東京で会社勤めをしていた八丸由紀子さん

動物と触れ合う仕事に就きたいと岩手県にある乗馬クラブに転職

そして初めて担当した馬がダイちゃんだった

そんな矢先、乗馬クラブが倒産

乗馬用の馬は買い手がついたが

馬車馬のダイちゃんだけは買い取り手がいなかった

由紀子さんは自分の新たな就職先を探すよりも

ダイちゃんの受け入れ先を探した

それでも買い手は見つからず、食肉用に売却する事に

 

何も考えずに由紀子さんはダイちゃんを買い取り引き取った

ダイちゃんの年間委託料は年間100万円ほど

貯金はダイちゃんを買い取った時に全て使い切った

仕事で稼ぐお金も全て馬の為に使う、ギリギリの生活が何年も続いた

このままではダイちゃんを手放し、殺処分するしかなくなる

 

馬車があればダイちゃんが必要とされるかもしれない

新たな仕事をするべく馬車を探すことに

そんな時 偶然 話を聞いた元同僚が中古の馬車を探してきてくれた

思い描いたのは、結婚式場へと送迎するウェディング馬車

いくつかの結婚式場に相談するも、全く相手にしてもらえず

そこでビジネスプランを発表できる岩手県主催の起業家セミナーに参加

その発表会には地元企業が招待される

本番前のリハーサルとして、

街中を馬車で移動するウェディング馬車をうまくプレゼンできるように

事前セミナーで聴衆の前で練習した

「何か質問はありますか?」

「街中を馬車が走る事を警察が許可しますか?」

「でも聞いてみないと…」

「聞かなくても分かります。私が警察官だから」

 

そして発表会、

ビジネスのプレゼンではなくダイちゃんへの想いをつづった熱意を語った

みな話に聞き入り、涙した

「皆様 何か質問はありますでしょうか?」

「ちょっとよろしいでしょうか」

あの警察官が立ち上がった

「交通安全のパレードがあるんですが、先導をダイちゃんにお願いしたい」

「えっ?」

「今度 警察署長をやることになりました。何かあったら私が責任を持ちます」

 

こうして人々に見守られダイちゃんの馬車が街中を走った

その後も警察の協力でダイちゃんの馬車は みんなに知られるように

念願のウェディング馬車の依頼も入るようになった

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2014年1月 最も美しい隣人という賞を

受賞した徐 文建(シュー ウェン ジエン)

「隣人とは ある意味 家族ではないでしょうか?彼女は若き日の私に対し家族のように接してくれました。今も私の心の中で生きています」

 

●最も美しい隣人

1979年、中国 四川省の農村地帯

農業の傍ら、養豚を営む家の一人息子として生まれた15歳のシュー

真面目で優秀な青年だったが、経済的な理由から学業を断念

中学を中退し、家の手伝いをしていた

「ごめんください!残飯ありますか?」

シューの家はあまりに貧しく家畜のエサすら買うお金すらなかった

そのため彼が毎日村を歩き回って家々に頭を下げ、残飯を集めていた

一生 残飯集めをするしかないのか…シューは思い悩んでいた

 

そんなある日のこと、ふとシューが立ち止ったのは、

ワンタン麺が美味しい一軒の食堂の前

彼にとっては年に一度食べられるかどうかのご馳走だった

一度でいいからワンタン麺をお腹いっぱい食べてみたい

お金を持っていないシューは、通りかかるたびに匂いを嗅ぐだけ

立ち去ろうとすると…王 子玉(ワン・ツーイー)に声をかけられた

「さぁワンタン麺を食べましょう。食べたかったんでしょ?」

「いやでも…お金が無いんです」「いいから いいから」

彼女に促されるまま、シューは店の席に

村で夫と息子の3人で暮らしている女性

「実は何度もあなたのことを見てたのよ。大変ねぇ」

残飯集めをしているシューを前から見ていたという

シューは、なぜ残飯集めをしているか?事情を話した

「さぁ食べて」「いただきます」

シューは無我夢中でワンタン麺をすすった

「気を付けて帰るのよ」「ありがとうございます」

この恩は一生忘れない…

 

