夫婦愛/恋愛」カテゴリーアーカイブ

たった1人で1万8千坪のガーデンを造った紫竹照葉

 

生まれも育ちも北海道帯広市

建設会社を営む家庭に生まれ、

20歳で4歳年上の勲さんと結婚

父親の跡を継ぎ建設会社の経営に携わった

2人は口喧嘩ひとつしたことがない超ラブラブな夫婦

3人の娘にも恵まれ、幸せな生活を送っていた

 

しかし照葉が56歳の時に最愛の夫:勲さんが心筋梗塞で急死

最愛の夫を失い、何一つ手につかない日々

そんな時、長女:和葉さんが、

「お父さんはお母さんのことを ひまわりのような太陽みたいな人だ。そんなお母さんが大好きだって言ってたのよ。それなのにいつまでも泣いてばかりでいいの?」

 

私がメソメソしている姿を空にいる主人が見たらがっかりしてしまう

 

昔から花が大好きだった昭葉さんは、

63歳にして大きな花畑を造ることを決めた

貯金をはたいて1万8千坪の土地を購入

当然、家族は猛反対

そんな話には聞く耳を持たず実行に移した

元々はただの牧草地

たった一人で花畑を造り始めた

その情熱と行動力により周囲の反対や心配も

いつしか応援へと変わっていった

 

しかし霜のせいで1年目に植えた花は全滅

 

 

試行錯誤の末、スタートから3年、

66歳にして紫竹ガーデンをオープンした

 

2500種類の花々を観に年間12万人も訪れる帯広の観光名所になった

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岡山県 アーヴェリール迎賓館の

ウェディングプランナー:久保田藍には忘れられない結婚式がある

2014年6月、別の結婚式場から移動してきた久保田さんが

顧客ファイルを整理していた時のこと

2007年3月11日、西澤尚志様 麻衣様と書かれた古いファイルを見つけた

それから1ヶ月後の2014年7月、久保田さんのもとに一本の電話が入った

 

新郎:西澤尚志さん、新婦:中原麻衣さん

 

2人が出会ったのは2004年、友人の紹介で知り合い、交際がスタート

2006年7月1日、2年目の交際記念日に2人は結婚を決めた

2007年3月11日に結婚式を挙げるため、2人は式場を予約した

 

しかし2006年12月、それは突然 襲ってきた

麻衣さんは突然 記憶を喪失、

夜になると何かに憑りつかれたかのように叫び続けた

原因が分からないまま精神科に入院

入院3日目、麻衣さんは突然 心静止を起こし、大学病院に緊急搬送された

人工呼吸器で心臓は何とか動いているが、

脳が眠っていていつ意識が戻るか分からない状態

さらに意識がないにもかかわらず体が勝手に動き痙攣発作を起こした

 

「結婚式は保留ってことで…いえキャンセルはしません。必ず結婚式はします」

 

意識不明の状態が何か月も続いた

それでも尚志さんは会社勤めの傍ら、

平日は出勤前の1時間、休みの日は1日3度 麻衣さんのもとを訪ねた

寝たきりで硬直している手足の筋肉をマッサージでほぐし、

耳からの刺激が脳に良い影響を与えるのではと、

麻衣さんが好きな曲を聴かせるなど献身的に付き添った

 

入院から5か月、ついに病名が判明、卵巣奇形腫による辺縁系脳炎

そもそもの原因は卵巣にできた腫瘍

異物を排除しようと体が作った抗体が何らかの異常により脳を刺激

その結果、記憶障害、幻覚、運動麻痺など様々な症状を引き起こす恐ろしい病気だった

2007年5月17日、卵巣腫瘍の摘出手術が行われた

それでも尚志さんは毎日 看病を続けた

麻衣さんが意識を失ってから1年が経った頃、麻衣さんの母親から

「もう別の人 探していいから」

「それどういう意味ですか?」

「麻衣はもう治るかどうかも分からない、そんな麻衣の為にあなたの人生を犠牲にしてほしくないの」

「嫌です。僕はもう一度枚の笑顔が見たいんです。お願いします。麻衣のそばにいさせてください」

 

入院から529日目、長い眠りから目を覚ました

しかしカメラを向けても目で追うだけ、

話しかけても返事が返ってこない、意思の疎通は出来なかった

それでも尚志さんは病院へ通う事を決して止めなかった

 

