偉業」カテゴリーアーカイブ

●カンボジアの飲める水道水を作った日本の公務員

メコン川のほとりにあるカンボジアの首都プノンペン

20年にも及んだ内戦の傷を乗り越え、その象徴ともいえるのが水道

メコンの水を浄化しているプロンペンの水道は、水質がよく飲める

安全と美味しさの秘密は徹底した水質管理にある

WHOの基準では濁り度5度以下が安全、プノンペンの水道水は0.41度

プロンペンの奇跡と呼ばれている

 

1999年、内戦の痛手を負ったプロンペンでは、

水道インフラの整備が緊急の課題だった

カンボジア政府は技術者の派遣を日本に要請

だが地雷の撤去もままならない国には誰も行きたがらなかった

 

唯一、手を挙げたのが北九州市

最初に派遣されたのが、市の職員 下水道局:久保田和也

当時、カンボジアでは各国の支援で水道管こそ通り始めていたものの、

水の浄化までは手が回っていなかった

蛇口からは薄い出がらしのお茶みたいな水が流れていた

 

久保田は、プロンペンの水道公社の総裁に訴えた

「一日も早く飲める水道水に変えましょう」「ここは日本じゃない」

まだ水道が無い地域では、

水汲み労働の為に1日費やす女性や子供がたくさんいる

彼らを重労働から解放するのが先決で飲める飲めないは二の次

 

その頃、プロンペンでは漏水も深刻な問題だった

水道管から水が漏れ、家庭の届く水が7割も消えていた

久保田は総裁に提案する

 

町を巡る1千キロの水道管にメーターを取り付け、

ブロックごとにコンピューターで管理すれば、

どこで漏水が起きているか?一目瞭然である

北九州市では当時 日本で最新の管理システムを開発していた

しかしカンボジア人にハイテクは無理だと誰からもムリだと否定された

久保田は根気よく説得し始めた

そこに助っ人として加わったのが、漏水管理システムの生みの親:木山聡

システムの設置から運用のトレーニングまで、辛いハードワーク

祖国復興を願うカンボジアののスタッフは、真剣だった

2001年、システムが漏水システムが完成した

 

さらに日本からの公的援助により、浄水場も完備

安全・安心な水道水が市内 ほぼ全ての家に供給できるようになった時、

総裁は高らかに宣言した「プノンペンの水道は安全です」と

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世界一受けたい授業で紹介

●ゴミから風力発電機を作ったウィリアム・カムクワンバ君

アフリカ南部の国:マラウイ共和国は、

2002年、7000人の死者を出す史上最悪の干ばつに見舞われた

当時、14歳だったウィリアム・カムクワンバ君は、

ゴミ捨て場から拾い集めた自転車などを使い、

風力発電機を作り、村の人々に勇気と希望を与えた

 

マラウイの電気の普及率は約2%

干ばつで失意のどん底にあった村人たちの役に立ちたい、

そう考えたウイリアム君は、たまたま本で見かけた風力発電機を

捨てられていた自転車などを使って見よう見まねで組み立てた

その試みは見事 成功、村人に光と笑顔をもたらせた

 

現在は5つの風力発電機が稼働しており、

将来的には電力で地下水を汲み上げ、

干ばつの中でも水を確保する給水設備を作る事を目指している

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世界一受けたい授業で紹介

 

12歳で国際支援活動:フリー・ザ・チルドレンを設立

世界で100万人以上の命を救ったクレイグ・キールバーガー

 

12歳で立ち上げて右も左もわからない頃、マザー・テレサと出会った

「私達は偉大な事は出来ません。しかし小さなことを偉大な愛情を持ってする事は出来るのです」

マザー・テレサから言われた、

この言葉を胸に20年間 地道に活動を続けてきた

 

●井戸と浄水施設を作り、世界100万人の命を救った

 

世界では8億6千万人もの人がキレイな水を飲むことができない

そして毎日、4千人の子供たちが

キレイな水を飲めない事で命を落としている

子供たちの病気の原因の約80%は、

不衛生な水や下水システムにある

 

さらに井戸がなければ毎日 遠く離れた川に水を汲みに

行かなければならないので、子供たちは学校に行けない

 

クレイグが運営するフリー・ザ・チルドレンは、

世界中に100カ所の以上の井戸や浄水施設を作った

また教育を受けられない子供たちの為に650の学校を建て、

約5万5千人が毎日 通学している

 

●発足のキッカケは、12歳で暗殺されたイクバル君

パキスタン人のイクバル・マシー君

学校にも行けず児童労働を強いられている

子供の支援を世界に訴えたことで12歳で暗殺された

当時、同い年で亡くなった彼をニュースで知り、

社会の為に立ち上がろうと決意した

マララを支援するのも、彼女の行動がイクバル君と重なるから

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ありえへん∞世界で紹介

●異色の日銀マンと呼ばれた日本銀行 神戸支店長:遠藤勝裕

1945年、疎開先の山形で生まれた

戦後、復興が進む東京で幼少期を過ごした

そして高校2年生の時、人生を左右する1冊の本と出会う

それは城山三郎の著書「小説 日本銀行」

若手日銀マンが戦後のインフレに苦しむ貧しい人々の為、

何ができるかを考え奮闘する物語

 

