娘を救うために医療の道に進んだ町工場のオヤジ

●8万人を救ったバルーンカテーテル

年間4万人が死亡する心筋梗塞

心筋梗塞の応急処置に使われるバルーンカテーテル

心臓近くまでのカテーテルの風船を広げると

血管の中の圧力が上がり心臓に向かって血液が送り込まれる

風船を縮めると血管内の圧力が下がり逆に心臓から血液が送り出される

これを繰り返す事で心臓を助ける

 

国内のシェア3割を誇るのが、東海メディカルプロダクツ

従業員180人、売上高32億円

製造工程の9割が手作業

ライバルは機械化を進めているが、東海メディカルは一つ一つ手作り

全ての製品を検査してから出荷する

 

開発したのは、筒井宣政

1964年、大学卒業後 筒井は父親が経営していた樹脂加工の町工場を継ぐ

大赤字で倒産寸前の零細企業だったが、

筒井はビニール製の紐を売り、起死回生を図った

それがアフリカで髪を縛るオシャレ紐として大ヒット

会社は息を吹き返した

全てが順調に回り始めた時、

生まれながらに心臓が悪かった次女は、余命わずかという宣告まで受けた

娘の心臓を治そうと全国を回ったが、アメリカでも不可能と言われた

するとある医師が声をかけた

「貯めたお金で人工心臓の研究をしてみませんか?」

人工心臓を作れれば娘を助けられるかもしれない

筒井は経済学部出身、畑違いの素人だったが、

37歳でゼロから医学の勉強を始める

そして8年の歳月と8億円を投じ、1986年、人工心臓の試作品が完成した

動物実験の結果も上々

しかし実用化にはさらに1000億円もの資金が必要だった

筒井にそんな資金があるはずもなく人工心臓は断念

 

 

そんな時、ある事実を知る

当時のバルーンカテーテルは、全て外国製

日本人に合わず医療事故が多発していた

日本人に合ったカテーテルを作れば多くの命を救えるかもしれない

筒井にはこれまで培ってきた樹脂加工の技術と

必死で学んだ心臓の知識があった

 

人工心臓を諦めた3年後、

1989年、初の国産バルーンカテーテルを完成させた

外国製の事故発生率が1%~5%だったのに対し、東海メディカルは0%だった 高校卒業後、次女は会社の事務を手伝った

「お父さんまたこれで1人の命を救う事が出来たのね」が口癖だった

カテーテルが完成して3年後の冬、次女は23歳の若さでこの世を去った

 

心臓用カテーテルは、SS~LLまで計6種類

ライバル社は、せいぜい3種類

使う人が少ないサイズを製造しても

コストがかかるだけなのでライバル社は作らない

しかし、自分の娘がこのサイズだったらどうするか?

筒井は、常に娘=患者の立場に立って考える

 

娘の代わりに一人でも救いたい

(1987)

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