それから数日後…リヤカーを引くワンさんを見かけた

その後を追いかけていくと辿り着いたのは、みすぼらしい家

中には病床に伏せるご主人らしい人も

「あら…どうしたの?こんなところで」

シューは言葉を失った

ワンタン麺をご馳走してくれたワンさんも貧しい生活を送っていたのだ

彼女の仕事は荷物運び、1日の稼ぎは2~4円程度

それはワンタン麺 一杯分の値段と同じくらいの額

「どうして僕にワンタン麺をご馳走してくれたんですか?」

「私も色んな人に助けてもらったのよ」

ワンさんの息子は生まれつき盲目で、周りの人が助けてくれた

「困っている時はお互い様。家族も他人も関係ないのよ」

僕も全ての人を家族のように思える人間になりたい、とシューは思った

 

その後、シューは手に職を付けるため大工修業を始めた

そして月日は流れ、シューは同じ村の女性と結婚

一人前の大工にはなったものの生活に余裕はなかった

すでに父は他界していたが、家には高齢の母が…

そして息子は食べ盛りの15歳

 

そんなある日のこと、ワンさんが車と接触、病院に運ばれた

その話を聞いたシューは急いで病院に向かった

幸い、ワンさんの意識はしっかりしていたが、

車に轢かれ足を骨折、全治3か月の重傷を負っていた

「私も注意が足りなかったし、誰も誰も悪くないんだよ」

どこまでも優しいワンさん

後日、再びシューが見舞いに行くと、ワンさんはいなかった

ワンさんの夫は19年前に他界、

実は事故に遭った年に最愛の息子も他界

ワンさんはシューに心配をかけまいと息子の死を隠し、

気丈に振る舞っていた

天涯孤独の身となった上、事故で歩けなくなったワンさんは、

数日前に施設に送られた

それは公営の為に入居にほとんどお金がかからない老人ホーム

シューは敬老院を訪ねた

「よくここが分かったね。嬉しいよ あなたが面会に来てくれて」

「実は 今日は面会に来たんじゃないんです」

シューはおんぶしてワンさんを連れ出した

「お昼ご飯まだですよね?一緒に食べましょう」

「ここは?」「僕の家です」「ご飯を…あなたの家で?」

「そうです。ウチで一緒に食べましょう」

「重かったでしょう?帰りは私一人で帰るから」

「その心配はしなくて大丈夫ですよ。これから一緒に暮らしましょう」

23年前、一杯のワンタン麺と共に希望をくれたワンさんへの恩返し、

それは彼女を家族として迎えいれる事だった。しかし…

「せっかくだけど遠慮するわ。あなたの家族に迷惑はかけられないモノ」

「困っている時は家族も他人も関係ない、そう教えてくれたのはワンさんじゃないですか」

「大丈夫 私は敬老院で十分よ」

その時、妻と息子がワンタン麺をテーブルに運んできた

「一緒にワンタン麺を食べましょう」「ありがとう」

こうして運命の出会いから23年、ワンさんはシューさん一家と暮らし始めた

彼女の唯一の財産は、拾った竹の棒だけ

シューは、ただ恩返しをしたかった

そんなシューの行いは、最も美しい隣人として多くの人から称えられた

シューさんと暮らし始めて11年、2014年1月6日、

ワンさんは安らかに息を引き取った

 

「あなたは本当の息子ではありません。でも本当の息子のように愛しています。どう恩返しすればいいか分からないほどよくしてくれるあなたに心から感謝しています」

ワンさんは事あるごとに、こう語っていた

 

ワンさんは亡くなる2年前から認知症を患い、近所を徘徊するように

そのたびにシューさんは彼女を探し、家まで連れ戻した

 

ワンさんが亡くなった後、葬式を挙げた

シューさんの月収は3万円ほどだが、

葬式にかけた費用は40万円ほどだった

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ウルグアイ、第42代大統領:ホセ・ムヒカは、護衛が嫌いで謙虚で気さく

 

豪華な豪邸で40人ものスタッフを使うのは無駄だと、

妻と愛犬と一緒に田舎のボロ家に住んでいる

 

給料の9割を社会福祉に寄付してしまい

残りの1割、10万円ほどで生活している

 

国会へノーネクタイ、スクーターで出かけ、警備員に制止された事も

大統領になってからもめくり上げたズボンとサンダルで過ごした

「ネクタイは政治家が嘘を吐き出さないためにするものだから必要ない」

 

政府専用機を持っていないので、メキシコの専用機に相乗りしたことも

 

●ヒッチハイク

ジェラルド・アコスタさんは、

職場が遠く会社の定期バスで片道100㎞の道を往復していた

その日はIDカードのトラブルで工場に入れず、帰るバスさえ無くなった

そこでヒッチハイクを思い立つも、誰も停まらない

車に嫌われて2時間過ぎたくらいの頃、1台の車が停まった

運転手らしき人物がドアを開けてくれた

後部座席に乗り込もうとしたら大統領の妻の顔が見えた

そして助手席に座っていたのは、ムヒカ大統領だった

「どこまで行くんだい?」大統領は気さくに話しかけてきた

 

●感動のスピーチ

2012年6月20日 リオで開かれた国連の会議、

ムヒカ大統領のスピーチが世界に感動を与えた

 

私は皆さんに問いかけます。

もしもドイツ人が1世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、

この惑星はどうなるのでしょう?

