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金スマで紹介された やしきたかじん 最期の2年間

 

2013年1月3日、やしきたかじんは、食道がんでこの世を去った

 

2度の離婚に加え、流した浮世の数々

常に何人もの遊び相手が彼の周りにいた

その交友関係は幅広く芸能人はもちろんホームレスにも友人がいたという

安倍首相は彼を友人と呼び、橋本大阪市長は恩人と語った

彼の信条は、人生太く短く

酒もタバコも浴びるほど、60歳で死んでもいい が彼の口癖だった

 

たかじんの莫大な遺産を狙った疑惑の未亡人として週刊誌を賑わせた女性:さくら

出会ったのは、ちょうど がんが発覚した2年前

その年の差は30歳以上、そして亡くなるわずか3か月前に結婚

事実だけを見ると遺産狙いと言われるだけの根拠が列挙する

 

やしきたかじんが誰とも連絡を取らずにこの世を去った理由

これは本人の意志ではなく若妻による洗脳ではないか?と言われている

 

●誰も知らない たかじん 最期の2年間

 

2011年、20代前半からアメリカに留学し、

28歳でイタリアに渡った森田さくらはネイルサロンを経営

イタリアに永住するつもりだった

ある日、Facebookに見知らぬ男性からメッセージが届いた

男性とさくらを結びつけたのは犬好きのサイトだった

“かわいい犬ですね”“犬がお好きなんですか?”

男性は漢字で家鋪隆仁と名乗り、年齢は62歳

海外での暮らしが長いさくらは「やしきたかじん」を知らず、

男性のことを犬好きのおじさんと思い、メールをやり取りする間柄になっていった

 

Facebookの出会いから2ヵ月が経った2011年12月25日、

さくらは妹の出産のために、一時 帰国、友人と大阪で食事をしていた

たかじんからクリスマスパーティに誘われたさくらは、友人と別れ、

顔を出したらすぐに帰ろう、そんな気持ちで向かう事にした

この時点で たかじんはさくらの顔を知らない

Facebokには犬の写真しか載せていなかった

たかじんはどんな女性が来るのか?ゲーム感覚で楽しんでいたのかもしれない

会場に入り、場違いな雰囲気に帰ろうとした時、たかじんに呼び止められた

「たかじんです。はじめまして」「さくらです。はじめまして」

さくらは たかじんのことを本当に知らなかった様子

「よし今日はさくらちゃんの為に歌う」

たかじんは自身の「♪順子」を歌い、歌詞の「順子」を「さくら」に替えて歌った

 

たかじんと親友の松本哲朗氏によると、

「たかじんの昔の彼女とさくらが激似だった」という

 

帰り際、さくらはタクシー代として1万円を貰った

お小遣いのつもりなの?たかじんとの初めての出会いの印象は最悪だった

 

2011年12月30日、お金を返す事が目的で再び会う事に

「妹さんおめでと。ほな自己紹介させて。僕はテレビに出る仕事をしている歌手やけど売れてません。実は離婚は2回、子供も大きいのがおる」

たかじんは、ほぼ初対面のさくらに対し、自分の過去を赤裸々に語った

そして食事が終わると

「妹さんにお祝いを用意したんやけど、家に取りにこうへん?」

あまりのしつこさに根負けしたさくらは、「じゃぁ受け取ったら帰りますから」

たかじんのマンションに行くと、本当に出産祝いがあった

「ビデオも観て」と見せられたのは、たかじんが出演する番組

そしてパジャマに着替えてきた たかじんは、おもむろに土下座し、

「僕はテレビの中やったらあんなやけど、実際はこんな人間や。でも初めてさくらちゃんに会うた時、これやと思た」

「どういう意味ですか?」

「実は昔すごく好きやった女の人がいてその人にそっくりなんや」

「そうですか」「僕は62歳でこの先 何年 生きられるか、分からへんけど、あなたを最期の女に決めました。だから結婚してください」

「すぐに返事ができないなら結婚を前提に僕と付き合ってもらえないか?」

すると、突然苦しみだした たかじんはトイレに走っていった

「どこか悪いんですか?」「心臓、狭心症らしいわ。時々痛くなるから薬飲んでる」

しかし薬を飲んでも症状は治まらない

心配になった さくらは薬を念のためネットで調べた

薬を飲めば狭心症の痛みはすぐに治まると書いてあった

「もしかしたら狭心症じゃないかもしれません。一度 精密検査をしてもらった方が…」

「分かった。年が明けたら検査に行く」

「今日はゆっくり寝てください。帰ります」

 

