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●自らの命と引き換えに多くの人を救い慕われる日本人医師:肥沼信次

1908年、東京 八王子で誕生した

外科医だった父:梅三郎の影響を受け、日本医科大学に進学

アインシュタインを知り、ドイツへの強い憧れをもつように

ドイツ生まれのユダヤ人で相対性理論を生んだ天才物理学者

肥沼はアインシュタインの洋書を読み込む中で、

“誰かの為に生きてこそ人生には価値がある”という言葉に強い影響を受ける

日本医科大学を卒業した肥沼は、

現在の東京大学にあたる東京帝国大学医学部で放射線を研究

 

1937年、29歳で憧れのドイツに留学

当時のドイツは、ナチスが台頭し軍事力の強化にまい進

不穏な空気をよそにベルリン大学で放射線の研究に明け暮れる

 

1939年9月、第二次世界大戦勃発

肥沼のいたベルリン大学も戦火に見舞われる危険があった

大使館からの帰国勧告を無視してドイツにとどまった

肥沼は放射線に関する論文を数々執筆し、教授候補になるまでに

終戦間近、ベルリンが攻撃を受け始めると肥沼は、

北部の都市、エーデスバルデに疎開

疎開先の自宅で診療所を開き、地元の人々を診ていた

 

1945年5月9日、ドイツ降伏

終戦から数日が経ったある日、

ソ連軍地区司令部のシュバリング司令官が訪ねてきた

「ヴリーツェンの伝染病医療センターに責任者として来てもらえませんか?」

当時、ヴリーツェンでは、発疹チフスが猛威をふるっていた

ペスト、マラリアと共に歴史上 多くの命を奪ってきた伝染病

ヴリーツェンは難民や捕虜の収容所がまわりに多くあり、

衛生状態が悪くチフスが大流行していた

さらにドイツ人の医者は兵隊にとられ医者が不足している状況

近くの待ちにいた肥沼に白羽の矢が立った

伝染病は専門外だったが、アインシュタインの言葉を思い起こし、

「分かりました。引き受けましょう」と快諾した

 

1945年9月、ヴリーツェンに向かった

伝染病医療センターのスタッフは数人の看護師だけ

他の医師たちは劣悪な環境に逃げていった

「安心して下さい。僕は患者を見捨てて逃げることは絶対にしません」

伝染病医療センターには、次々とチフス患者が運ばれてくる

そんな中、来る者を拒まず、肥沼は1人ですべての患者を診ていった

「先生、もうベッドがいっぱいです。これ以上入院患者を受け入れられません」

「大丈夫、床に藁と毛布を敷いて回復に向かっている患者はそちらの移動してもらって、できるだけ患者さんを受け入れましょう」

「看護師の数も限られているんです!これ以上患者が増えたら衛生状態を保てません」

「お願いします!目の前の命を救うためにあなたたちも頑張ってください」

センターでの治療が終わり、夜になると

病院まで来られない患者の下へ毎日往診に出かけた

スタッフが一丸となって治療にあたる中、薬が不足する事態に

センターにあった薬が底をついた

元々、街にあった3軒の薬局は戦争ですべて破壊され、

薬の入手は不可能な状況

肥沼は週1日の休みを利用して自ら薬の買い付けに奔走

時には大荷物を抱えたまま、徒歩で何十キロも離れた街を周った

 

1946年3月6日、肥沼はチフスの感染

体を酷使し続けてきた肥沼に体力はほとんど残っていなかった

薬を与えようとすると「この薬は他の患者さんに使ってくれ」と拒否

肥沼は最後まで薬を口にすることはなかった

1946年3月8日、肥沼信次 逝去 享年37

この事実は、東西冷戦により半世紀 表に出ることはなかった

 

肥沼の死から43年後、1989年、ベルリンの壁が崩壊

街の人々の後押しで市長や教授が動き、

その1か月後、肥沼の遺族を探す記事が朝日新聞に掲載

その記事を肥沼の弟が見たときにより

日本とドイツ それぞれで肥沼の情報が明らかになった

ドイツでは教科書にも掲載されている

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1992年、神奈川県伊勢原市

山崎政明と敏子の間に直也くんが生まれた

5歳になった腕白少年:直也くんが突然 病魔に襲われてしまう

体に異変が現れたのは、ある朝のこと

「赤いおしっこが出た」

しばらくしてから一緒にトイレに行ってみると

赤い血が混じっているというより血そのものが出ているようだった

「どっか痛いとこない?」「息をすると胸が痛くなる」

あわてて病院へ行き、精密検査を受けた

「胸に腫瘍らしき影が見えます」

医師の説明では良性の可能性が高い

「腫瘍は大きいようなので取ってしまった方がいいでしょう」

 

