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昭和2年(1927)日本初の本格インドカリーが新宿 中村屋で誕生した
それは、恋と革命の味
 
夫と共に中村屋を創業した相馬黒光は、
島崎藤村や国木田独歩とも親交があり文学界では有名だった
黒光は、英語やロシア語も話せたため
中村屋には外国人の客も多かった
芸術に造詣の深い相馬夫妻は、
若く才能のある芸術家を支援するため、
敷地にある洋館をアトリエとして無償で貸し出していた
 
大正4年(1915)インドは当時イギリスの植民地
インド人のラス・ビハリ・ボースは、
インドの独立運動を進める中心人物
警察に追われてインドを脱出、日本に密入国して亡命を求めていた
政界のフィクサー:頭山満の指示で、ボースを中村屋で匿うことに
匿われたのは、若い芸術家がアトリエとして使っていた部屋
ボースを匿って4か月後、
寄宿舎で暮らしていた娘の俊子が女学校を卒業して戻って来た
このとき、イギリス政府は、ボースを処刑するため
高い賞金をかけ私立探偵を雇って行方を追跡していた
麻布の隠れ家に身を隠したボースとの連絡係として俊子が務めた
大正7年(1918)ボースの逃亡生活が2年も続いた
7月9日、頭山の提案で俊子をボースに嫁がせることに
頭山家で密かに結婚式が行われた
結婚しても逃亡の身、追手が迫れば身を隠し関東各地を転々とした
ボースは逃亡生活を続けながらインドの独立運動を進めた
 
そんなボースの楽しみは、カリー
当時、日本のカレーはカレー粉にメリケン粉を混ぜたルウに
あり合わせの野菜を煮込んだ食べ物
香辛料は、ほとんど入っていなかった
インド人が食べているカリーは、
炒めた玉ねぎを形が無くなるまで煮込み、
たくさんの香辛料と肉や野菜を入れた料理だった
 
大正7年11月、第一次世界大戦が終結
ヨーロッパは疲弊し、イギリスも国力を失った
戦争景気で国力を増した日本は、
イギリスとの同盟を破棄する方向に向かう
イギリスに雇われた探偵も姿が見られなくなった
自由の身となったボースと俊子は、2人の子供を授かった
大正12年(1923)ボースは日本に帰化
大正14年(1925)俊子が重い肺炎を患い、26歳で亡くなった
その2年後、中村屋が喫茶部を作ると聞いて、ボースが訪ねて来た
「ぜひインドカリーをメニューに入れてください。俊子と約束したんです」
昭和2年(1927)6月、中村屋喫茶部がオープン
その看板メニューとして純インド式カリーが誕生
当時カレーライスは10銭だったが、中村屋のインドカリーは80銭
ボースのこだわりで最高級の食材と香辛料を使ったためだった
俊子とボースの思いが詰まったインドカリーは大好評
いつしか恋と革命の味と呼ばれるようになった
 
ボースは俊子亡き後も日本に残り、2人の子供を立派に育て上げた
長男の正秀は、昭和20年 沖縄で戦死した
 
黒光に再婚しないのかと問われたボースは、
俊子との暮らしは幸せだった。
私はあの数年の間に人生の幸福を貰ったと思っている
 
昭和20年(1945) 58歳で亡くなるまで新しい妻を娶ることはなかった

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敵対する部族の首を狩り、権力の象徴や呪術などに用いていた首狩り族

第二次世界大戦の時期に、首狩りの習慣が途絶えたという

1942年、第二次世界大戦当時、日本はブルネイを3年間 統治していた

その間、ブルネイ県と呼ばれ、国民は日本語教育を課せられたていた

 

日本が統治する以前、1800年からブルネイはイギリスが占領していた

当時のイギリスはジャングルに覆われたブルネイに

植民地の魅力を感じておらず、開発作業などを行わなかった

そんな中、日本はイギリスを追い出しブルネイを占領

日本軍には埋蔵資源が豊富なブルネイを軍港として利用する狙いがあった

 