2012年元日、“今日は元旦なのに誰とも会わず喋らずの一日でした。明日会いたいです。ウチでおでん作って待ってます”

元日に一人、その文面からは寂しさが伝わってきた

お互い暇だったお正月、2人は毎日のように会った

当然ながらたかじんの話は面白く、

さくらが彼に惹かれるのに時間はかからなかった

そしていつからか交際に発展

 

2012年1月16日、病院で検査したところ食道がんが発覚

「食道がんだった」「どの程度のがんなの?」

「細胞とって1週間後に良性か?悪性か?分かるらしいわ」

さくらはイタリアに帰るのを止め、しばらく日本にいる事を決意

がんが発覚して間もなく、たかじんはさくらを京都に誘った

京都は たかじんが青春時代を過ごした場所

旅の目的は、友人たちを紹介するため

そして検査の結果が出た「やしきさんの食道がんはステージ3です」

5年生存率30%以下、進行がんだった

 

思い詰めたたかじんは

「ステージ3ゆうたら死ぬやんか。あと2ヵ月で死ぬんや」

「手術して治療したら…」

「あと2ヵ月、毎日飲み歩いて新地で死にたい。それが やしきたかじんや。最後までむちゃくちゃして死んでいくような男やないとあかんのや。みじめたらしく命にしがみつくような情けない姿はみせたくない」

翌日、さくらはメールを送った

“じ んちゃんがそういう考えであれば さくらは支えることが出来ません。私が好きになったのは目の前の家鋪隆仁でみんなの やしきたかじんではない。だから治る可能性があるのに元気になる可能性があるのに、一緒にいられる時間が長くなる可能性があるのに、そっちのやしきたかじ んの生き方を望むなら、もう私には何もできません”

そしてたかじんは「治療したいから支えて欲しい…」

彼はさくらという存在を得て、孤独から解放された

その夜、公式サイトでがんを告白し、休養宣言

 

 

2012年4月9日、手術当日

食道の大部分を切除した後、胃を伸ばして残った食道につなげる手術

手術は無事に成功

しかし肉が付着せず、再手術

さくらはICUに泊まり込みで たかじんの介護をする事に

夜は決まって譫妄でうなされるたかじんから一時も目が離せないため、

睡眠はほとんどとっていなかった

 

担当した看護師によると、ナースたちの間で あの女性の目的ってやっぱりお金かなぁと話したこともあります。でもその後の、さくらさんを見ているとお金目的ではとてもできる事じゃないと思いました。本気でたかじんさんを愛しているのが分かりました、と語っている

 

たかじんの手記には、“さくらは金やなしに普通の愛情でうんこも汚いモノもようやってる おかしい 変わってる?普通やない 何が好きで自分からしんどいことするんや 優しい 育ちの良さか?誰より優しくしてくれた 長生きしな 恩返ししなあかん 僕がさくらのめんどうみる”

 

2012年7月、散歩中の2人をFRIDAYにスクープされてしまった

さくらの存在は公になり疑惑の女としてマスコミがマークするようになる

そして彼の死後、ありもしない事実が並べられることになるが、

どんな誹謗中傷を受けてもさくらが口を開く事は一切なかった

 

2012年夏、週刊誌にスクープされた後、

2人は東京を離れ、極秘で北海道に渡った

 

2012年11月20日、ハワイへ

ホノルルには、たかじんが所有するコンドミニアムがある

大好きなハワイで日に日に体力を回復していった たかじんは、

ゴルフまで出来るようになっていた

このハワイでたかじんはたくさんの手記を残している

 

2013年2月、復帰に向けて帰国

そして たかじんは1年ぶりにテレビへ復帰

 

