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●トンガの若者の夢をかなえた日本人:又平直子

1958年、静岡で生まれる

明るく活発で誰からも好かれる性格だった

高校の時にアメリカに留学

大学卒業後は得意の英語を活かして通訳や翻訳の仕事をしていた

1990年、旅行で初めてトンガを訪れる

32歳の直子は運命的な出会いをはたす

旅行中、町の美容室に立ち寄った

髪を洗ってもらおうとしたその時、男性:タシ・アフェアが現れる

トンガ人としては細身ながら相撲を習う親日家でもあった

こんな美しい女性 もう二度と逢えないかもしれない、と

一目惚れしたタシは直子に猛烈にアタック

タシの想いが届き、2人は交際を始めた

 

帰国した直子はタシと2年間の遠距離恋愛を経て、1992年に結婚

結婚を機にタシが来日、

東京の練馬区にあった小さなアパートで新婚生活を始める

そして直子の英語力とタシの人脈を生かし、

日本から南太平洋諸国への旅行をサポートする会社を設立

しかし日本人にとって馴染みのない国々…中々仕事は入ってこなかった

そんな中、直子は英会話講師のバイトをしてお金を稼ぎ、

タシは築地の魚河岸で働いた

 

お酒が好きなタシは毎日飲んで帰ってきた

生活が豊かでないにもかかわらずタシは仲間たちによくおごってしまい、

その事でケンカが絶えなかった

そんなケンカを重ねつつも、何とか旅行会社が軌道にのりかけた頃…

 

1995年1月17日、阪神淡路大震災

惨状をテレビで見ていたタシは「神戸に行ってくる」

「今から?仕事はどうするの?」

「直子、今はそんな事を言ってる場合じゃないだろ」

タシは全ての仕事を直子に任せ、神戸に旅立った

何の当てもなく神戸に行ったタシは懸命に被災者のために働いた

 

翌年、帰ってきたタシは、末期の肺ガンが判明

すでに手の施しようがない状態、余命2ヶ月宣告された

タシの希望もあり2人はトンガに戻る事に…

トンガの病床で献身的に看病する直子

そして最後が迫ったある日…

「トンガには体型に恵まれた人が多いだろ。俺は彼らを日本のスポーツで活躍させてあげたかった」

それからしばらくしてタシは息を引き取った

 

異国の地トンガで夫に先立たれて1人になった直子

夫は誰よりも日本を愛してくれた。今度は私がトンガの人達の為に頑張ろう。夫の意志は私が継ぐ。トンガ人が日本のスポーツで活躍する環境をつくりたい

亡き夫の夢を叶えるため、自分がトンガの人たちの為に頑張る事を決意

しかし日本の大学に電話しても

未知なる国の選手を簡単に受け入れてくれるはずはない

何度断られようが諦めることなく電話をかけ続ける日々

 

さらにラグビーボールやスパイクなどの道具を買い揃え、

トンガのチームに寄付をしていた

そうした活動資金を工面するため借金してトンガにゲストハウスを建てた

その名前はネリマロッジ

そのロッジで直子は働きながら、

才能があっても貧しい選手たちを自宅に引き取り面倒も見ていた

 

こうして直子はできる限りの力でトンガのスポーツを支えた

そして直子が日本の大学に交渉を初めてから5年後…

トンガ人のラグビー選手を受け入れてくることに

 

2001年4月、直子の仲介により日本大学にトンガ人のラグビー選手が入学

ネリマロッジで面倒を見たタウファ選手は、日本で活躍し、日本人へと帰化、

今ではラグビー日本代表に選ばれるまでに

さらに直子は2人のトンガ人力士を日本の相撲部屋に入れた

亡き夫の夢を叶えた矢先、直子に末期の肺ガンが発覚

2010年6月、直子はトンガで静かに息を引き取った

彼女の墓には今なお感謝の想いを込めて多くの花が手向けられている

直子の想いを継ぐ選手たちが次のトンガ人選手を呼ぶようになり、

今では日本ラグビー界で70人以上のトンガ人が活躍するほどに

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●リヤカーを引いて行商をする倉子お婆ちゃん

 

