世界一受けたい授業で紹介

●脳腫瘍に侵されながらバスケの試合に出場したローレン・ヒルさん

 

アメリカ、オハイオ州に住むローレン・ヒルさん

2013年11月、頭部の手術不可能な場所に脳腫瘍が見つかった

医師からは、2012年12月までしか生きられない、と宣告

 

しかし彼女にはどうしても叶えたい夢があった

それは11月に開幕する全米大学バスケットボール公式戦に出場する事

化学療法で顔はむくみ、吐き気や頭痛が襲う

まともにドリブルすら出来ない…

それでも彼女はひたすら練習に打ち込んだ

 

 

そして2014年11月2日、公式戦初日、コートには彼女の姿が…

しかも見事ゴールまで決めた

 

重い病気になっても人生を諦めない彼女の勇気が

全米に感動をもたらし小児がんの飢饉に多額の寄付が集まった

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世界一受けたい授業で紹介

●ゴミから風力発電機を作ったウィリアム・カムクワンバ君

アフリカ南部の国:マラウイ共和国は、

2002年、7000人の死者を出す史上最悪の干ばつに見舞われた

当時、14歳だったウィリアム・カムクワンバ君は、

ゴミ捨て場から拾い集めた自転車などを使い、

風力発電機を作り、村の人々に勇気と希望を与えた

 

マラウイの電気の普及率は約2%

干ばつで失意のどん底にあった村人たちの役に立ちたい、

そう考えたウイリアム君は、たまたま本で見かけた風力発電機を

捨てられていた自転車などを使って見よう見まねで組み立てた

その試みは見事 成功、村人に光と笑顔をもたらせた

 

現在は5つの風力発電機が稼働しており、

将来的には電力で地下水を汲み上げ、

干ばつの中でも水を確保する給水設備を作る事を目指している

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世界一受けたい授業で紹介

 

12歳で国際支援活動:フリー・ザ・チルドレンを設立

世界で100万人以上の命を救ったクレイグ・キールバーガー

 

12歳で立ち上げて右も左もわからない頃、マザー・テレサと出会った

「私達は偉大な事は出来ません。しかし小さなことを偉大な愛情を持ってする事は出来るのです」

マザー・テレサから言われた、

この言葉を胸に20年間 地道に活動を続けてきた

 

●井戸と浄水施設を作り、世界100万人の命を救った

 

世界では8億6千万人もの人がキレイな水を飲むことができない

そして毎日、4千人の子供たちが

キレイな水を飲めない事で命を落としている

子供たちの病気の原因の約80%は、

不衛生な水や下水システムにある

 

さらに井戸がなければ毎日 遠く離れた川に水を汲みに

行かなければならないので、子供たちは学校に行けない

 

クレイグが運営するフリー・ザ・チルドレンは、

世界中に100カ所の以上の井戸や浄水施設を作った

また教育を受けられない子供たちの為に650の学校を建て、

約5万5千人が毎日 通学している

 

●発足のキッカケは、12歳で暗殺されたイクバル君

パキスタン人のイクバル・マシー君

学校にも行けず児童労働を強いられている

子供の支援を世界に訴えたことで12歳で暗殺された

当時、同い年で亡くなった彼をニュースで知り、

社会の為に立ち上がろうと決意した

マララを支援するのも、彼女の行動がイクバル君と重なるから

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ありえへん∞世界で紹介された伝説の消防士

1982年2月8日 午前3時過ぎ

ホテルニュージャパンの9階から出火、

異常な速さで延焼し、9時間に渡って燃え続けた

出動した消防車などの緊急車両は128台、600人以上の消防士が出動

33人の尊い命が犠牲となった

防災管理がずさんだったため、

社長:横井氏に懲役3年の実刑が下った大惨事

 