2013年4月30日、復帰して1ヶ月、胸に違和感があった

気管支の近くに3つ、がんが再発していた

医師からは半年の命と宣告、さくらは過呼吸になるほど泣いた

その後、放射線治療と抗がん剤治療を行ったが、体調は悪化していった

さくらは突発性難聴を発症、手術すれば治ると言われたが、

たかじんを看られるのは、さくらしかいなかった

さくらは手術せずに24時間 介護、引き換えに左耳の聴力は失われた

 

2013年10月10日、2人はついに結婚

その2日後、たかじんはさくらが買い物に行っている間に、ある歌をi-Padに吹き込んだ

それは初めて会った日に、たかじんがさくらに歌った「♪順子」

あの日と同じように「順子」を「さくら」に替えて歌った

結婚して間もなく腹部にハリを感じ始めた

医師からは「長くても2ヵ月でしょう」と宣告

それから間もなく、さくらは「誰か会いたい人はいないの?」「おらん」

「何かやりたいことは?」「ない」そして…

「最後まで一緒にいて欲しい。僕にはさくらしかおらん」

 

2013年12月26日、緩和病棟へ、そこには立派な教会があった

すると たかじんは「結婚式 ハワイでしたかったけど、多分もういかれへんと思うからここで誓っとこう」

「やしきたかじんは健やかなる時も病んでいる時もって、もう病んでいるねん。やしきたかじんはイタリアの神様から貰うたさくらを妻として愛し続けます」

病室に入ると「ひとつだけ心残りがあるなぁ。もっと元気なうちにさくらのこともっと抱いていたら良かった」

出会ってから2年間、2人の間に肉体関係は一度もなかったという

 

2014年1月1日、“くやしい くやしい 元旦に死ぬんはシャレにならん”

 

2013年1月3日、日付が変わった頃、彼は愛する妻:さくらの胸に抱かれて逝った

 

生前、たかじんがさくらの誕生日に送った手紙には

“何 万語、何億語 言葉を探しても出てくる言葉は「さくら ありがとう」こんな苦難な一年を僕以上に乗り越えてくれて 戦ってくれて 僕にとって心の支えになってくれて本当にありがとう。誕生日にまた何もできないけど必ず元気になってハニーと楽しい時間を迎えるから待っていてね”

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●白血病の少女の夢を叶えた結婚式

1995年、サンディエゴでレズリー・リビエラは生まれた

両親と姉と幸せな4人家族

レズリーは地元でも有数の進学校に進んだ

成績は常にトップクラス

学校が終わると病院でボランティア

 

17歳のある日、体中に実に覚えのない痣が出来ていた

すぐに病院で検査をすると、白血病と宣告

絶対に死にたくない

そう思うレズリーには、お嫁さんになる夢があった

18歳になったら結婚しようと約束した恋人:ダニエルがいた

 

転校してきたダニエルを親切に校内を案内したのが出会いのキッカケだった

以来、2人の距離は急激に縮まり、ついには結婚を決意

その想いをすでにレズリーの両親にも伝えていた

 

大好きな彼と結婚したい、その夢を絶対に諦めたくない

後日、詳しい検査をすると医師は治せる白血病と診断

すぐに治療がはじまり、抗がん剤の投与が行われた

しかし抗がん剤の服採用はレズリーを苦しめる

吐き気、倦怠感、抜け毛…

そんなレズリーを支えたのが、恋人のダニエル

髪が抜けて坊主頭にしたレズリーに付き合ってダニエルも坊主になった

 

2013年7月、18歳の誕生日を迎えると2人は結婚式の準備を始めた

白血病を治し誰もが結婚式を挙げられると信じていたが、

血液中のガン細胞が医師の予想を上回るよりスピードで増殖

しかも臓器への転移も確認された

医師はこれ以上の治療を勧めなかった

全身にガンが転移し始め、耐えられない痛みが背中に走る

もはや結婚式どころではなくなっていた

それでも「私 結婚したい…」

両親は悲しみに暮れながらも、レズリーの夢…

ウェディングドレスを着て幸せな結婚式をする、

という夢を叶えてやりたいと思い、ダニエルと共に動き出す

 

ダニエルは学校にお願いし、結婚式の参列者を募った

苦しみに耐え、痛みに耐え、

ついに子供の頃から憧れだった結婚式当日を迎えた

 