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか?

なぜ私たちはこのような消費社会をつくってしまったのですか?

現代に至っては人類がつくったこの大きな勢力を

コントロールしきれていません

逆に人類がこの消費社会にコントロールされているので

私たちは発展するために生まれてきているわけではありません

 

幸せになるために この地球にやって来たのです

発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません

愛情や人間関係 子供を育てること 友達を持つこと

そして必要最低限のものを持つこと これらをもたらすべきなのです

 

貧乏とは少ししか持っていないことではなく限りなく多くを必要とし、

もっともっとと欲しがることである

 

●別の一面

ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動に従事する

ツパマロスと治安組織の抗争の激化、

労働組合や職人組合の政治経済への反発といった時代のもと数々の襲撃

誘拐にたずさわる中で、ムヒカは6発の銃弾を受け、

4度の逮捕(そのうち2回は脱獄)を経験

1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監

出所後ゲリラ仲間と左派政治団体を結成

命をかけた社会主義者の一面もある

 

2015年2月27日、ウルグアイ:ムヒカ大統領が5年間の任期を終え退任した

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●中国へ売られた愛娘を取り戻す父の奇策

1006年6月、ベトナム北部 ビンフック省

稲やトウモロコシの栽培で生計を立てていたニャム一家

長女:ハンは14歳離れた妹:フエンにとって母親のような存在

どんな時も自分より妹の事を考える優しい女性だった

長女は家計を助けるため町の製茶工場で働いていたのだが、

不景気のあおりを受け解雇

そんな折、叔母:フアンも行く中国のバナナ園への出稼ぎを紹介してくれた

家計を助けるために中国行きを決意

叔母とハンは250キロ離れた中国 雲南省の河口で住み込みで働くはずだった

落ち着いたら電話をすると言っていた娘から連絡がない事に不安を覚えた父は、叔母:フアンの携帯に電話をかけたが、忙しいと無下に切られる始末

父は、フアンが人身売買に関わっているんじゃないか、という噂を耳にする

 

当時ベトナムでは女性が中国に売られるという事件が

毎年、1000件以上も起こっていた

奴隷のような生活を強いられる女性も多く大きな社会問題となっていた

 

警察に相談するも、捜査をするには本人の証言が必要だという

さらに一緒に行ったはずのフアンの携帯も繋がらない

そこでニャムはひとり中国に渡り、娘を探し出す決意をした

分かっているのは、中国 雲南省の河口という町のバナナ園ということだけ

ニャムはバナナ園をしらみ潰しに当たった

捜索資金は農機具や農地を売って工面した

中国への捜索は40回以上、4年の月日が流れていた

 

そんなある日、突然 娘:ハンから電話で連絡がきた

娘を探していた河口から北東へ150キロ、馬関にある一軒の家にハンはいた

 

4年前、ハンは、叔母と共に馬関にやって来たが、すぐに叔母は姿を消した

馬関にある村は、電話が通じないばかりか、郵便の配達すらない

中国語も分からないハンでは、どうする事もできなかった

数日前、バナナの収穫を手伝うため、初めて隣村に出かけた

そこで中国に来て以来、初めてベトナムの女性に出会えた

「私 騙されて中国に来たんです。ベトナムの家族に電話をさせてください」

事情を聞いたベトナムの女性は電話を貸してくれた

こうして連絡をとるのに4年もの年月がかかった

「すぐにベトナムに帰ろう」

「ダメなの。きっと夫は許してくれない」

ハンは中国で すでに結婚していた

 

相手は中国人のリー・ヒントー

両親を早くに亡くし、山間の畑でバナナを作り、

一人暮らししていた彼は、当時、結婚相手を探していた

だが電話も通じない山間の村に夢に来てくれる女性は望めなかった

そんな時、出会ったのが、叔母:フアンだった

 

