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右足を切断してまでアイドルとしてステージに立った木村唯さんは、2015年10月14日に、亡くなった 享年18だった
 
 
花やしきにあるフラワーステージで
毎週日曜の正午から歌とダンスを披露する花やしき少女歌劇団
そのメンバーとして9歳から活動していた木村さんは、
2012年、15歳のときに「私 足が痛いんだけど」と母に訴えた
小児の発症率が高い横紋筋肉腫と医師から診断
木村さんはステージ復帰を目指して抗がん剤治療に専念
 
抗がん剤治療を続けながら残り少ない余命を送るか?
がんの転移を防ぐために右足を切断する手術を受けるか?
と医師は、木村さんに選択を迫った
木村さんは「私…手術を受ける」と決断した
手術を受ける前に健常者としてステージに上がった
 
 
2013年7月、右足を切断
半年後、肺や気管支にがんの転移を発見
それでも片足の彼女は、ステージに上がった
 
「ママ、私を可愛そうだなんて思わないで…。可哀想なんて思われたくない。私 幸せだから」と亡くなる前に母に話したという
 
2015年10月14日に、亡くなった 享年18だった

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2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥
体の様々な細胞に変化できるiPS細胞を生み出した
山中は日本の多くの研究者と違う点がある
それは、一つのテーマを研究し続けるのではなく、
テーマを次々と変えた異例の研究スタイル

 

1936年、34歳でアメリカから帰国、新しい環境で研究に取り掛かった
しかし待っていたのは、実験用のマウスの世話
その数、200匹、これが山中には苦痛だった
アメリカではマウスの世話をする専門のスタッフがいた

 

僕は研究者なのか、ネズミの世話係なのか、いったい何をやってるんだ
肝心の研究に専念できないストレスに襲われていた
山中の周りには同じ研究をする同僚も少なかった

 

実は、山中は当初、血圧の研究をしていた
その後も動脈硬化、がんなど次々と研究テーマを変えた
同じことを長くやる事が研究者にとっての勲章という考えが日本では普通
日本でどんな風に評価されるんだろう、と山中の不安は大きかった

 

そんなある日、とある講演会に訪れた
話していたのはノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進
山中にとっては雲の上の人物
講演会が終わった後の質問タイムで、意を決し 悩みをぶつけた
「日本では研究テーマの一貫性が評価の対象になっていますが、それについて先生どうお考えか?」
恐る恐る質問する山中
「別に持続性なんかなくたっていいと思います。面白いことを科学者はやるべきであって。僕は割と飽きるたちですから、同じテーマを一生やるなんて考えられない」
利根川の言葉で、山中は救われた

 

一貫性にとらわれず面白いことをやる
このわずか4年後、山中は人のiPS細胞を生み出した
利根川進の現在の研究テーマは、ノーベル賞を受賞した免疫学ではなく脳の研究

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丸山は、ガンと闘いながらアイドルを続けてきたが、21年の生涯を閉じた

 

1993年、福島県郡山市に生まれる

両親と妹と暮らす丸山は、脳腫瘍を発症したのは小学2年生のとき

3カ月の入院生活、励ましてくれたのはモーニング娘。

先生からは「夏鈴ちゃんは病院のアイドルだね」と言われた

 

2009年、地元の尚志高校に入学

歌が大好きだった丸山は、アイドルになりたいという夢を抱く

2年生になると生徒会長を務める

その任期中、2011年3月11日、東日本大震災と原発事故が発生

みんなで乗り越えようと全校生徒を励ました

 

2012年3月3日、卒業式で答辞を読んだ

「成功の反対は、失敗ではなく挑戦しないことです。卒業生代表、丸山夏鈴」

卒業後、3度目、4度目の脳腫瘍の手術

 

 

この入院中に、丸山はアイドルオーディションに応募

オーディション:ミスiD2013の一般投票の期間中に

芸能事務所:Happy Strikeからスカウトされ所属した

 

7月からアイドルとして活動を始める

デビュー曲は「Eternal Summer」

歌詞には丸山がブログやツイッターで発信してきた思いが込められていた しかし脳腫瘍が肺に転移、手術はできないと宣告された

 

2013年2月25日、5度目の脳腫瘍摘出手術

6月、6度目の脳腫瘍摘出手術

 

2014年12月、デビュー曲のレコーディング

 