そんな甚大な被害の裏側で逃げ遅れた66名を奇跡的に救出していた

人命救助を専門に行う特別救助隊 隊長:高野甲子雄

●ホテルニュージャパン火災で奇跡の救出劇を成し遂げた伝説の消防士

1948年、山梨県甲府市で13人兄弟の末っ子として生まれる

高校卒業後、働いていた町工場の近くで火事が発生

消防士の活躍を目の当たりにし憧れるように…

20歳で消防士になった高野は、東京の消防署で様々な現場を経験

特別救助隊への入隊が目標となった

しかし身長165㎝と体格に恵まれなかった高野は、

1年に1度の試験に3年連続で落ちる事に

それでも努力を続けた結果、4度目の試験で合格

29歳で入隊した高野は麹町消防署の永田町出張所に配備

すぐにチームの隊長を任され5人の部下を持つように

常に自ら先頭に立って行動し、部下を鼓舞し続けた

 

1982年2月8日、この日 高野たちは日中のトレーニングを終え、

有事に備え、宿直室で仮眠をとっていた

そして午前3時39分、火災発生の通報

場所は千代田区2丁目 ホテルニュージャパン

 

この2か月前、高野は日常的に行っている地域の定期点検で

ホテルニュージャパンを訪れていた

経費削減の為、加湿器が止められており、空気が異常に乾燥

さらに天井にはスプリンクラーが1つも設置されていなかった

廊下や客室、屋上に至るまで細部に渡り見て回った

その後、東京消防庁はホテルに警告を出す

しかし火災の後に発覚したのは、社長の横井が、

配管のない飾りのスプリンクラーを付け、誤魔化していたという事実

 

大変な事態を覚悟した高野たちはすぐに出動した

午前3時44分(通報から5分後)現場に到着

東京消防庁は空前の指令:第4出場に踏み切る

それは東京23区全域の消防車を動員する最大規模の指令

消防車を含め128台の緊急車両がホテルニュージャパンに集結

そんな中、高野たちは「俺達は一番危険な場所へ行くぞ」

火元に近く最も火の勢いが強い9階、10階を目指した

まず向かったのは警備室「非常階段の場所を教えてください!」

「今 社長と電話中なんです」

こんな状況にも関わらず、

その指示は「フロントの高級家具を非難させろ」だった

「人の命がかかっているんです!今すぐ非常階段の場所を教えてください!」

教えられた非常階段に駆けつけると、そこはすでに煙が充満

マスクを装着し、9階に駆け上がる

9階の非常階段のドアが熱で膨張し開かない

高野が下した決断は屋上に上がる事だった

午前3時49分、通報からわずか10分で屋上にやって来た

高野たちは窓から助けを求めている人たちにロープを渡し、引き上げ始めた

パニック状態になっている宿泊客に的確な指示を出し、ロープで引き上げる

こうして屋上から次々と逃げ遅れた人々を救出していった

落ち着きを取り戻した1人の客が、まだ部屋に取り残されていることを口にした

「あの部屋です。助けてください」

そこはまだ燃えてはいないものの隣まで火が迫っている部屋

高野は、フラッシュオーバーが脳裏によぎった

それは炎が1つの部屋から隣の部屋へ燃え移る時に突然起きる爆発的な火柱

一度起きれば部屋の温度は1000℃にも達し、防火服を着ていようが命を落としてしまう

フラッシュオーバーが起きるまで数分しか猶予はない

高野はチームで最も俊敏な浅見に突入命令を下した

浅見は、酸素ボンベを背負いマスクを付け、救出に向かった

祈るような気持ちで浅見を待つ隊員たち

その時、聞こえてきたベルの音は浅見の背負っていたボンベが切れる合図

慌てて命綱を引き上げる

何とか戻ってきた浅見「隊長!俺をもう一度行かせてください!」

高野は一瞬悩んだ

いつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない

助けに行けば誰かが命を落とす可能性が高い

「俺が行く」隊長自ら突入するのはマニュアル違反

「行ってくる。援護を頼む」

部屋に到着すると、そこは異様な雰囲気だったという

逃げ遅れた宿泊客を探した

そして間もなくその男を発見、落ち着いて救助用のロープをかけていく

抱え上げようとしたその時、恐れていたフラッシュオーバーが起きてしまった

屋上の隊員たちは渾身の力を込め、命綱を引き上げる

すると炎の中から現れたのは、男を抱えて離さなかった高野だった

男は全身に大火傷を負い、高野も頭や顔などに大きな火傷を負った

熱で気管支をやられた高野は、救助を続けられる状態ではない

午前4時15分、通報から30分で高野は病院へ運ばれる事になった

 