そして入院から3年経った頃、いつものようにマッサージをしていると

表情を失っていた麻衣さんが笑った

立ち上がる事は出来なかったが、日ごとに目覚ましい回復ぶりを示した

入院から1555日(4年3ヵ月)ぶりに退院

 

2012年12月21日、8年越しの結婚式

寝たきりだったため全身の筋肉は衰え、足首は伸び切り、力が入らない

麻衣さんは結婚式で元気になった姿を見せたいと過酷なリハビリを続けた

麻衣さんはバージンロードを両親に支えられながら自分の足で歩いた

2人は永遠の愛を誓った

8年間、待ち続けた式場スタッフも祝福

2015年3月、麻衣さんは両親と一緒に暮らしている

 

ちなみに尚志さんが結婚式をキャンセルしなかったのは、

麻衣さんが意識を取り戻した時、ショックを受けるかもしれないから

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常識人、優等生の世間的イメージが強い漫画家:はらたいら

一方で私生活はゼロ点

家庭よりも仕事や酒を優先する破天荒な男だった

クイズダービー後、はらたいらは、すぐにうつ状態に

長年の飲酒がたたり体調が悪化

2006年に肝臓がんを患い死去 享年63

事前にスタッフから答えを聞いているのではないか?

という都市伝説まで囁かれた程の正解率を誇る人物

●クイズダービーのでブライクした漫画家:はらたいら

19433年、高知県に生まれた

ちなみに はらたいらは芸名ではなく本名

小学生の頃から授業は聞かず、マンガの落書きばかり描いていた

中学2年生の時、結核を患い入院

暇を紛らわすため漫画を描く事に増々夢中になっていった

高校時代には、地元の新聞に掲載されるほどになっており、

将来の夢は、上京してプロの漫画家になる事だった

高校3年生の頃、校内新聞に描かれた はらたいらの漫画を見て、

感銘を受けた少女が、後に妻となるちず子だった

はらたいらは、高校時代から地元で飲み歩いていた

ツケで飲むこともしばしば、高校にまで飲み屋の請求が頻繁に来ていた

 

高校を卒業した ちず子が就職で上京した時…

ある日、ちず子の職場に1本の電話が

「もしもし、はらです…高校が一緒だった」

プロの漫画家になるため はらたいらが上京した事は知っていた

ちず子は、一度も話をした事が無い相手からの突然の電話に戸惑った

「ごめんね、突然。友達を辿って連絡先を勝手に聞いちゃった」

「いえ」「あのさ会えないかな?」「えっ私とですか?」

はらたいらの突然の誘いを大喜びで受けた

後日、喫茶店ではらたいらと再会した

ちず子には東京でプロの漫画家として働く はらたいらが眩しく見えた

しかし、会計をする はらたいらを見たのは、これが人生最後だった

 

実は当時のはらたいらは、

漫画家としては全く売れておらず極貧生活を送っていた

当時あった血液銀行で血液を売って金を作り食いつないでいた

ほどなく はらたいらは、ちず子を頼って頻繁にお金を借りに来るように

やがてちず子の職場までお金を借りに来るように

すると、あまりにもはらたいらが

職場にお金をせびりに来るので、

ちず子はついに仕事をクビになってしまった

しかしちず子は、はらたいらほどの才能が世に出ないのはおかしい、

何とか彼の力になってあげたい、と惚れ込んでいた

ある日、ヒモ状態のはらたいらが、

「お前は恋愛対象じゃないけど結婚するならお前がいいな。外を連れて歩くなら美人や可愛い子の方がいいかもしれないけど女房にするならしっかり者がいいからな」

1964年、2人は入籍し、三畳一間で慎ましい生活が始まった

狭い部屋は漫画を描くだけで精一杯、2人の寝床は押し入れの中…

そんな狭い家で漫画仲間と昼間から酒盛り

一方のちず子は、仕事を2つ掛け持ち、

夫の邪魔にならないようにと夜に仕事が終わると朝まで外で散歩をし、

はらの酒代を稼ぐため、そのまま仕事へ向かった

 

ちず子の体重は結婚前に比べ、16㎏も減った

そんなちず子の支えで少しずつ漫画の連載を増やしていった

三畳一間のアパートからも引越し、2人の子宝にも恵まれた

はらは典型的な亭主関白になっていた

自分で魚の骨を取る事も出ず、自分でご飯をよそうなどもってのほか

 