1942年、ブルネイ県知事に就任したのは、

日本軍とは全く違う考えを持った軍人:木村強

就任直後、木村は当時のブルネイ国王の下へ

国王から「何か希望はありますか?」との問いに

「現地のブルネイ人を1人私につけてくれませんか?」

木村は、日本の国益だけを考えて占領するのではなく

ブルネイの発展に力を注ぎたいと考えていた

それを実現するためにブルネイ人を側に置き、

共に行動することが最善と考えた

 

国王が木村の部下に推薦したのは20代の若いブルネイ人青年

木村は占領国である立場にもかかわらず日本の国益だけを考えず、

ブルネイの発展を第一に政策を進めていった

秘書として雇ったブルネイ人青年はとても優秀で木村を大きく助けた

そんな木村が行った政策が、

例えば、ブルネイで天然ゴムが採れる事に注目し、

現地に工場を建て雇用を生み出したり、

道路、電気、通信などのインフラ整備を進めるなど

当時、ジャングルに覆われていたブルネイの発展に大きく尽力した

しかしブルネイを利用したい日本軍からすると、

木村の政策はブルネイ人に甘く無駄なモノに映っていた

「私は他国の人間を奴隷のように扱う事を日本人として恥ずべき事だと考えている。彼らの独立につながる手助けができれば今後彼らも我々を助けてくれるだろう」

木村は目先の利益を求めず、日本人としての品格や誇りを持って接し、

助ける事こそが後の日本の国益につながると考えていた

さらに木村は首狩り族:イバン族の生活整備も進めようとしていた

当時、首狩りを行っていたイバン族は、同じブルネイ人からも敬遠

木村はそんなイバン族もブルネイ人が一丸となり

発展を目指す事こそが国益につながると考えた

当時、イバン族にとって日本軍は侵略者であり、殺し合いを繰り広げた敵

そんな状況の中でも木村は、

危険を顧みず何度もイバン族の下へ足を運んだという

木村はイバン族に信用してもらうため

ジャングルに水道や電気を通し、インフラを整備

さらに木村は国王に掛け合い、

ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴え続けた

こうして木村は70年以上経った今でもイバン族から尊敬される存在になった

 

ブルネイに発展に大きく貢献した木村は、県知事に就任してから

わずか1年で転勤が決まりブルネイを離れることになった

 

そしてその別れの場では、現地の官僚は人目をはばからず男泣きしたという

さらに苦楽を共にし、一緒に働いてきたブルネイ人秘書も泣きながら、

「あなたから学んだようにこの国を立派な国へと成長させます」と誓った 1964年、木村は地元の宮城県に戻り検事の職に就いていた

ある日のこと、東南アジアを飛び回る商社マンが木村の下に

「ブルネイ県知事をつとめていらっしゃった…木村さんですか?」

「はい」「ブルネイの国王があなたを探しています」

 

木村は22年ぶりにブルネイに渡り、新しい国王の下へ向かった

その新国王こそ、22年前、あの秘書をしていたブルネイ人青年だった

ブルネイ県知事に就任した当時、国王は木村の秘書に自分の弟を推薦

現在の国王の父親にあたる

「私はあなたから多くのことを学びました。そのおかげで日本にはまだ及びませんが、ブルネイも発展しつつあります」

「木村さんブルネイで働いて頂けませんか?」

「もう一度ブルネイの為に力を貸して頂けませんか?」

対し木村は「私もずいぶん年を取りました。ですからこれからは遠くからブルネイ国の発展を見守っています」

「分かりました。またお会いできるといいですね」

 

今も多くのブルネイ人は親日家であるという

 

「彼らの独立につながる手助けをできれば…きっと今後彼らも我々を助けてくれるだろう」木村の言葉通り、日本とブルネイの関係は良好、約9割ものの天然ガスが日本へ輸出されている

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