2015年1月2日、初詣の絵馬に“この先もずっと健康で、ファンの方に笑顔を届けられますように!!”と書いた

 

2月3日、CDのジャケット撮影、夜に緊急入院

肺には2ℓの水が溜まっていた

 

2月5日、脳腫瘍の一部が肺に転移し肺癌の治療中である事を公表

 

2月7日、高田馬場のライブハウスでライブ

酸素チューブを取り付けてステージへ

肺の水を抜くため週に2回、通院

 

Eternal Summer [ 丸山夏鈴 ]

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2月28日、「Eternal Summer」でCDデビュー、

郡山のタワーレコードでミニライブを開催

酸素チューブを外して、ステージに

「こんばんは、酸素チューブが宇宙一似合うアイドルです(本人が撮影したコメント)」

 

3月22日、東京でCDジャケットの衣装を身につけてライブ

 

4月20日「のどの痛みは前よりも落ち着きました。喉につっかえてる感じが取れれば完璧です。歌も歌いたいし(本人が撮影したコメント)」

 

4月25日「先生から許可を貰って、病院の外に来ました。桜がキレイです。外は気持ちいいね(本人が撮影したコメント)」

 

5月18日「何としてでも活動再開できるように頑張りたいなって思います。ファンの方も含めて応援してくださっているので、ここでへこたれてはいけないんだって思いました(本人が撮影したコメント)」

 

5月19日「今日は昔からお世話になっている美容師さんが来て、ちょちょちょと髪の毛切ってくれました。明日にでも記念撮影しようと思います」

 

5月21日「薬のせいで眠いです。じゃあ、さよなら、バイバイ(本人が撮影したコメント)」

 

2015年5月22日、丸山夏鈴 享年21 永眠

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2015年3月、宝塚駅に街のシンボルとして設置された犬の銅像

 

1987年12月25日、木村佳友さんは結婚して2年目、27歳の時、

路面の凍結によりバイクが転倒、対向車に衝突した

首を骨折し神経がすべて切断、胸から下の感覚がマヒ状態に

車椅子での生活、在宅勤務でプログラマーの仕事をしていた

ある日、妻が「○○さんが柴犬飼ったんやって。うちも飼いたいな」

「無理やろ」自分のことだけで精一杯だった木村さんは、

犬を飼うことに反対した

しかし仕事や家事、自分の介護で気が休まらない妻のことを思い、

ラブラドールリバーを購入、シンシアと名付けた

おてんばなシンシアは 木村さんの言うことを全く聞かない

手足の不自由な木村さんを格下と見なしていた

 

ある日、障がい者を補助する介助犬の記事を発見

訓練所にシンシアのトレーニングを依頼した

4か月後、しかし、帰ってきたシンシアは、

トレーニングを受ける前よりも木村さんを無視するように

全く言うことを聞かないシンシア

訓練を終え1か月近く、諦めかけていたある日、

シンシアは履こうとした木村さんの靴を奪い、遊び始めた

木村さんは必死にシンシアに叫び続ける

ふとシンシアは、木村さんのもとに靴を置いた

これをきっかけにシンシアは指示に反応するように

 

いつしかシンシアは、木村さんと親子のような関係になった

木村さんを喜ばせようとどんどん新しいことを学んでいった

木村さんの生活に必要な100項目の補助する介助犬に

 

駅では「お客様と同伴して乗車できるのは盲導犬と警察犬だけなんです。介助犬というのは分かるんですが、次回からは遠慮していただけませんか」

当時、盲導犬と介助犬の違いは全く違った

盲導犬と同じように障碍者を介助する犬なのに

公共の場ではペット扱いされ、どこに行っても入店拒否

世間で認知されていた盲導犬は、法律で同伴することが認められてたが、

介助犬に関する法律など当時何もなかった

 

木村さんは介助犬を知ってもらうため奔走

講演会などを行い、介助犬の現状を訴えた

 

当時 国会議員で宝塚市長を務める中川智子が木村さんの活動を認め、

木村さんとシンシアが普段どんな暮らしをしているのか、

デモンストレーションを国会で行った

介助犬としてシンシアは、素晴らしいパフォーマンスを披露し、

2002年5月22日、障がい者の人が補助犬を同伴して施設を利用できるなどの法律:身体障害者補助犬法が成立した

 