はらたいらが33歳の時、クイズダービーへのレギュラー出演が決まった

以前、漫画家チームとしてゲスト出演した際、

その博識ぶりと甘いマスクが、

大橋巨泉に気に入られレギュラー回答者に大抜擢された 出演者の中で最も高い正解率を誇り、27問連続正解の偉業を達成した

 

漫画家で あるはらたいらが

驚異的な正解率を誇ったり理由は、彼の仕事にあった

風刺漫画を描くために本、新聞、雑誌まで異常にリサーチ

様々な智識や雑学を持っていた

さらに放送日の周辺に関するイベントを、あらかじめ調べて問題を予想

 

しかし正解し続ければ正解し続けるほどプレッシャーは増していった

家庭では常にピリピリ状態

クイズダービーにはらが登場してから、

気を遣い3年間 妻から声をかける事はなかった

1992年、クイズダービーが終了

クイズダービーが終わると仕事が次々と舞い込んだ

1ヶ月に20日以上は講演会で地方に出かけ、

その合間で連載漫画を描き続けた

そんな多忙な日々の中でテレビン番組にも出演

クイズは応えればよかったが、トーク番組は喋る能力が必要

タレントではなかった はらは、

トーク番組で喋れない自分に悩み 自信を喪失していた

そんな日々の中、ある日の公演中、過労と心労で倒れた

これをキッカケに仕事を全盛期の2割に減らした

家にこもりっきりの はらたいらは、鬱になり酒の量もすっかり減った

 

妻が不調を訴え、病院へ行った時のこと、「病名ですが、乳がんです」

49歳で乳がんを侵されたちず子

「手術すれば幸い乳房は残せます」「手術ってことは入院しますよね」

「はい、もちろん」「入院する日にちが短くする方法はありますか?」

乳がんに侵されながらも、はらたいらのことだけを案じていた

「入院を短くする方法はあります」「何ですか?」

「乳房を全部摘出することです」「全部 キレイに取ってください」

この医師の提案に即答した

術後、ちず子の見舞いに訪れた

体に管が繋がっているのを見ると はらは卒倒し、夫婦で入院する事に

 

ついにはらは、肝硬変を患う

病院嫌いだったはらは、すでに重度の症状

元々、人付き合いが苦手なはらは、ちず子がいないと

ナースコールを押す事さえできない

面会時間を終わった後も、不安で眠れないはらは、2時間おきにちず子に電話

ついには院内の宿泊が禁止されているにもかかわらず、

隠れて病室に泊まり込み、毎晩 はらが寝付くまで側に居続けた

「もう一度 生まれ変わってもお前と一緒になりたい」

それははらが、最期に妻に残した感謝の言葉だった

 

「はらたいらと結婚したことに何の公開もありません。はらたいらに全部、まさに私の人生全部、そう決めてましたから」

とはらたいらを送り出す ちず子は語った

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2008年、アメリカ ミネソタ州の高校に

ブリックス・ファッシーが転校してきた

ホッケーが好きなシャイな高校生だった

転校の翌日、前の席のブリトーに写真を見せられた

「ねぇ覚えている?この写真」

ブリックスは魅力的なブリトーに一目惚れ

その写真は、子供の頃からブリックスの家の壁に貼られていた写真と同じ

 

明るくおっちょこちょいな性格のブリトニーに惹かれていくが、

彼氏がいると知り、ブリトニーを避けるようになっていった

その頃、ブリトニーは彼氏と別れており、

ブリックスの事が気になり出していた

その事実を知らないブリックスは、

自分の気持ちを抑える為、あえて冷たい態度を取り続けた

そして2人は言葉を交わす事すら出来なくなっていった

そんな関係が8か月も続いた…

あるパーティーでブリトニーが彼氏と別れた事を知る

これをキッカケに2人は徐々に距離を縮めていった

そして…「僕の彼女にならない?やっと言えた…」「OK」

交際を始めてみるとアウトドア好きという趣味も同じ

家族を大切にする気持ちも同じ

さらに不思議な事はお互い何も言ってないのに、

相手の気持ちが分かってしまう

そんな2人は、いつも一緒だった

 

やがて2人は、それぞれ希望する大学へ合格

遠距離恋愛となったが、想いは変わらなかった

卒業を間近に控えた11月、「これ僕が作ったアルバム」

ブリトニーにプレゼントされたアルバム

そこには2人の出会いからの軌跡が…

「次の気持ちが僕のページだよ」 それはブリックスが7歳の頃、将来 好きな人ができた時の為に

“WILL YOU MARRY ME?(結婚してくれませんか?)”

