シングルマザーの諸見里さやかさんの次男:玲君は4歳で天国に旅立った
さやかさんのことを「さや」と名前で呼ぶ明るい男の子だった
 
2歳になった玲君は、小児がんで右腎臓摘出手術を行い、
完治を目指し、抗がん剤治療を開始した
薬の副作用で髪の毛は抜け、嘔吐、発熱などの辛い症状が続いた
それでも玲君は前向きに「元気になる」
と抗がん剤も放射線も嫌がらなかった
玲君に病と闘う勇気をくれたのが、アニメのヒーローだった
強いヒーローに憧れていた玲君は、この頃から
「ヒーローは強い。さやのことも玲が守るからね」と言うように
さやかさんに何かあると「大丈夫?玲がいるよ」と声をかけてくれる
治ることを信じ、辛い治療にも耐えた……しかし、腫瘍が肺にも転移
さらに診断で治療法がない悪性腎ラブドイド腫瘍と告げられた
 
通常の5~10倍の抗がん剤をを使う大量化学療法に切り替えた
様々な合併症を引き起こす可能性のある過酷な治療法
副作用で神経が過敏に、ドアを開ける音や太陽の光さえ嫌がり、
さらに喉の粘膜がただれつばを飲み込むだけで激痛が走る
そんな時ですら さやかさんを心配させまいと
「大丈夫。玲は男の子だから、玲は強いから、さやは大丈夫?」
「玲は さやを守るからね」とさやかさんを気遣う
 
過酷な治療を続けるが、腫瘍は無くならず余命3か月を告げたられる
落ち込んでいた さやかさんに
「大丈夫。お空に行っても玲が守るから」と玲君は言った
 
「玲君、大好きだよ」苦しそうな呼吸の中「玲も大好き…」
それが最期の言葉だった

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昭和2年(1927)日本初の本格インドカリーが新宿 中村屋で誕生した
それは、恋と革命の味
 
夫と共に中村屋を創業した相馬黒光は、
島崎藤村や国木田独歩とも親交があり文学界では有名だった
黒光は、英語やロシア語も話せたため
中村屋には外国人の客も多かった
芸術に造詣の深い相馬夫妻は、
若く才能のある芸術家を支援するため、
敷地にある洋館をアトリエとして無償で貸し出していた
 
大正4年(1915)インドは当時イギリスの植民地
インド人のラス・ビハリ・ボースは、
インドの独立運動を進める中心人物
警察に追われてインドを脱出、日本に密入国して亡命を求めていた
政界のフィクサー:頭山満の指示で、ボースを中村屋で匿うことに
匿われたのは、若い芸術家がアトリエとして使っていた部屋
ボースを匿って4か月後、
寄宿舎で暮らしていた娘の俊子が女学校を卒業して戻って来た
このとき、イギリス政府は、ボースを処刑するため
高い賞金をかけ私立探偵を雇って行方を追跡していた
麻布の隠れ家に身を隠したボースとの連絡係として俊子が務めた
大正7年(1918)ボースの逃亡生活が2年も続いた
7月9日、頭山の提案で俊子をボースに嫁がせることに
頭山家で密かに結婚式が行われた
結婚しても逃亡の身、追手が迫れば身を隠し関東各地を転々とした
ボースは逃亡生活を続けながらインドの独立運動を進めた
 
そんなボースの楽しみは、カリー
当時、日本のカレーはカレー粉にメリケン粉を混ぜたルウに
あり合わせの野菜を煮込んだ食べ物
香辛料は、ほとんど入っていなかった
インド人が食べているカリーは、
炒めた玉ねぎを形が無くなるまで煮込み、
たくさんの香辛料と肉や野菜を入れた料理だった
 
大正7年11月、第一次世界大戦が終結
ヨーロッパは疲弊し、イギリスも国力を失った
戦争景気で国力を増した日本は、
イギリスとの同盟を破棄する方向に向かう
イギリスに雇われた探偵も姿が見られなくなった
自由の身となったボースと俊子は、2人の子供を授かった
大正12年(1923)ボースは日本に帰化
大正14年(1925)俊子が重い肺炎を患い、26歳で亡くなった
その2年後、中村屋が喫茶部を作ると聞いて、ボースが訪ねて来た
「ぜひインドカリーをメニューに入れてください。俊子と約束したんです」
昭和2年(1927)6月、中村屋喫茶部がオープン
その看板メニューとして純インド式カリーが誕生
当時カレーライスは10銭だったが、中村屋のインドカリーは80銭
ボースのこだわりで最高級の食材と香辛料を使ったためだった
俊子とボースの思いが詰まったインドカリーは大好評
いつしか恋と革命の味と呼ばれるようになった
 