2013年11月21日、レズリーは家族が見守る中、準備を整えていく

レズリーは憧れのウェディングドレスを着て、父とバージンロードを歩いた

ダニエルもレズリーとの結婚式を心から喜んだ

幸せそうな2人を多くの参列者が祝った

 

 

結婚式を終えたレズリーは、こう語った

「思い残す事はありません。だって諦めていた夢が叶ったんですから、とても幸せです」

 

その結婚式からわずか2週間後、レズリーは静かにこの世を去った

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●トンガの若者の夢をかなえた日本人:又平直子

1958年、静岡で生まれる

明るく活発で誰からも好かれる性格だった

高校の時にアメリカに留学

大学卒業後は得意の英語を活かして通訳や翻訳の仕事をしていた

1990年、旅行で初めてトンガを訪れる

32歳の直子は運命的な出会いをはたす

旅行中、町の美容室に立ち寄った

髪を洗ってもらおうとしたその時、男性:タシ・アフェアが現れる

トンガ人としては細身ながら相撲を習う親日家でもあった

こんな美しい女性 もう二度と逢えないかもしれない、と

一目惚れしたタシは直子に猛烈にアタック

タシの想いが届き、2人は交際を始めた

 

帰国した直子はタシと2年間の遠距離恋愛を経て、1992年に結婚

結婚を機にタシが来日、

東京の練馬区にあった小さなアパートで新婚生活を始める

そして直子の英語力とタシの人脈を生かし、

日本から南太平洋諸国への旅行をサポートする会社を設立

しかし日本人にとって馴染みのない国々…中々仕事は入ってこなかった

そんな中、直子は英会話講師のバイトをしてお金を稼ぎ、

タシは築地の魚河岸で働いた

 

お酒が好きなタシは毎日飲んで帰ってきた

生活が豊かでないにもかかわらずタシは仲間たちによくおごってしまい、

その事でケンカが絶えなかった

そんなケンカを重ねつつも、何とか旅行会社が軌道にのりかけた頃…

 

1995年1月17日、阪神淡路大震災

惨状をテレビで見ていたタシは「神戸に行ってくる」

「今から?仕事はどうするの?」

「直子、今はそんな事を言ってる場合じゃないだろ」

タシは全ての仕事を直子に任せ、神戸に旅立った

何の当てもなく神戸に行ったタシは懸命に被災者のために働いた

 

翌年、帰ってきたタシは、末期の肺ガンが判明

すでに手の施しようがない状態、余命2ヶ月宣告された

タシの希望もあり2人はトンガに戻る事に…

トンガの病床で献身的に看病する直子

そして最後が迫ったある日…

「トンガには体型に恵まれた人が多いだろ。俺は彼らを日本のスポーツで活躍させてあげたかった」

それからしばらくしてタシは息を引き取った

 

異国の地トンガで夫に先立たれて1人になった直子

夫は誰よりも日本を愛してくれた。今度は私がトンガの人達の為に頑張ろう。夫の意志は私が継ぐ。トンガ人が日本のスポーツで活躍する環境をつくりたい

亡き夫の夢を叶えるため、自分がトンガの人たちの為に頑張る事を決意

しかし日本の大学に電話しても

未知なる国の選手を簡単に受け入れてくれるはずはない

何度断られようが諦めることなく電話をかけ続ける日々

 

さらにラグビーボールやスパイクなどの道具を買い揃え、

トンガのチームに寄付をしていた

そうした活動資金を工面するため借金してトンガにゲストハウスを建てた

その名前はネリマロッジ

そのロッジで直子は働きながら、

才能があっても貧しい選手たちを自宅に引き取り面倒も見ていた

 

こうして直子はできる限りの力でトンガのスポーツを支えた

そして直子が日本の大学に交渉を初めてから5年後…

トンガ人のラグビー選手を受け入れてくることに

 

