岡山県吉備中央町には、珍しい手造りの公園がある
癒しの散歩道 裕園
ひとつの山を切り開き造られた公園は、
石畳の散歩道が山頂まで続き、
季節ごとに行われるイベントスペース、
昼食が食べられる食事処もあり、地元の方の憩い場として人気
 
それは小林裕さんが、地元の人に
恩返しがしたいと一から手造りした公園
 
1999年、小さな山を一つ買い、公園造りを始めた
まずは木を切って道を造ることから
雨の日も雪の日も朝5時から夜遅くまで作業を進めた
切り開いた道には、2万個以上の石を全て手作業で敷き詰めた
さらに敷地内の建物も小林さんの手造り
全く知識のなかった小林さんは自力で調べたり、
近所の人に聞いたりしながら、防災設備管理会社に勤務し、
5年で完成させることを目標にして作業を徹した
完成間近の公園は、台風に崩され、何度も一からやり直し
壊れては直してを繰り返し、感性には15年の歳月がかかった
今では多くの人を完成させる癒しの公園となっている

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・ビールスタンド重富:広島県広島市中区銀山町10-12
店内は10名しか入れない小さな立ち飲みビールバー
店主の重富寛(しげとみゆたか)さんが、こだわって注ぐ生ビール
1杯500円で、1人2杯まで
「壱度注ぎ」もちっとした口当たりの泡の昭和の泡
「参度注ぎ」もちっとした口当たりの泡の昭和の泡と柔らかい口当たりの平成の泡のブ
レンド
「弐度注ぎ」注ぐのに5分もかかる
10年かけて考案した「重富注ぎ」クリームのような泡
注ぎ方で変化する味わいを楽しむため、店で出すビールは1種類だけ
営業時間が17時~19時までのたった2時間だけ
食べ物は一切なく、持ち込みも禁止
 
2時間しか営業しないのは、
「この店を0次会として位置付けてほしい」
富重さんの本業は、老舗の酒屋
近所の飲食店に支えられてきた
ビールバーを長時間営業することは、周辺の飲食店の客を奪うことになる
考えた末に思い付いたのが、17時~19時までの営業
「私は残りの人生、この街に恩返ししていきたい」
 
酒屋の創業者である重富さんの祖父:博さんは、
初めて広島に生ビールを持ち込み広めたことで知られる人物
当時、日本は瓶ビールが主流で生ビールなど
ほとんどなかった時代に本場ドイツ人技師から
生ビールの管理法や注ぎ方の技術を習得
酒屋の一角で客に振る舞っていた
その後、乳の台でバーは閉めたモノの重富さんは、
再び美味しい生ビールで広島を元気にしたいとビールバーを開いた

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ムハンマド・アッサーフが育ったのは、パレスチナのガザ地区
歌うことが好きだったムハンマドは、
地元ガザのテレビにも出演するほど上手だった
姉のヌールは、ムハンマドに歌手になるように勧めた
ガザは、イスラエルが封鎖しているので、外に出るのは困難
しかしヌールは、「大丈夫よ。いつか必ずここから出ていける。夢は叶う。スターになるって言って。スターになって世界を変える」
こうしてムハンマドは、大きな夢を抱くようになった
ある日、姉のヌールが病で倒れた
その死の間際「約束する。エジプトで歌うよ」
とムハンマドはヌールに約束した
満足な治療が受けられず、姉:ヌールは11歳で この世を去った
 
時は過ぎて2012年、ムハンマドは22歳に成長
亡き姉:ヌールとの約束を果たすため、
エジプト カイでのオーディション番組への出場を決意する
しかしガザから外に出るのは容易な事ではない
ムハンマドは偽造したビザで脱出を試みる
検問所で「このビザは本物か?」「いいえ 偽造です」
「どうしてもエジプトに行きたいんだ」「なんでだ?」
「コンテストに出る」「何の?」「歌の…」「何か歌ってみろ」
ムハンマドは歌った
すると「驚いた。素晴らしい。神に祝福された声だ。頑張れ、エジプト人を負かしてやれ」
ムハンマドの歌声が検問係の心を動かした
 
無事エジプトに入国し、カイロのオーディション会場に到着した
しかしオーディションに参加するチケットは、
すでに配り終わっていた
ムハンマドは、会場を後にしようとした
そこへ「ちょっと待て。君がトイレで歌っているのを聞いたよ。見事な歌声だ。僕が出るより君が出た方がアラブ人のためになる。受け取ってくれ」
たまたま歌声を聞いた参加者がチケットを譲ってくれた
予選に合格したムハンマドは、順当に勝ち進み本選に出場
見事決勝まで勝ち残ったムハンマドは、優勝した
その瞬間、パレスチナの町に大歓声が起こる
ムハンマドは亡き姉との約束、スターになる夢を叶えた

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22年前に乳がんを患って以来、
がんと闘いながら歌ってきた声楽家:筒井一二三
歌うことが何よりも生きがいだった
 
しかし2016年2月25日、命と同じくらい
大事と言っていた声を失うことになった
縦隔リンパ節へのがんの転移
がんが生態を司る神経を圧迫し、声帯を閉ざしてしまった
医師が提案したのは、気管切開
つまり声を失うこと
声を捨てることは、生きがいを失うことと同じ、
声か 命か 悩み続けた筒井さんは、
声よりも生きることを決断した
 