ボースは俊子亡き後も日本に残り、2人の子供を立派に育て上げた
長男の正秀は、昭和20年 沖縄で戦死した
 
黒光に再婚しないのかと問われたボースは、
俊子との暮らしは幸せだった。
私はあの数年の間に人生の幸福を貰ったと思っている
 
昭和20年(1945) 58歳で亡くなるまで新しい妻を娶ることはなかった

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1977年、神戸で3人姉妹の次女として生まれる
地元の女子大を卒業後、母校の事務員に
28歳のとき、平凡な毎日を変え、私にしかできない仕事をしたいと子供やシングルマザーを助ける団体に連絡を取ってみた
10日間だけでもいいからすぐに現場に来てほしい、との返事
夏休みで特に予定もなかった陽子さんは、何の気もなしに申し出を受けた
現場は日本ではなくフィリピンだった
一度受けた以上断るわけにもいかず、陽子さんは貧しい子供と遊ぶという活動に参加
以来、大学で事務の仕事を続けながら、
まとまった休みが取れるとフィリピンに来て活動に参加するという生活
2年後、陽子さんが体調を崩し、手当してくれた日本人女性の冨田江里子さんと出会った
冨田さんは、フィリピンで助産院を立ち上げ、貧しい人を助けていた有名な人物
「フィリピンには、元気に生まれてきても貧しくて学校に行けない子供たちがたくさんいる。この子たちが学校に行けないことでさらに新しい貧困を生み出している。どこかで誰かがこの負の連鎖を断ち切らなければならない」と冨田さんから聞いた
これこそが自分がやるべきことでは、とはっきりとそう思った
陽子さんは、フィリピン移住を決意
2008年、30歳でフィリピンへ
支援者を募り、資金を集め、自らの貯金もつぎ込み、活動の拠点となる場所を造った
場所ができると学校に通っていない子供の親を説得して子供を集める日々
こうして学校に行けない子供を学校に戻れるように橋渡しする寺子屋のような施設「ウィッシュハウス(希望の家)を開設
そんなある日、施設にガリガリに瘦せ細った1歳9カ月の女の子ユニスちゃんがやって来た
両親が育児放棄し、親戚すらも押し付け合い、誰も面倒を見ようとしない
あらゆる施設をたらいまわしにされ、最期に連れてこられたのが、陽子さんの施設だった
命の危険を感じた陽子さんは、何とかしなけらばと特別にユニスちゃんの世話を引き受けた
医師と相談しながら必死の看病を続けた
ユニスちゃんは次第に健康を取り戻し、体重も少しずつ増えていった
一度が育児放棄した親も改心し、半年間施設に通い育児の訓練を受けた
両親から何とか引き取らせてほしいと懇願されたので、ユニスちゃんを親元に返した
しばらくして、実の母親が与えたミルクを吐き戻し、肺に詰まらせた
しかし治療費がなく病院に行くのが遅れ、ユニスちゃんは意識不明の重体に
陽子さんが病院に駆け付けた時には、もう手遅れの状態だった
一度は救った命、救えたはずの命…2年6か月の命だった
陽子さんはあまりのショックの大きさに施設を閉鎖しようか…そうまで考えていた
その2か月後、またガリガリに痩せ細った少女が連れられてきた
8歳なのに、体重はわずか10㎏、同じ年の子の半分しかない
生まれて間もなく母を亡くし、その1年後に父を亡くし、その後、育ててくれた祖母までも亡くした少女
幼いときから慢性的な栄養失調で、親戚も引き取るのを嫌がった
私がこの子を守らなければ、陽子さんは引き取り、看病を続けた
陽子さんは、今、無事 回復した少女:プリちゃんと一緒に暮らしている

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2009年12月23日、アメリカ コロラド州
その日、父:マイク、母:トレイシー、11歳の長男、
3歳の次男は、クリスマスの準備をしていた
このときトレイシーは、妊娠9か月
12月24日の明け方、トレイシーは、急な陣痛に襲われ、自宅で破水
マイクの運転でかかりつけの病院に向かった
予定日よりも2週間も早い出産、
後は産まれてくるのを待つだけのはずだった
分娩室に入ってから6時間経っても産まれてくる兆候はなかった
今回の陣痛は、トレイシーにとって
過去に味わったことがないほど激しい痛むものだった
 