残された隊員たいてゃ高野の姿に奮起、その後も必死に救助活動を続けた

600人以上の消防士が懸命に消火、救助を続け、7時間後…

午後0時36分にようやく鎮火した

その間、66人もの宿泊客の命を救った

午後1時、病室のベッドで消火の報せを受けた高野

そこへ活動を終えた隊員たちが駆け付けた

皆 真っ黒にススが付いた防火服のまま

高野の無事な姿を見て泣き出す隊員たち

「お前らこんな所いないで早く家族の元へ帰ってゆくり休め」

と高野は命令を下す

 

その後、高野は病室でフラッシュオーバーの最中、

助け出した客が亡くなった事を知る

 

高野はその後1000を超える現場で救助活動を行い多くの命を救い続けてきた

2007年、小金井消防署 所長に就任

どんな難しい状況であろうが、1人でも多くの命を救える消防士になりたい

純粋な想いをもった小柄な男は、いつしか伝説の消防士と言われるように

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ありえへん∞世界で紹介

●異色の日銀マンと呼ばれた日本銀行 神戸支店長:遠藤勝裕

1945年、疎開先の山形で生まれた

戦後、復興が進む東京で幼少期を過ごした

そして高校2年生の時、人生を左右する1冊の本と出会う

それは城山三郎の著書「小説 日本銀行」

若手日銀マンが戦後のインフレに苦しむ貧しい人々の為、

何ができるかを考え奮闘する物語

 

日銀に入って困っている人々を救いたい

その思いを胸に早稲田大学 政治経済学部へ入学

晴れて憧れの日銀へ入行

順調に出世していく遠藤だったが、初心を忘れる事はなかった

 

1991年、日銀青森支店長の時、

台風19号によってリンゴ農家が壊滅的な被害を受けた

すると遠藤は、日銀の業務を逸脱し、農家からリンゴを

大型トラック1台分買い取り、東京銀座で自ら袋詰めして無料で配布した

並んでいる人々に青森のリンゴをアピールして農家を励ました

1994年、日銀神戸支店長に就任

 

1995年1月17日、阪神・淡路大震災、激しい縦揺れが発生

遠藤の脳裏には,

ロサンゼルス地震で起きた生活物資を強奪し合う金融パニックが浮かんだ

皆にお金が渡るような環境を整え、金融パニックを絶対に防いでみせる、

そう決意した遠藤は、ある行動を起こした

支店に午前7時に到着、日銀の中は当然 大パニックだった

日銀の支店の金庫には緊急事態にも

他の銀行にお金が無くならないよう常に大量の現金が保管されていた

しかし日銀は無事でも建物自体が潰れてしまい、

物理的に業務を行えない銀行も多かった

遠藤は建物が潰れてしまった銀行の為に

日銀の中に、その銀行の臨時窓口を造った

手書きの張り紙の臨時窓口 14行

それは戦後 日銀初めての事だった

 

お金をおろそうにも家事や建物の倒壊で

通帳や印鑑を無くした人々が数多くいた

預金があり銀行が営業していてもお金をおろす事が

出来ない人々の為に、遠藤は金融特別措置を出した

遠藤が実際に手書きで書いたその1行目には、

“預金証書、通帳を紛失した場合でも預金者であることを確認して払い戻しに応じること”

何もない場合は、口頭での確認も信じて応じてくれと各銀行に訴えた

「もし嘘をつかれたらどうするんですか?」という質問に

「義援金だと思って渡してあげて下さい」

こうした遠藤の常識破りの行動により、

お金の面で大きな混乱が起こる事はなかった

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