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「親子愛」カテゴリーアーカイブ
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1972年、徳島県阿波市生まれ
剛が生まれたとき、母:芳江は40歳、父:一(はじめ)は50歳
高齢出産だったので剛が小学校に入学したころには、
2人とも見た目はお婆さんとお爺さんのようだった
学校で授業参観があったとき、
「ひとりだけお婆さんが来とるぞ」「ほんまじゃ婆さんじゃ」
「違うわ。あれ原田の母ちゃんじゃわ」
まわりは若いお母さんでいっぱい、剛は恥ずかしくて堪らなかった
「母ちゃん、恥ずかしいけん、もう来んといてくれ」
「何が恥ずかしいんえ、次も必ず行くけんな」
「ほんなことより剛、授業中もっと手を挙げんか」
「…うるさいわババア」
「親に向こうて何なその口の聞き方は!反省するまでここに入っとき!」
母は怒ると剛を納屋に閉じ込めた。まるで鬼のようだった
そんな母と父の仕事は農家でナスビをいっぱい作っていた
でも年寄りだった2人は一生懸命働いても他の農家のようにお金を稼げず、剛の家は貧乏だった
晩ごはんも 形が悪くて売り物にならないナスビを使ったナスビ料理ばかり
「またナスビか…」
剛はもうナスビを見るのも嫌で、ナスビの鬼に追いかけられる夢まで見た
そして剛が10歳の時、学校から帰ると玄関で母が仁王立ち
「どうしたん母ちゃん」「ええから行くじょ」
車で向かった場所は団地だった「ここじゃ」
ざるに盛られたナスビを手渡され「剛、これを一人で一袋100円で売ってきい」
「なんで?」「つべこべ言わんと売って来るんじゃ!」
母は剛に市場で売れないナスを近くの団地に売りに行かせた
「ナスビはいりませんか?」
剛は一人で知らない団地のピンポンを押し、一軒一軒訪ねて回った
怖いおっちゃんから「邪魔じゃ!出ていけ!」と怒鳴られても母は助けてくれなかった
他に家でも「ナスビいりませんか?」「ほんなもんスーパーで買うわ!」
結局一つも売れなかった
すると母は「何しとるで剛、ちゃんと声出したんか!明日は絶対 売ってこなアカンでよ」
剛は次の日も知らない団地に売りに行かされたが、一つも売れない
そんな剛に母は鬼の顔で怒る
売れなかった母に怒られる、剛は必死で声をあげた
「獲れたての美味しいナスビはいかがですか?いっぱい入ってたったの100円ですよ。お得ですよ」
すると……あの怖いおっちゃんが出てきて「小さいのにえらいの、ほな買うたる」
それから毎日 剛は一人でナスビを売りに行った
だんだん売れるようになってきて剛は楽しくなってきた
そんなナスビ売りが1か月くらい続いたころ、突然、団地に行くことが中止になった
それは母が農作業中に倒れ 入院してしまったから
「母ちゃん 何の病気?大丈夫なん?」
「大丈夫に決まっとる」無口な父はどう言ううだけ
母はそれから4年間 入退院を繰り返した
そして1987年7月、剛が14歳になったとき、母は息を引き取った
白血病だった
火葬場では母の骨は少ししか残らなかった
何年もキツイ薬を飲んでいたので母の骨はボロボロだった
「剛、これから母ちゃんの分も2人で頑張って生きて行こな」
剛はずっと疑問に思っていたあのことをたずねた
「そういえば父ちゃん、あんとき何で母ちゃんは僕にナスビを売らせたん?」
「剛、お前がナスビを売ってるとき、ほんまは母ちゃんはな、車の中で泣いとったんじゃ」
「えっあの鬼のような母ちゃんが…」
「母ちゃんが死んでも強く生きて行くんじょ、と。母ちゃんは自分が近いうちに死ぬのを分かっとった。ほなけん心を鬼にして剛に生きる方法を教えようとしたんじゃ」
“今 大人になったボクは まだまだダメな所もありますが、子供の頃にナスビを売ったことがあるのでどんなしんどいことも平気です。お母さんが天国から見ていてくれるからどんな苦しいことも平気です。そして今ボクはナスビが大好きです”
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1992年、神奈川県伊勢原市
山崎政明と敏子の間に直也くんが生まれた
5歳になった腕白少年:直也くんが突然 病魔に襲われてしまう
体に異変が現れたのは、ある朝のこと
「赤いおしっこが出た」
しばらくしてから一緒にトイレに行ってみると
赤い血が混じっているというより血そのものが出ているようだった
「どっか痛いとこない?」「息をすると胸が痛くなる」
あわてて病院へ行き、精密検査を受けた
「胸に腫瘍らしき影が見えます」
医師の説明では良性の可能性が高い
「腫瘍は大きいようなので取ってしまった方がいいでしょう」
手術後の病理検査で、恐ろしいことが判明する
「肺にあった影は悪性の腫瘍:ユーイング肉腫でした」
肋骨に腫瘍がへばりついき肺を圧迫していた
「今回の手術で肋骨を3本 切除しました。これからは放射線と抗がん剤で再発を防いでいきます」
幸い腫瘍は全て取り除き、転移は見られないが、再発の可能性も十分にある
集中治療室から大部屋に移動、元気にはしゃぎまわれるほどに回復した
再発を防ぐため、直也くんは、強い抗がん剤に耐えた
病院から出られず抗がん剤の副作用に苦しむ日々
治療を始めて一週間で髪の毛は無くなった
治療の結果、定期検査を受ける条件付きで、退院が認められた
そしてみんなより半年遅れで学校に通えるようになった
しかし定期検査で…右胸に1.5㎝の腫瘍が発見された
すぐに手術で腫瘍を摘出した
そしてまた辛い抗がん剤治療が始まった