手術後の病理検査で、恐ろしいことが判明する

「肺にあった影は悪性の腫瘍:ユーイング肉腫でした」

肋骨に腫瘍がへばりついき肺を圧迫していた

「今回の手術で肋骨を3本 切除しました。これからは放射線と抗がん剤で再発を防いでいきます」

幸い腫瘍は全て取り除き、転移は見られないが、再発の可能性も十分にある

集中治療室から大部屋に移動、元気にはしゃぎまわれるほどに回復した

 

再発を防ぐため、直也くんは、強い抗がん剤に耐えた

病院から出られず抗がん剤の副作用に苦しむ日々

治療を始めて一週間で髪の毛は無くなった

治療の結果、定期検査を受ける条件付きで、退院が認められた

そしてみんなより半年遅れで学校に通えるようになった

しかし定期検査で…右胸に1.5㎝の腫瘍が発見された

すぐに手術で腫瘍を摘出した

そしてまた辛い抗がん剤治療が始まった

愛する我が子が苦しんでいるとつい…

「もうやめようか?何もしないでお家に帰ろう」そう言ってしまう

しかし「ここにいる。頑張る」直也は弱音を吐かなかった

 

その後も直也は再発と手術を繰り返した

どんなに辛い治療でも直也は拒否しない

体重は常に10㎏台、慢性的な貧血で顔は浅黒かった

「ナオは偉いね。何でそんなに頑張れるの」

「僕はね。体はこんなだけど心は強いんだ」

「お母さん 代われるものなら代わってあげたい」

「ダメだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。お母さんじゃ耐えられないよ」

 

直也には夢があった

闘病のため無理だった海で思いっ切り泳ぐこと

ボランティア団体:メイク・ア・ウィッシュに応募すると

ハワイ旅行がプレゼントされた

直也くんは、思いっきり遊んだ

ハワイから帰国後、まもなく腰に激痛が走った

「骨髄に転移していました」

血液を造る骨髄に転移したとなるとがん細胞が体中に運ばれる

手術で切除する事もできず今まで使っていた抗がん剤も使えない

手の施しようがなかった…

 

直也に何と説明すればいいか?何日も答えが出ぬまま、

2人は本当のことを話すことにした

「ナオちゃんは今 胸が痛いとか腰が痛いとか言ってるでしょ。骨髄にも病気が出来ちゃって」

「うそばっかり、ちゃんと先生に聞いたの?」

闘病生活が長い直也には隠し通せない

「お母さん何 言ってるの?ナオは負けるわけないじゃん。病気に勝つに決まってるじゃん」

直也は前向きに辛い治療を望んだ

日々痛みは激しくなり直也は早く手術をしてほしいとせがんだ

しかし手術は出来ず、モルヒネを投与して痛みを抑えるだけ

「すごく頑張ってきたから別に手術しなくてもいいよって先生言っていたよ」

「お母さん 手術しないってことは死んじゃうってことでしょ?やってみなくちゃ分からないじゃん。最初から諦めちゃダメっていつも言ってるじゃん」

「そうだね。ごめんね。お母さんもうあきらめない」

 

器官は炎症を起こし気道を圧迫、呼吸も難しくなった

ナオは死が近いことを悟ったのか

「お母さん、ナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。頑張れば幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど最後は必ず大丈夫」

直也は余命宣告を受けたから2週間も生き続けた

そして2001年7月3日、壮絶に病と闘った直也くん 永眠

 

病魔と闘い抜いた4年間、少年の小さな体のどこにそんな力があったのか?

それは看護師から聞かされた

「直也くんはお母さんのために頑張ったんです」

治療の途中でこんなことを言っていた

「あのねナオは 今 死ねないんだよ。お母さんの心の準備が出来てないから。今はまだ死ねないんだよ」

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