佐藤倉子さん 84歳

住んでいるのは山形県鶴岡市由良

 

小さな港町で総重量70キロのリヤカーを引き、魚を売り歩く行商人をしている

この町は高齢者が多く、買い物に行けない人が多いため

倉子さんが一軒一軒訪問して販売している

 

そんな倉子さんがこの年まで働くもう一つの理由が…ある

今から61年前、漁師の常雄さんと結婚

4人の子供を育てるため倉子さんも地元で行商を始めた

 

そして34歳の時、夫と2人で鮮魚店をオープン

苗字の佐藤の佐と倉子さんの倉をとった佐倉商店

夫婦2人で懸命に働いた

倉子さんが58歳の時には、店を増築し長男が寿司店を開店

家族で支え合い幸せな生活を送っていた

 

しかし2001年の秋、夫:常雄さんが心筋梗塞で突然倒れ、74歳で他界

さらにその2年後、長男も食道がんを患い、この世を去った

わずか2年間で夫と長男を失った倉子さん

そんな倉子さんに遺されたのは、

長男が寿司店開店のために作った借金1100万円

借金の保証人は倉子さんだった

この時、72歳…年齢を考えるなら店をたたみ自己破産という方法もあったが、

佐倉商店を開店した時、夫:常雄さんから言われた言葉を思い出した

「これは2人の店だ。店の名前は佐倉商店にしよう」

夫が自分の為に遺してくれた店を守りたい

借金1100万円を働いて返済する事を決意した

返済は月々12万円

朝は4時に起き、市場へ。セリも倉子子さんがこなす

毎日70キロのリヤカーを引き、5㎞の道のりを歩く

帰宅すると次の日に売るための魚をさばき、気付けば夜中に

睡眠時間はわずか3時間程度

足は腫れあがり歩くのもの辛い

それでも…「今でも(夫に)恋をしてるんです」

亡き夫と長男の為に雨の日も雪の日もリヤカーを引き、必死で働いた

月々12万円を返し続け、1100万円の借金を1人で見事完済した

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ありえへん∞世界で紹介

●キルギスの子供たちを救った日本人医師:中島利博

東京医科大学の教授を務め、難病に関する遺伝子を研究していた中島利博

2005年のある日、友人から思わぬ相談を受ける

「キルギスで原因不明の病気が流行して多くの子供たちが苦しんでいるらしい。一度様子を見に行ってくれないか?」

その真相を究明するためキルギスへ渡った

友人の個人的な依頼だったため、渡航費などの費用は全て自己負担

キルギスの病院には、謎の病気に冒された子供たち

良く見るとその手は痙攣していた

子供たちを苦しめる病気の正体を探るため、

キルギス全土を駆け巡り、50カ所以上の病院を調査

病気の正体はリウマチ熱だった

風邪の一種で治療が不十分だと脳や心臓に合併症を起こし、

死に至る可能性もある病

しかし正しく薬を処方すれば簡単に治す事が出来るため、

先進国では何十年も前に根絶された

 

キルギスでリウマチ熱が横行した原因は、極端な意思不足

1991年に起こったソ連の崩壊により、独立直後のキルギスは政治が混乱し経済が破綻

医師の月給が1200円に急下落

そのため多くの医師がは海外へ移住

リウマチ熱の治療のできる経験豊富な医師が残っていなかった

中島医師は、キルギスの若き医師たち10人以上を自費で日本に招き、

高度な医療技術を学ぶ機会を与えた

こうして現在はキルギスの医師がリウマチ熱を治療できるようになり、

数多くの幼い命が救われた

さらに中島医師は日本で募金を集め、リウマチ熱を15分で診察できる検査キットを大量に寄付

8年間に渡り、キルギスで幼い命を救い続けた中島医師は、

その功績からキルギス共和国の国家顧問に任命された

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1987年、当時のドイツはベルリンの壁で分断されていた

 