2001年4月、直子の仲介により日本大学にトンガ人のラグビー選手が入学

ネリマロッジで面倒を見たタウファ選手は、日本で活躍し、日本人へと帰化、

今ではラグビー日本代表に選ばれるまでに

さらに直子は2人のトンガ人力士を日本の相撲部屋に入れた

亡き夫の夢を叶えた矢先、直子に末期の肺ガンが発覚

2010年6月、直子はトンガで静かに息を引き取った

彼女の墓には今なお感謝の想いを込めて多くの花が手向けられている

直子の想いを継ぐ選手たちが次のトンガ人選手を呼ぶようになり、

今では日本ラグビー界で70人以上のトンガ人が活躍するほどに

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奇跡体験!アンビリバボーで紹介

イギリス コーンウォール州に住むカップル

軍隊に所属するニックと教師のエイミー

高校で出会い、すぐに恋に落ちた2人は、8年間の交際を経て2013年に婚約

2014年7月に結婚式を挙げる予定だった

結婚式を数週間後に控えたある日

2人がニックの祖父母の家に結婚の挨拶に訪れた時だった

何気なくエイミーがアルバムを見ていた時、

エイミーが「この写真って?」

それは20年前にニック家族が海へ行った時、

砂遊びをする子供たちを撮った写真だった

思い出したエイミーは「ニック…私達やっぱり運命で結ばれていたのよ」

「えっ?」「あなたの後ろに写っている私なの!」

 

●運命の赤い糸で結ばれたニックとエイミー

 

2人は高校で出会う11年前に、すでに出会っていた

当時、ニックは現在いるコーンウォール州から600㎞離れたケント州に住んでいた

家族旅行でたまたま離れたコーンウォール州を訪れ、ビーチで写真を撮影

しかもそのマウスホールビーチは、ニック家族が初めて訪れた場所だった

そのビーチこそ、エイミーの自宅のすぐそばにあった

その日、たまたま海に遊びに来ていたエイミーが、

ニックの写真に偶然写り込んだ

 

 

さらに写真の右側にはニックの家族、

左側にはエイミーとエイミーの家族が、両家が揃って写っている

20年後の未来を予知した奇跡の写真だった

そして2014年7月26日、ニックとエイミーは念願の結婚式を挙げた

2人が選んだ式場は、20年前に初めて出会った 思い出のビーチに建つ教会

 

「最初 写真を見たときは何かの冗談だと思いました。たまたまとられた写真にたまたま私が写り込むなんて…やっぱり運命の赤い糸はあるんだと思いました」とエイミーは後に語っている

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●リヤカーを引いて行商をする倉子お婆ちゃん

 

佐藤倉子さん 84歳

住んでいるのは山形県鶴岡市由良

 

小さな港町で総重量70キロのリヤカーを引き、魚を売り歩く行商人をしている

この町は高齢者が多く、買い物に行けない人が多いため

倉子さんが一軒一軒訪問して販売している

 

そんな倉子さんがこの年まで働くもう一つの理由が…ある

今から61年前、漁師の常雄さんと結婚

4人の子供を育てるため倉子さんも地元で行商を始めた

 

そして34歳の時、夫と2人で鮮魚店をオープン

苗字の佐藤の佐と倉子さんの倉をとった佐倉商店

夫婦2人で懸命に働いた

倉子さんが58歳の時には、店を増築し長男が寿司店を開店

家族で支え合い幸せな生活を送っていた

 

しかし2001年の秋、夫:常雄さんが心筋梗塞で突然倒れ、74歳で他界

さらにその2年後、長男も食道がんを患い、この世を去った

わずか2年間で夫と長男を失った倉子さん

そんな倉子さんに遺されたのは、

長男が寿司店開店のために作った借金1100万円

借金の保証人は倉子さんだった

この時、72歳…年齢を考えるなら店をたたみ自己破産という方法もあったが、

佐倉商店を開店した時、夫:常雄さんから言われた言葉を思い出した

「これは2人の店だ。店の名前は佐倉商店にしよう」

夫が自分の為に遺してくれた店を守りたい

借金1100万円を働いて返済する事を決意した

返済は月々12万円

朝は4時に起き、市場へ。セリも倉子子さんがこなす

毎日70キロのリヤカーを引き、5㎞の道のりを歩く

帰宅すると次の日に売るための魚をさばき、気付けば夜中に

睡眠時間はわずか3時間程度

足は腫れあがり歩くのもの辛い

それでも…「今でも(夫に)恋をしてるんです」

亡き夫と長男の為に雨の日も雪の日もリヤカーを引き、必死で働いた

月々12万円を返し続け、1100万円の借金を1人で見事完済した

(1951)

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