その後も木村さんを支え続けたシンシアは、2004年に他界

2015年3月、宝塚駅に街のシンボルとしてシンシアの銅像が設置された

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1972年、長野県軽井沢

銀行や猟銃店を襲撃するなど数々の凶悪事件を起こしていた連合赤軍

警察に追われたメンバー5名が長野の山中へ逃亡

追い詰められたまたま逃げ込んだ場所があさま山荘だった 断崖絶壁に建つあさま山荘は外部から侵入しづらく

さらに食料も豊富、犯人が立てこもるには最適な場所だった

人質は山荘の管理人の妻

犯人はまわりと取り囲む警官たちに発砲

その結果、死者3名、負傷者27名という甚大な被害をもたらした

警察は殺傷能力のない催涙弾や放水で対抗

現場に、犯人は殺さずに捕まえろ、という指令が出ていたため

殺してしまうと犯人たちを英雄扱いにする人が現れ、

反政府運動の後押しする事になる

 

犯人と警察の膠着状態を破ったのは前代未聞の鉄球作戦だった

鉄球を捜査していたのは、地元に住む民間人の白田兄弟

警察でもない彼らが銃弾が飛び交う最前線へと送られ、

命がけで鉄球を振った

 

●あさま山荘事件で鉄球作戦を命がけで実行した民間人:白田兄弟

 

白田兄弟の父は重機運搬会社:白田組を経営

正義感の強い父の教えは「悪い奴には絶対に屈するな」

21歳の時に兄:弘行は妻:澄江と結婚

同じ日同じ場所で弘行の妹も式を挙げた

五郎は弘行の義理の弟になった

2人は最高の相棒として様々な現場で共に汗を流した

 

1972年2月19日、あさま山荘事件が勃発

テレビでは連日 山荘の様子が生中継されていた

犯人への憤りを感じながらもテレビで見守ることしかできない

事件発生から5日目、電話が鳴った

「私 長野県警の者なのですが…」鉄球作戦の依頼だった

実は それまで長野県警は何件もの業者に鉄球作戦を依頼していた

その全ての会社が依頼を拒否

何故なら連合赤軍から報復される恐れがあったから

もし警察に協力すれば自分だけでなく家族にも危険が及ぶかもしれない

だが正義感が強い弘行は、依頼を受けた

 

当時のクレーン車は運転席と

クレーン操縦席が分かれていたため一人では作業が出来ない

五郎は二つ返事で兄の願いを受け入れた

 

当時、警察は人質となった管理人の妻が2階に監禁されていると推測

犯人を3階へひきつけている間に人質と分断させる計画を立てた

そこで山荘の2階と3階を繋ぐ階段を鉄球で破壊しようと考えた

しかし階段階段の両脇には山荘を支える大きな柱があり、

間違って柱を壊してしまえば山荘自体が崩れてしまう恐れがあった

許された誤差はたったの20㎝

さらにクレーン車を配置する場所は、銃で狙われやすい位置だった

 

白田兄弟は2日間でクレーン車を防弾仕様に改造

運転席に鉄板を溶接し、のぞき窓には防弾ガラスをはめ込んだ

 

決戦前夜、一升瓶を片手に白田兄弟のもとを訪れたのは、

当時の長野県警のトップ:野中庸 警視監だった

作戦の責任者だった野中は手土産を持って自ら訪ねてきた

民間人を最前線へ送り込む事への強い責任を感じていた

「お二人を1日警察官に任命する」

 

1972年2月28日、犯人に民間人だとバレないように警官と同じ服装で参加

午前10時、突入を開始

 

午前10時22分、ついに白田兄弟に出動命令が下された

クレーン車を駐車させたその時、弘行の目の前の防弾ガラスに銃弾が命中

白田兄弟はためらわず作戦を着実に進めていく

ついに1発目の1.7トンの鉄球は見事 階段部分に命中

そんな弘行の目の前では、第二機動隊の内田隊長が撃たれ、殉職

奮い立った白田兄弟は怒りの鉄球を何度も打ちつけ、山荘の屋根を破壊

徐々に犯人たちを無力化していった

午後6時20分、犯人5名を逮捕、人質も無事に救助された

 

白田兄弟の活躍は、その後30年間も世間に公表されなかった

連合赤軍からの報復を避けるための警察の配慮

2人も誰にも口外しなかった

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