生き別れ」カテゴリーアーカイブ

ミシェルは、1976年3月35日に生まれた
母親は当時25歳、夫との関係が悪化し、
離婚手続き最中に妊娠に気がついた
貧しいうえ、すでに2人の姉がいたため、
育てられないと判断し、養子に出すことにした
親としての感情が芽生えてはいけないと
娘を抱くことが許されたのは、わずか5分
こうしてミシェルは、養子に引き取られた
当時のアメリカでは、養子契約が成立後、
双方の連絡先は開示しないのが一般的だった
 
ミシェルが引き取られたのは、ダベンポート郊外に住むジョンソン一家
養母は、健康上の理由でもう妊娠はできないとミシェルを迎えた
その4年後に思いかけず妹が誕生
だが両親は、分け隔てなく愛情を注ぎ、ミシェルは伸び伸びと育てられた
5歳の頃、両親から養子であると告げられた
優しい両親に恵まれ、何不自由なく育ったミシェルだったが、
自分はいったいどこから来たのだろう?という思いが募った
 
ミシェルは、養母を伴って養子斡旋エージェント支部を訪ねた
「私の実の両親はどんな人ですか?」
「この子は自分のルーツを知りたがっているんです。会わせていただけませんか?」
養母もフォローしてくれた
「実のご両親に関してお知らせできるのは、この記録だけになっています」
養子に出された時点の両親の年齢、学歴、身長などが記載されていた
だが名前や連絡先に関する記述は一切ない
本人と連絡を取ることは不可能だった
 
それから16年後、ミシェルのコレステロール値が異常な値が出て、
それが後天的な原因なのか、遺伝的な原因なのかを調べるために
再び養子斡旋エージェント支部を訪れた
両親の医療記録を提供され、実の父の遺伝であることが判明した
しかし実の両親の名前は、伏せられたまま
 
ミシェルの実の母親は、離婚した後、2人の娘を育てるために
事務職やバーテンダーなど様々な職を経験
その後 勤務した美容院では、受付業務を担当
明るい性格でスタッフはもちろん、
客からの評判もよく3年で店長補佐まで昇進した
 
養子斡旋エージェント支部の養子ケースワーカーは、
こうした情報をミシェルに教えることができない
それが養子斡旋エージェントの決まりだった
養子ケースワーカーは意を決して「お母様に聞いてみましょうか?」
「それは許されないことでは?」
「原則はそうですが、あなたのお母様も望む場合は、可能です」
 
養子ケースワーカーは、実の母に連絡した
「30年前に養子に出された娘さんが あなたと会いたいと言っていますが」
「無理です。私は生まれたばかりの娘を5分で手放したんです。母親と名乗る資格なんてないんです」
「では娘さんからの手紙ならば受け取っていただくことはできますか?」
母は了承した
手紙を書くにあたって下の名前だけ教えてもらった
手紙は養子ケースワーカーを通し、実の母:キャシー・ハンゼンのもとに届けられた
“親愛なるキャシーへ 私は小さな田舎町で育ちました。今もそこに住んでいます。小学校、中学校、高校とチアリーダーをしてバンドにも入っていました。ダベンポートという町のカプリという美容専門学校を出て、今は美容の仕事をしています。働き始めてもう10年になりました。1999年6月に結婚し、昨年1月に長女が生まれました。娘と共に過ごし絵を描いたりするのが今の生活の楽しみです。私のこと少し書いてみようと思います、私は右利きで買い物が好き。お酒はマルガリータが好きで肉はあまり食べなくて魚が大好き。散歩も好きですよ。動物が大好きでスイミングも好き。あと兄と妹が一人ずついて6人の姪っ子と3人の甥っ子がいます。いつかお互いのストーリーを交換して私の音楽好きや細い髪や笑顔がどこから来ているのかも知りたい。それにこのお尻のお肉も ミシェル”
ミシェルの手紙は、長い間苦しんできたキャシーの心に沁みた
キャシーは養子ケースワーカーに電話した
「今手紙を読みました。ミシェルと会うつもりはないと言いましたが、その言葉撤回させてください。あと手紙にひとつ気になる部分があったんです」
「まずは一度ミシェルと電話で話してみませんか?」
 
その夜、ミシェルは養子ケースワーカーからキャシーの連絡先を聞き、電話をかけた
「もしもしミシェルです」
「ミシェル?お手紙ありがとう。幸せにやってるようね」「はい」
「あなたダペンポートの美容学校に通っていたのね?」
「もう10年くらい前ですけど」
「実は私もダペンポートで働いていたことがあるのよ」
「私も美容学校を卒業した後、1年だけですがダベンポートで働きました」
「本当に?」
2人は互いの記憶を照らし合わせていくと
「じゃ あなたは受付にいたキャシーなの?」
「あなたはネイリストだったミシェルなのね」
「信じられない!」
 
そして2週間後、母娘は再会した
ミシェルは血のつながった2人の姉とも会い、
育ての親や兄妹も含めた家族ぐるみの付き合いが始まった

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解決!ナイナイアンサーで紹介

●母と生き別れたノブコブ吉村

お笑い芸人:平成ノブシコブシ吉村崇

1980年、北海道札幌市で飲食店を営む父と母の間に生まれた

そして6歳の時、吉村が「保育園を休む」と言ったのをきっかけに両親が喧嘩

「崇、お父さんとお母さんちょっと大事な話があるからちょっと表に出ていなさい」

数十分後、家に戻ると1人で泣いている父の姿が…

すでに母親はいなかったので、

離婚のきっかけは自分にあると思っていた

数日後、父の実家へ引っ越した吉村は祖父母と共に暮らすことに

後日、吉村が出て行った後、両親は離婚の話をしていた事を、

母は自分を残して離婚を選択した事を祖母から聞いた

友人には高校入学まで母がいない事を言えなかった…

あれから6年後マラソンの練習をすると行って向かった先は、

離婚した後、生計を立てるため母が営んでいた喫茶店「窓硝子」

6年ぶりの再会だった

マラソンの練習と偽り、毎日のように母に会いに来た

そんなある日、母の住む部屋に招き入れてくれた

そこには幼い吉村の写真が飾られていた

母は今でも自分の事を愛してくれている…そう確信した吉村は、

「お願いがあるんだ。もう一回うちに戻って来てよ」

6年間抱え続けた思いを吐き出した

「崇の事は愛しているけどお父さんの事は愛してないの…ごめんね…」

と言われたのがきっかけで、吉村は母の喫茶店へは行かなくなった

そして19歳の時、札幌へ帰った吉村は母親の喫茶店へ訪れた

7年ぶりの母との再会、12歳の時と同じ席…そして、

「お祖母ちゃんが死んだよ。それだけ言いに来た」

吉村が母を訪ねたのは祖母の死を伝えるためだった

母が知らない自分を育ててくれたのは祖母、

その死を母にどうしても伝えたかった

「ちょっと待って。これ持って行きなさい」と2万円を手渡された

母と会ったのは17年前のこの日が最後…

吉村は今も母がくれた2万円は大切に持っている

 

ノブコブ吉村が今も悔やむ祖母への最後の言葉

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