プロポーズの言葉を体に書いて撮った写真だった

「僕と結婚してください」

 

2015年1月10日、結婚式が行われた

式が行われた後のパーティーである映像が流された

 

それは…20年前(1995年)に行われたとある結婚式の映像

そこにはタキシードとウェディングドレスで着飾った子供

男の子は結婚指輪を持つリングボーイ

女の子は花を巻いて歩くフラワーガール

2人は手をつないでヴァージンロードを歩いていく

その2人こそ20年前のブリックスとブリトニー

 

転校翌日にブリトニーが見せた写真、

ブリックスの家にずっと飾られていた写真が、この時の写真だった

 

2人は新郎新婦の知人ではあったが、それまで全く面識はない

また両親同士も知り合いではなかった

その後もブリックスがブリトニーの通う高校に転校してくるまで

全く会う事はなかった2人

 

ブリックスの転校により偶然再会

そして偶然、ブリトニーの後ろの席にブリックスが座ることになった

3歳の時に結婚式で会った2人が、

ブリックスという少し変わった名前だった事を憶えていたブリトニーは、

写真を見て本人だと確信。彼に話しかけたのだった

 

そして2人は20年前と同じヴァージンロードを歩いた

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●生まれつき聴覚に障害のある母親が初めて聞いた愛する娘たちの声

1982年、アメリカ テキサス州

サラは、ごく普通の家庭に生まれた

2年後、大きな音にも反応を示さないサラを病院で検査

その結果、ほとんど音が聞こえない感音難聴と診断された

補聴器を付けるも、サラにとって言葉は、ただの雑音でしかなかった

そこで両親は口の動きから言葉を読み取る読唇術を学ばせる事に

両親はあえて手話を使わずサラに読唇術を身に付けさせた

やがてサラは一般の小学校へ入学

座席はいつも先生の口が良く見える一番前の席

誰よりも努力し成績も優秀だった

こうしてサラは自分から逃げることなく学校に通い続け、一般の高校を卒業

その後、サラは近所のカフェで働き始めた

前向きな性格と明るい笑顔、彼女は周囲の人達から愛される存在だった

 

そんなある日、いつもサラを可愛がってくれる常連客の息子:スローンと出会った

スローンは、一目で恋に落ちた

やがて足繁くサラの店に通うようになり、

いつしか2人の距離は縮まっていった

「今日はご飯を食べに来たんじゃないんだ。初めて会った時から君の事が好きだった」

スローンの突然の告白、サラは生まれて初めて恋をした

2人は どこに行くにも一緒だった

スローンは恋人であると同時にサラの耳となった

2001年、サラが19歳の時 2人は結婚

数年後、サラは2人の娘の母親となった

絵に描いたような幸せな生活…

しかし幸せになればなるほどサラには、ある思いが募った

 

愛する娘たちの声が聞きたい…

 

2011年、車を運転するスローンが何気なくラジオを流していると、

「耳に直接 埋め込むことで難聴の方でもより自然な音が聞こえるようになる画期的な医療技術が開発されました」

サラの難聴が治るかもしれない、スローンは興奮を抑えられなかった

すぐに問い合せすると、片耳で3万ドルかかる事を知る

数日後、スローンの母親が老後の生活費に貯めていた貯金をサラに渡した

最新の技術でサラの耳が聞こえるようになる、そんな噂は瞬く間に広まった

家族や友人たちの支えにより手術に必要な費用が集まった

 

サラが29歳の時、手術が行われた

頭の内部に埋め込み、鼓膜の振動を拾って

補聴器よりも強力に音を増幅して伝える技術

手術は9時間にも及んだ

手術から2ヵ月、埋め込んだ機械を作動させる日

29年間、音のない世界で生きてきたサラが初めて音を聞く

 

 

こうしてサラは何よりも聞きたかった家族の声に囲まれ、

幸せに暮らしている

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