリン大学も戦火に見舞われる危険があった

大使館からの帰国勧告を無視してドイツにとどまった

肥沼は放射線に関する論文を数々執筆し、教授候補になるまでに

終戦間近、ベルリンが攻撃を受け始めると肥沼は、

北部の都市、エーデスバルデに疎開

疎開先の自宅で診療所を開き、地元の人々を診ていた

 

1945年5月9日、ドイツ降伏

終戦から数日が経ったある日、

ソ連軍地区司令部のシュバリング司令官が訪ねてきた

「ヴリーツェンの伝染病医療センターに責任者として来てもらえませんか?」

当時、ヴリーツェンでは、発疹チフスが猛威をふるっていた

ペスト、マラリアと共に歴史上 多くの命を奪ってきた伝染病

ヴリーツェンは難民や捕虜の収容所がまわりに多くあり、

衛生状態が悪くチフスが大流行していた

さらにドイツ人の医者は兵隊にとられ医者が不足している状況

近くの待ちにいた肥沼に白羽の矢が立った

伝染病は専門外だったが、アインシュタインの言葉を思い起こし、

「分かりました。引き受けましょう」と快諾した

 

1945年9月、ヴリーツェンに向かった

伝染病医療センターのスタッフは数人の看護師だけ

他の医師たちは劣悪な環境に逃げていった

「安心して下さい。僕は患者を見捨てて逃げることは絶対にしません」

伝染病医療センターには、次々とチフス患者が運ばれてくる

そんな中、来る者を拒まず、肥沼は1人ですべての患者を診ていった

「先生、もうベッドがいっぱいです。これ以上入院患者を受け入れられません」

「大丈夫、床に藁と毛布を敷いて回復に向かっている患者はそちらの移動してもらって、できるだけ患者さんを受け入れましょう」

「看護師の数も限られているんです!これ以上患者が増えたら衛生状態を保てません」

「お願いします!目の前の命を救うためにあなたたちも頑張ってください」

センターでの治療が終わり、夜になると

病院まで来られない患者の下へ毎日往診に出かけた

スタッフが一丸となって治療にあたる中、薬が不足する事態に

センターにあった薬が底をついた

元々、街にあった3軒の薬局は戦争ですべて破壊され、

薬の入手は不可能な状況

肥沼は週1日の休みを利用して自ら薬の買い付けに奔走

時には大荷物を抱えたまま、徒歩で何十キロも離れた街を周った

 

1946年3月6日、肥沼はチフスの感染

体を酷使し続けてきた肥沼に体力はほとんど残っていなかった

薬を与えようとすると「この薬は他の患者さんに使ってくれ」と拒否

肥沼は最後まで薬を口にすることはなかった

1946年3月8日、肥沼信次 逝去 享年37

この事実は、東西冷戦により半世紀 表に出ることはなかった

 

肥沼の死から43年後、1989年、ベルリンの壁が崩壊

街の人々の後押しで市長や教授が動き、

その1か月後、肥沼の遺族を探す記事が朝日新聞に掲載

その記事を肥沼の弟が見たときにより

日本とドイツ それぞれで肥沼の情報が明らかになった

ドイツでは教科書にも掲載されている

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●家族を日本に残しアンゴラで地雷を除去する福 栄重

 

高校卒業後、自衛隊に入隊

そこで地雷除去の指導などを行っていた

そこで出会ったのが自衛隊に勤めていたるみ子さん

福さんの正義感の強さに惹かれ結婚

その後、54歳で自衛隊を退職

自衛隊時代の実績を買われ、

地雷除去NGO:JMASの一員としてアンゴラに向かった

 

福さんは子供たちが無邪気に遊べる場所を作りたい、

と地雷除去に取り組んでいる

 

コマツが開発した地雷処理機

ビットと呼ばれる突起が回転して地雷を破壊していく

福さんは現地スタッフに操作方法を教えている

 

福さんがアンゴラで地雷を除去した面積は東京ドーム30個分にも及ぶ

 

「(地雷を踏んで死ぬのは怖くない?)いずれは死にますから。早いか遅いかの話で。人のためにだったら考える必要はない。みんな同じ地球人ですからね」

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ありえへん∞世界で紹介

●キルギスの子供たちを救った日本人医師:中島利博

東京医科大学の教授を務め、難病に関する遺伝子を研究していた中島利博

2005年のある日、友人から思わぬ相談を受ける

「キルギスで原因不明の病気が流行して多くの子供たちが苦しんでいるらしい。一度様子を見に行ってくれないか?」

その真相を究明するためキルギスへ渡った

友人の個人的な依頼だったため、渡航費などの費用は全て自己負担

キルギスの病院には、謎の病気に冒された子供たち

良く見るとその手は痙攣していた

子供たちを苦しめる病気の正体を探るため、

キルギス全土を駆け巡り、50カ所以上の病院を調査

病気の正体はリウマチ熱だった

風邪の一種で治療が不十分だと脳や心臓に合併症を起こし、

死に至る可能性もある病

しかし正しく薬を処方すれば簡単に治す事が出来るため、

先進国では何十年も前に根絶された

 

キルギスでリウマチ熱が横行した原因は、極端な意思不足

1991年に起こったソ連の崩壊により、独立直後のキルギスは政治が混乱し経済が破綻

医師の月給が1200円に急下落

そのため多くの医師がは海外へ移住

リウマチ熱の治療のできる経験豊富な医師が残っていなかった

中島医師は、キルギスの若き医師たち10人以上を自費で日本に招き、

高度な医療技術を学ぶ機会を与えた

こうして現在はキルギスの医師がリウマチ熱を治療できるようになり、

数多くの幼い命が救われた

さらに中島医師は日本で募金を集め、リウマチ熱を15分で診察できる検査キットを大量に寄付

8年間に渡り、キルギスで幼い命を救い続けた中島医師は、

その功績からキルギス共和国の国家顧問に任命された

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●タリバンに撃たれた少女:マララ

パキスタンの一部では、女性が教育を受ける事に

反対するイスラム過激派のタリバンの影響が強い

 

学校を標的にした爆破テロが頻繁に起きていた

 

マララはブログに現状を綴った

“タリバンが女子生徒に学校登校禁止令を出したから学校に行くのが怖いわ”

 

するとブログは徐々に有名になり、

マララの元に取材やスピーチの依頼まで来るように

 

テロの標的とされる危険性があったにも関わらず、

マララは意見を堂々と主張し続けた

 

しかし2012年10月9日、タリバンのテロリストに襲撃され、

マララは頭に銃弾を撃ち込まれた

弾丸は左眉の下から首を通って背中に留まっている

緊急手術が行われた

頭蓋骨を一部除去し、代わりにチタン製の板を埋め込む大手術

1週間後、マララの意識は戻り、一命を取り留めた

しかし顔面神経が損傷し顔にマヒが残った

 

このニュースは世界中を駆け巡り、多くの人から激励の声がマララに送られた

リハビリを続けること半年、マララは後遺症を乗り越え、笑顔を取り戻した

 

2013年7月、国連の舞台に立ち、世界に訴えた

「1人の子供、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます」

全ての子ども、女性が教育を受ける権利を訴えたスピーチに

会場からはスタンディングオベーション

 

タリバンが怖いか?との質問に彼女は

「怖くはありません。彼らに出来るのは人を殺す事だけです。私を殺したとしても体だけしか殺せない。私の活動は止められない。銃は人を殺すだけですがペンは命を与えます」と話した

 

 

2014年、史上最年少でノーベル平和賞を受賞

「この賞は、ただ部屋にしまっておくためのメダルではない。終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明

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