愛する我が子が苦しんでいるとつい…
「もうやめようか?何もしないでお家に帰ろう」そう言ってしまう
しかし「ここにいる。頑張る」直也は弱音を吐かなかった
その後も直也は再発と手術を繰り返した
どんなに辛い治療でも直也は拒否しない
体重は常に10㎏台、慢性的な貧血で顔は浅黒かった
「ナオは偉いね。何でそんなに頑張れるの」
「僕はね。体はこんなだけど心は強いんだ」
「お母さん 代われるものなら代わってあげたい」
「ダメだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。お母さんじゃ耐えられないよ」
直也には夢があった
闘病のため無理だった海で思いっ切り泳ぐこと
ボランティア団体:メイク・ア・ウィッシュに応募すると
ハワイ旅行がプレゼントされた
直也くんは、思いっきり遊んだ
ハワイから帰国後、まもなく腰に激痛が走った
「骨髄に転移していました」
血液を造る骨髄に転移したとなるとがん細胞が体中に運ばれる
手術で切除する事もできず今まで使っていた抗がん剤も使えない
手の施しようがなかった…
直也に何と説明すればいいか?何日も答えが出ぬまま、
2人は本当のことを話すことにした
「ナオちゃんは今 胸が痛いとか腰が痛いとか言ってるでしょ。骨髄にも病気が出来ちゃって」
「うそばっかり、ちゃんと先生に聞いたの?」
闘病生活が長い直也には隠し通せない
「お母さん何 言ってるの?ナオは負けるわけないじゃん。病気に勝つに決まってるじゃん」
直也は前向きに辛い治療を望んだ
日々痛みは激しくなり直也は早く手術をしてほしいとせがんだ
しかし手術は出来ず、モルヒネを投与して痛みを抑えるだけ
「すごく頑張ってきたから別に手術しなくてもいいよって先生言っていたよ」
「お母さん 手術しないってことは死んじゃうってことでしょ?やってみなくちゃ分からないじゃん。最初から諦めちゃダメっていつも言ってるじゃん」
「そうだね。ごめんね。お母さんもうあきらめない」
器官は炎症を起こし気道を圧迫、呼吸も難しくなった
ナオは死が近いことを悟ったのか
「お母さん、ナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。頑張れば幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど最後は必ず大丈夫」
直也は余命宣告を受けたから2週間も生き続けた
そして2001年7月3日、壮絶に病と闘った直也くん 永眠
病魔と闘い抜いた4年間、少年の小さな体のどこにそんな力があったのか?
それは看護師から聞かされた
「直也くんはお母さんのために頑張ったんです」
治療の途中でこんなことを言っていた
「あのねナオは 今 死ねないんだよ。お母さんの心の準備が出来てないから。今はまだ死ねないんだよ」
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●8万人を救ったバルーンカテーテル
年間4万人が死亡する心筋梗塞
心筋梗塞の応急処置に使われるバルーンカテーテル
心臓近くまでのカテーテルの風船を広げると
血管の中の圧力が上がり心臓に向かって血液が送り込まれる
風船を縮めると血管内の圧力が下がり逆に心臓から血液が送り出される
これを繰り返す事で心臓を助ける
国内のシェア3割を誇るのが、東海メディカルプロダクツ
従業員180人、売上高32億円
製造工程の9割が手作業
ライバルは機械化を進めているが、東海メディカルは一つ一つ手作り
全ての製品を検査してから出荷する
開発したのは、筒井宣政
1964年、大学卒業後 筒井は父親が経営していた樹脂加工の町工場を継ぐ
大赤字で倒産寸前の零細企業だったが、
筒井はビニール製の紐を売り、起死回生を図った
それがアフリカで髪を縛るオシャレ紐として大ヒット
会社は息を吹き返した
全てが順調に回り始めた時、
生まれながらに心臓が悪かった次女は、余命わずかという宣告まで受けた
娘の心臓を治そうと全国を回ったが、アメリカでも不可能と言われた
するとある医師が声をかけた
「貯めたお金で人工心臓の研究をしてみませんか?」
人工心臓を作れれば娘を助けられるかもしれない
筒井は経済学部出身、畑違いの素人だったが、
37歳でゼロから医学の勉強を始める
そして8年の歳月と8億円を投じ、1986年、人工心臓の試作品が完成した
動物実験の結果も上々
しかし実用化にはさらに1000億円もの資金が必要だった
筒井にそんな資金があるはずもなく人工心臓は断念
そんな時、ある事実を知る
当時のバルーンカテーテルは、全て外国製
日本人に合わず医療事故が多発していた
日本人に合ったカテーテルを作れば多くの命を救えるかもしれない
筒井にはこれまで培ってきた樹脂加工の技術と
必死で学んだ心臓の知識があった
人工心臓を諦めた3年後、
1989年、初の国産バルーンカテーテルを完成させた
外国製の事故発生率が1%~5%だったのに対し、東海メディカルは0%だった 高校卒業後、次女は会社の事務を手伝った
「お父さんまたこれで1人の命を救う事が出来たのね」が口癖だった
カテーテルが完成して3年後の冬、次女は23歳の若さでこの世を去った
心臓用カテーテルは、SS~LLまで計6種類
ライバル社は、せいぜい3種類
使う人が少ないサイズを製造しても
コストがかかるだけなのでライバル社は作らない
しかし、自分の娘がこのサイズだったらどうするか?
筒井は、常に娘=患者の立場に立って考える
娘の代わりに一人でも救いたい
(1988)