フアンは結婚の意志があるベトナム人女性を

結納金:4000元で紹介すると約束

4000元はリーの月収のおよそ2.5倍

大金ではあったが結婚に困っていたリーは、何とか金を工面して支払った

そして3か月後、叔母がハンを連れてきた

当然、リーは結婚を承諾した女性が来たとばかり思っていた

だが、中国語が離せないハンは、リーに事情を説明する事が出来ない

そんな奇妙な共同生活が10か月ほど続いた頃、

片言ながら中国語を話せるようになったハンから、

リーは彼女が初めて無理矢理 連れて来られたことを知る

リーは献身的にハンに尽くした

洗濯も料理も家事は率先して行った

そんな彼の姿に次第にハンも心を開いていくようになり、

やがて2人には愛が芽生え、結婚、2人の子供をもうけるに至った

 

「夫の事は嫌いじゃない…でも出来ることなら夫を置いてでもベトナムに帰りたいの」

「分かった。父さんが何とかする」

父とリーが対面した

「はじめまして夫のリーと言います」

「父のニャムです。一つ相談なんだが、一度ハンをベトナムに帰してもらえないか?妻やハンの妹も心配しているし、孫の顔も見せてあげたいのだが」

「バナナの収穫の時期が近いので、それはちょっと…」

「バナナは大変ですね。一度だけでいいんです、娘に里帰りを」

「ダメです」

「それにしても ここは本当に静かですね」

「おかげさまで誰も嫁に来たがりません。ハンさんが嫁に来てくれて親戚の独身連中からも羨ましがられているんですよ」

「わかりました。私はベトナムに帰ります」

ベトナムに帰った父は、娘:ハンの無事を家族に報告

 

●父が考えた奇策

「頼む。フエン 中国に嫁いでくれ」

無理矢理ハンを返せと言ってもリーは認めない

だがハンの妹なら親戚の独身連中に喜んで受け入れてくれるに違いない

まず妹:フエンをリーの親戚に嫁がせる

リーは親戚に顔が立ち喜ぶだろう

リーは父を信頼し、一時的にハンを里帰りさせてくれるのじゃないか

その間にハンが警察に被害届を出し、叔母を告発

警察に事件として認めさせるには、必ずハン本人が証言しなければならない

そこで犯罪行為が証明できれば結婚は無効となり、

中国に残された妹も取り返す事が出来ると考え、フエンが承諾したので決行

 

ハンがベトナムに帰った後、リーはハンを追いかけてベトナムに移住

リー家族は父の家の隣に家を建ててもらって仲良く暮らしている

フエンは中国人の夫を気に入り、

現在は子供にも恵まれ、中国で幸せに暮らしている

時々、家族でベトナムにも帰っているという

帰国したハンの告発を受け、叔母:フアンはすぐに逮捕

人身売買の罪で懲役6年の判決を受けた

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ザ!世界仰天ニュースで紹介された

福岡ダイエーホークス:藤井将雄 最期の1年間

気迫あふれる強気のピッチングで1年目から活躍

1999年、ホークス悲願の初優勝に貢献した中継ぎのエース

パリーグ最多ホールド賞を獲得

体に異変が現れ始めたのはリーグ優勝を決めた直後

これから日本シリーズという時だった

 

幼い頃、両親は離婚、母は女手一つで子供たちを育てた

毎朝 休むことなく朝市で店を出し、一家を支えた

家計が苦しくても息子に不自由な思いをさせなかった

そんな母の想いに応えるように藤井は練習に励んだ

社会人野球で頭角を現すと1994年、広島アジア大会では

日本代表に選ばれ金メダルを獲得

そしてその年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団

●愛する仲間のために生きた藤井将雄

1999年10月13日、健康診断を受けた藤井の肺に影が見つかった

「すぐに入院の手続きをしてもらえますか?」

「来週から日本シリーズが始まる大事な時期なんです。チームにも迷惑かけられないし」

このタイミングで入院する訳にはいかない

藤井は医師を説得し、試合に出た

日本シリーズでは第2戦と第5戦に登板

そしてダイエーホークスはチーム創設以来、初の日本一

1999年11月7日、福岡で凱旋パレード

佐賀に住む母と妹も藤井の雄姿に喜んでいた

この翌日から藤井の闘病生活が始まった

 

