●日本人捕虜が建設した奇跡の劇場
1947年に完成したウズベキスタンのオペラ劇場:ナヴォイ劇場
旧ソ連では世界3大オペラ劇場と呼ばれるほど
この劇場建設には500人の日本人が携わっていたという
1945年、第二次世界大戦が終戦した
60万人がシベリアに強制連行され捕虜となる
当時、ソ連だったウズベキスタンでも
2万5千人もの日本人が強制労働を課せられた
劣悪な労働環境、零下30度を下回る
極寒の地で寒さに震えながら凍った木を切り出す
決められたノルマを果たさなければ食べ物すら与えられない
長時間の労働に加え、飢えとの戦い
過酷な強制労働にも関わらず日本人捕虜たちは手を抜かず仕事を全うした
それよりも彼らは工場や運河など
建設不可能と思われていた施設を次々と建設していく
真面目に働き続ける日本人捕虜の姿に現地の人は次第に心を惹かれていった
1945年、ナヴォイ劇場の建設が開始
この大規模なプロジェクトには500人の日本人捕虜が建設にあたった
作業は過酷を極め79人もの日本人捕虜が作業中に亡くなった
しかし日本人捕虜は手を抜く事なく作業を続けた
そんな彼らにはある合言葉があったという
それは「日本に必ず帰ってもう1度桜を見よう」
クレーンなどはなく手作業だったにも関わらず驚異的な速さで作業は進み、
3年はかかるだろうと思われた作業が、わずか2年足らずで劇場は完成した
与えられた仕事をやればいいという強制労働だったにも関わらず、
細部の彫刻に至るまで手の込んだ作りにするなど、
日本人としての誇りをもって作った完璧な出来栄え
劇場が完成してから20年後…1966年に起きたタシュケント大地震
市内では78000棟が倒壊する大惨事、未曽有の大災害
しかし、日本人が建設した建物は倒壊する事はなかった
ナヴォイ劇場は無傷だったため、市民たちの避難場所として多くの命を救った
日本人捕虜の真面目な仕事ぶりはウズベキスタン国民の心を打ち、
「日本人のように真面目な子になりなさい」と子供たちに教えた
1996年、カリモフ大統領が劇場建設に関わった日本人を称えるプレートを設置
大統領はプレートを作成する時、「彼らは恩人だ間違っても捕虜と書くんじゃない」と指示
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もうお亡くなりなられたが近所のお方の実体験として話を聴いたことがあります
新聞記事をきっかけに思い出しています 誇りに思います