「牧也へ、色々とありがとう。いっぱい心配かけてごめんなさい。でも牧也の結婚までしっかり生きなければと思っています」
声を失う前日、息子にメッセージを残した
 
2016年2月25日、手術は無事成功
筒井さんは声を失った
 
それからわずか半年後、奇跡を起こす
2016年8月21日、萬翠荘(愛媛県松山市)コンサートを開催した
美しい声で120人の観客を魅了した
声を取り戻したのは、
空気を声帯に送り、声が出せる状態にする
医療器具:スピーチカニューレ
 
家族の愛と強い意志で声を取り戻した

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ミシェルは、1976年3月35日に生まれた
母親は当時25歳、夫との関係が悪化し、
離婚手続き最中に妊娠に気がついた
貧しいうえ、すでに2人の姉がいたため、
育てられないと判断し、養子に出すことにした
親としての感情が芽生えてはいけないと
娘を抱くことが許されたのは、わずか5分
こうしてミシェルは、養子に引き取られた
当時のアメリカでは、養子契約が成立後、
双方の連絡先は開示しないのが一般的だった
 
ミシェルが引き取られたのは、ダベンポート郊外に住むジョンソン一家
養母は、健康上の理由でもう妊娠はできないとミシェルを迎えた
その4年後に思いかけず妹が誕生
だが両親は、分け隔てなく愛情を注ぎ、ミシェルは伸び伸びと育てられた
5歳の頃、両親から養子であると告げられた
優しい両親に恵まれ、何不自由なく育ったミシェルだったが、
自分はいったいどこから来たのだろう?という思いが募った
 
ミシェルは、養母を伴って養子斡旋エージェント支部を訪ねた
「私の実の両親はどんな人ですか?」
「この子は自分のルーツを知りたがっているんです。会わせていただけませんか?」
養母もフォローしてくれた
「実のご両親に関してお知らせできるのは、この記録だけになっています」
養子に出された時点の両親の年齢、学歴、身長などが記載されていた
だが名前や連絡先に関する記述は一切ない
本人と連絡を取ることは不可能だった
 
それから16年後、ミシェルのコレステロール値が異常な値が出て、
それが後天的な原因なのか、遺伝的な原因なのかを調べるために
再び養子斡旋エージェント支部を訪れた
両親の医療記録を提供され、実の父の遺伝であることが判明した
しかし実の両親の名前は、伏せられたまま
 
ミシェルの実の母親は、離婚した後、2人の娘を育てるために
事務職やバーテンダーなど様々な職を経験
その後 勤務した美容院では、受付業務を担当
明るい性格でスタッフはもちろん、
客からの評判もよく3年で店長補佐まで昇進した
 
養子斡旋エージェント支部の養子ケースワーカーは、
こうした情報をミシェルに教えることができない
それが養子斡旋エージェントの決まりだった
養子ケースワーカーは意を決して「お母様に聞いてみましょうか?」
「それは許されないことでは?」
「原則はそうですが、あなたのお母様も望む場合は、可能です」
 
養子ケースワーカーは、実の母に連絡した
「30年前に養子に出された娘さんが あなたと会いたいと言っていますが」
「無理です。私は生まれたばかりの娘を5分で手放したんです。母親と名乗る資格なんてないんです」
「では娘さんからの手紙ならば受け取っていただくことはできますか?」
母は了承した
手紙を書くにあたって下の名前だけ教えてもらった
手紙は養子ケースワーカーを通し、実の母:キャシー・ハンゼンのもとに届けられた
“親愛なるキャシーへ 私は小さな田舎町で育ちました。今もそこに住んでいます。小学校、中学校、高校とチアリーダーをしてバンドにも入っていました。ダベンポートという町のカプリという美容専門学校を出て、今は美容の仕事をしています。働き始めてもう10年になりました。1999年6月に結婚し、昨年1月に長女が生まれました。娘と共に過ごし絵を描いたりするのが今の生活の楽しみです。私のこと少し書いてみようと思います、私は右利きで買い物が好き。お酒はマルガリータが好きで肉はあまり食べなくて魚が大好き。散歩も好きですよ。動物が大好きでスイミングも好き。あと兄と妹が一人ずついて6人の姪っ子と3人の甥っ子がいます。いつかお互いのストーリーを交換して私の音楽好きや細い髪や笑顔がどこから来ているのかも知りたい。それにこのお尻のお肉も ミシェル”
ミシェルの手紙は、長い間苦しんできたキャシーの心に沁みた
キャシーは養子ケースワーカーに電話した
「今手紙を読みました。ミシェルと会うつもりはないと言いましたが、その言葉撤回させてください。あと手紙にひとつ気になる部分があったんです」
「まずは一度ミシェルと電話で話してみませんか?」
 
その夜、ミシェルは養子ケースワーカーからキャシーの連絡先を聞き、電話をかけた
「もしもしミシェルです」
「ミシェル?お手紙ありがとう。幸せにやってるようね」「はい」
「あなたダペンポートの美容学校に通っていたのね?」
「もう10年くらい前ですけど」
「実は私もダペンポートで働いていたことがあるのよ」
「私も美容学校を卒業した後、1年だけですがダベンポートで働きました」
「本当に?」
2人は互いの記憶を照らし合わせていくと
「じゃ あなたは受付にいたキャシーなの?」
「あなたはネイリストだったミシェルなのね」
「信じられない!」
 
そして2週間後、母娘は再会した
ミシェルは血のつながった2人の姉とも会い、
育ての親や兄妹も含めた家族ぐるみの付き合いが始まった

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