●ベルリンの空に花火を打ち上げた花火師:佐藤勲

 

そんな折、西ベルリンで行われたベルリン市制750年祭典で

7000発の花火が夜空を彩った

 

この花火は日本の花火師:佐藤勲さん等が打ち上げた

 

記者会見で佐藤さんは、

ベルリンの地上には壁はありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西のお方も東のお方も楽しんでください、と語った

 

この言葉は翌日“空に壁はない”と西ドイツの新聞の一面を飾った

 

その2年後、1989年にベルリンの壁は崩壊した

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ニッポン無名偉人伝で紹介

中国 内モンゴル自治区のゴビ砂漠

広さは130万㎢、日本の国土3.5倍にも及ぶ

中国の砂漠緑化は不可能と言われた時代

砂漠に埋もれつつあった貧しい村:恩格貝(オンカクバイ)

オンカクバイとはモンゴル語で平和と幸福を意味する

●砂漠に300万本のポプラを植林した日本人:遠山正瑛

1年間に中国では東京都と同じ面積が砂に飲み込まれている

風に吹かれた砂が移動し、砂漠に変えてしまう飛砂

食い止めるには木が生い茂る森を作らなければならない

 

1906年(明治39年)、山梨県富士吉田市の大正寺で生まれた

京都大学で園芸を学び、後に鳥取大学の教授となった

心血を注いだのは砂丘での野菜栽培

鳥取の特産になった砂丘長芋は遠山の功績によるもの

 

遠山が初めて中国に来たのは30歳の時、

国費留学生として砂漠の研究にやって来た

しかし1937年(昭和12年)日中戦争が始まり、遠山はスパイ容疑で逮捕される

遠山は命からがら日本に帰国した

 

遠山が恩格貝に来たのは鳥取大学教授を退官後、73歳の時

当初、遠山はポプラではなくクズを植えてきた

クズは水が少なくても良く育ち、地下1.5mほどまで根を張る

クズの種は全国の小学生が砂漠緑化のために送ってくれたもの

植えた数は2日かけて3000本…順調に思われた

翌日、クズは ほとんど放牧のヤギに食い散らかされてしまった

「木を見ていても飯は食えない」と地元住民は言った

遠山は黄河に身を浸しながらヤギの対策を考え、クズからポプラに変更

 

砂漠は厳しかった…

夏は気温50度、冬は-20度、日中照りつけられた砂は70度を超える

最初の2年で20万本を植林したが、半分は枯れた

「やればできる やらなきゃできない」

遠山は吸水性の高い日本の紙おむつの素材を水に溶かし、

根元につけて乾燥を防いだ

今でこそ井戸の水をホースで水を撒いているが、当時はバケツリレー

ポプラは植えてから2週間おきに、水を撒かなければならない

遠山は10年の歳月を要し、300万本のポプラを植えた

 

1996年、時の中国 国家主席:江沢民が遠山を訪ね、

友好の固い握手を交わし、中国政府は遠山の貢献を高く評価した

この時も遠山は作業着を着たまま、「これが私の制服です」と言った

1999年、遠山が93歳の時に銅像が建てられた

中国で生前に銅像が建てられてのは、毛沢東と遠山だけ

2003年、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞

そして2004年2月、遠山正瑛 永眠

「緑なくしては人間生活できない。知恵のある人 知恵を出す。物のある人 物を出す。金ある人 金を出す。命出す人 命出す。4つが組んで頑張れば世界の砂漠は緑化する。これが私の信念」と生前語っている

 

今も遠山が立ち上げた沙漠緑化実践協会は植林を続けている

植林したポプラは450万本

沙漠緑化実践協会 恩格貝事務所長:間瀬弘樹は、

日本からのボランティアの受入や指導などを行っている

砂漠の森は、飛砂を防ぎ農地が生まれ、貧しかった恩格貝は豊かになった

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