1999年11月10日、精密検査の2日後、藤井の実家に病院から連絡が…

本人に伝える前に家族が呼ばれた

「悪性度の高い肺がんになります」と宣告

がんは肺の広い範囲に広がっており、首のリンパ節にも転移していた

抗がん剤や放射線も効果はほとんどない、と説明を受けた

「半年もつかどうか…早くて余命3ヵ月」

血中の酸素量を表す酸素飽和度は通常95%以上だが、

肺機能が低下した藤井は80%ほど

かなり息苦しい状態だという

「本人には伝えていません。ご家族のお考えをお聞きできればと」

 

思い悩んだ末、母と妹はある決断をする

「告知の件なんですが、息子には言わないでください。野球が出来なくなると分かったらあの子は生きる希望を失います」

こうして藤井には隠し通す事を決めた

藤井は余命3ヵ月とは思えない元気な姿

母は妹と藤井の前では気丈に振る舞うと約束していたが…

母は息子を前にして感情を抑えられなかった

「ちょっと明日の仕事の支度をしないといけないから帰るね」

それ以来、母は病院へ行く自信がなくなった

 

病気の事を球団に黙っているわけにはいかない

しかし病気が分かれば来年の契約はない

そうなれば息子は希望を失ってしまう

何とか公にせず王監督に事情を説明したかった

そこで後援会事務局長:北方伸一に協力をお願いした

全てを知った北方は、若田部健一に電話をかけた

藤井と最も仲が良かった当時のエース

若田部の計らいで王監督に直接会う段取りが組まれた

「将雄はもって半年、来シーズンはもう無理です。だからクビで構いません。でも息子には残りの人生 生きる希望を失ってほしくないんです。嘘でいいので契約更改をして頂けないでしょうか?形だけでいんです。お願いします」

と母は王監督にお願いした

「何も心配しなくていいですよ。契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」

と王監督は母と妹に話した

1999年12月4日、藤井は正式に来季も契約更新され、年俸は倍増だった

命の保証のない選手にこの契約はプロスポーツの世界では考えられない事

契約更改後、王監督から藤井に連絡が、

「ゆっくり焦らず治療してください。若手がバテ始める6月に照準を合わせて戻ってくれればいいですから」

「分かりました。6月には完全復活しますので」

もう一度マウンドに立ちたい、この思いが藤井の心の支えになった

 

藤井の復活への気力は凄まじかった

足腰を鍛えるため、10階の病室まで階段で上り下り

血中の酸素が足らないので激しい運動は無理なはず…

体は病魔に蝕まれていたはずだが、人前では決して苦しい姿を見せなかった

藤井の気迫は病気に勝っていた

2000年1月、これといった治療をするわけでもないので一時帰宅が認められた

王監督との約束を果たすため藤井はトレーニングを続けた

 

そしてついに3月3日、死の宣告から5か月 2軍キャンプに復活した

息苦しさ、体力の低下など本人はかなり辛かったはずだが、

それらを気力で乗り越え、

2000年5月18日、およそ半年ぶりの実践登板

この日計測した球速は最高139キロ

急速は落ちたが、22球の気迫の投球だった

この時、藤井が末期がんを患っているなど誰も思いもしなかった

 

最後に1軍で投げさせてあげようと考えたスタッフから

1軍に上がれと言われたが、「いやまだ2軍で成績残していないから」と断った

 

その後も藤井は2軍の試合に出場。復帰後 6度の登板を果たした

2000年6月15日の登板直後、藤井は突然倒れた

緊急入院

肺に溜まった水を抜くための管が取り付けられた

その頃、がんによる激痛が度々襲った

「痛み止めを出しましょうか?」

「痛み止めなんて、どうしても必要な時は言いますから」

薬を飲めば病に負けたことになる、そう考え痛み止めを拒み続けた

 

2000年9月、ダイエーは2連覇に向けて首位争いをしていた

藤井は少しでもチームの力になれればとチームメイトを勇気づけるメールを送った

ダイエーはリーグ優勝まであと一歩

藤井はチームと共に戦った

2000年10月7日、ダイエーは見事2連覇

王監督胴上げの時、藤井の背番号15のマスコットを持った若田部が映っていた

マスコット人形は王監督と一緒に宙を舞った

優勝から6日後、藤井は31歳の若さで力尽きた

10月16日、葬儀が行われた

去年までチームメイトで藤井を可愛がっていた工藤と若田部は最後まで席を離れなかった

2000年10月21日、第1戦 奇しくも先発のマウンドに立ったのは工藤と若田部

藤井への思いを胸に力投した

 

福岡ドームの15番ゲートは、背番号にちなんで藤井ゲートと呼ばれている

選手のロッカールームにも藤井選手の写真が飾られている

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