アメリカでは出産の際、薬を用いた無痛分娩を行うことが多く、
医師は、下半身麻酔を打つことを判断
麻酔を打ったトレイシーは、楽になり安心したのか、眠り始めた
 
12時37分、マイクがトレイシーの異変に気付く
トレイシーの手は氷のように冷たく、
顔は血の気が引いたように真っ青になっていた
トレイシーの心肺機能は、突然 急激に低下
緊急治療が始まり、マイクは室内の外に連れ出された
 
心臓マッサージを続けるが、心肺停止
電気ショックを行っても反応は無い
12時42分、医師は蘇生の見込みは無いと判断
帝王切開で子供を取り出す緊急手術に移行
トレイシーは死亡と判断されていたため、麻酔をされずに腹を裂かれた
12時46分、迅速なオペにより子供が取り出された
トレイシーの死から6分後
取り出された赤ん坊は、ぐったり 呼吸もせず、心臓も動いていなかった
駆け付けた小児科チームの専門医が、懸命に蘇生を試みたが、
赤ん坊が産声を上げることは無かった
 
「できる限りの手は尽くしましたが…申し訳ありません。最後にお父さんの手で抱いて
あげてください」
マイクは赤ん坊を抱きしめて泣き叫んだ
 
赤ん坊の指がピクリと動く
たった今 死産と判断された赤ん坊が、
父に抱かれたことによって心臓が動き、
呼吸をはじめ、大きな声で泣き始めた
 
すると、すでに心肺停止から10分以上経ち、
完全に死んでいたはずのトレイシーまでもが、突然息を吹き返した
そして1時間30分後には、意識を取り戻した
その後、会話ができるまでに回復
トレイシーは、赤ん坊を抱くことができた

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ゴルゴ松本の漢字を使った魂の授業
 
●「感謝」と「謝罪」
反対の言葉に使われる「謝」
「謝」とは、「言葉」で「射る」
悪い事したら「ごめんなさい」
何かしてもらったら「ありがとう」
相手に矢を射るようにはっきりと届けなさいという意味がある
「ありがとう」「ごめんなさい」は心で思っているだけではダメ
言葉として伝えなさい
 
●「寿命」と「一生懸命」
人が死んだら悲しいのに「寿」という字を使うのか?
命名→運命→宿命→使命→天命→寿命
人の一生は「命」で始まって「命」で終わる
「寿」には、長生きという意味がある
この世には、事故や病気で
天寿を全うできない短い「命」もある
「短命」です
自分の「一生」に「命」を「懸ける」「一生懸命」
親から貰った大切な命を懸けてはいけない
「懸ける」とは、「命」に「心」を「縣ける」
「心」を外した「縣ける」には、「つなぐ」という意味がある
自分の「命」に「心」をつなげる、そう命懸けより心がけ
「一生懸命」とは、「命を懸ける」ではなく、
その命に対して自分の心を注いでいくということなんです
 
●「会う」は「伝える」こと
「会う」は「人」に「云う」と書きます
「会う」は「伝える」こと
大切なものを伝えるときは、直接 会わなければいけない
 
●「好き」→女の人は、子供が好きなんです
赤ちゃんを産みます。育てます。
好きなものを考えると、みんな笑顔になり幸せになれる
好きは奇跡を起こす心、「好奇心」
好きが続かないと、心が幸せでないと、奇跡は起きない
もし好きなことができたら とことん追求した方が良い
 
●「咲く」花が咲いている姿は、人間の笑顔
花が咲くことを昔、花が笑うと言っていた
笑う門には福来る
笑顔でいると自然と福が来るということわざ
辛いと思っても、笑顔だったら、その笑顔に幸せは寄って来る
 
●「更に生きる」と書いて「更生」
「更生」を一つにすると「甦る」
自分を蘇らせるために、今 います
 
●苦難、困難、が無い人生は
「無難」 だけど、難が有る人生は「有難い」
「苦難」「困難」「災難」など「難」は良いイメージが少ない漢字
出来れば「難」は無くなって欲しいと思うもの
苦難、困難、が無い人生は「無難」…つまり退屈な人生
したがって「難」は有った方が良い
難が有る人生は「有難い」のです
 
●弱音を「吐」かなければ夢が「叶」う
「弱音を吐く」と云うのは非常にネガティブなこと
口にプラスとマイナスで「吐く」
そのマイナスを取ると「叶う」と云う漢字になる
弱音を吐かなければ夢が叶う
マイナス思考を無くしてプラス思考になれば願いは叶うのです
 
●すべての始まりは「女」
女に台をつけると「始まる」
だから、女を粗末にしたらいけない

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