日銀に入って困っている人々を救いたい

その思いを胸に早稲田大学 政治経済学部へ入学

晴れて憧れの日銀へ入行

順調に出世していく遠藤だったが、初心を忘れる事はなかった

 

1991年、日銀青森支店長の時、

台風19号によってリンゴ農家が壊滅的な被害を受けた

すると遠藤は、日銀の業務を逸脱し、農家からリンゴを

大型トラック1台分買い取り、東京銀座で自ら袋詰めして無料で配布した

並んでいる人々に青森のリンゴをアピールして農家を励ました

1994年、日銀神戸支店長に就任

 

1995年1月17日、阪神・淡路大震災、激しい縦揺れが発生

遠藤の脳裏には,

ロサンゼルス地震で起きた生活物資を強奪し合う金融パニックが浮かんだ

皆にお金が渡るような環境を整え、金融パニックを絶対に防いでみせる、

そう決意した遠藤は、ある行動を起こした

支店に午前7時に到着、日銀の中は当然 大パニックだった

日銀の支店の金庫には緊急事態にも

他の銀行にお金が無くならないよう常に大量の現金が保管されていた

しかし日銀は無事でも建物自体が潰れてしまい、

物理的に業務を行えない銀行も多かった

遠藤は建物が潰れてしまった銀行の為に

日銀の中に、その銀行の臨時窓口を造った

手書きの張り紙の臨時窓口 14行

それは戦後 日銀初めての事だった

 

お金をおろそうにも家事や建物の倒壊で

通帳や印鑑を無くした人々が数多くいた

預金があり銀行が営業していてもお金をおろす事が

出来ない人々の為に、遠藤は金融特別措置を出した

遠藤が実際に手書きで書いたその1行目には、

“預金証書、通帳を紛失した場合でも預金者であることを確認して払い戻しに応じること”

何もない場合は、口頭での確認も信じて応じてくれと各銀行に訴えた

「もし嘘をつかれたらどうするんですか?」という質問に

「義援金だと思って渡してあげて下さい」

こうした遠藤の常識破りの行動により、

お金の面で大きな混乱が起こる事はなかった

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ありえへん∞世界で紹介

非暴力で自らの命を削り独立を成し遂げたガンジー

そんなガンジーと同じように慕われる日本人がいる

●インドでガンジーのように慕われるグリーンファーザー

大正8年、福岡県で3人兄弟の長男として生まれた杉山龍丸

祖父:茂丸は明治時代 政財界で活躍し、

初代総理大臣 伊藤博文の懐刀と呼ばれた大物

父:泰道は、ペンネーム:夢野久作の名で知られる作家

さらに杉山家は福岡に4万6千坪にも及ぶ広大な農地:杉山農園を所有

泰道は、そこで様々な作物を育てていた

そんな名家に生まれた龍丸は物心がついた頃には、

農園で父の畑仕事の手伝いをしていた

「アジアの困っている人々の為にこの農園を使え」

と父によく言い聞かされていた

 

16歳の時、1年の間に祖父:茂丸、父:泰道が共に脳溢血で急死

龍丸は突如 名家を背負う事になった

18歳になった龍丸は、家族の生活費を得るため、

給料の出る軍の士官学校に入学

卒業する年に太平洋戦争が勃発、飛行機の整備隊長として戦地へ赴任

戦争で銃弾が肺を貫通する重傷を負い、生死の狭間をさまよった

戦争から帰ってきた龍丸は、

厚生省援護局で問い合わせに来た家族に兵士たち生死を伝える仕事を就いた

 

その後、龍丸は光子と結婚

福岡に戻り2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っていた

36歳の時、士官学校時代の友人が訪ねてきた

「この子の面倒を見て欲しいんだ」

友人が連れてきていたのは16歳のインド人

「この子を住まわせてもらって農業のノウハウを教えてやって欲しいんだ」

龍丸はインド人の留学生を快く受け入れる事にした

インド人の青年は厳しい畑仕事に根を上げる事もなく、

技術を習得しようと人一倍働いた

「どうしてそんなに頑張れるんだ?」

「農業の技術を身につけインドに戻り飢えている人々を助けたいんです」

当時、慢性的な食料不足と度重なる飢饉で多くの人が命を落としていた

やがて龍丸もインドの困っている人たちを助けたい、そう思うように

 

42歳の時、初めてインドへと飛び立つ

飛行機から見下ろすインドは、見渡す限り荒れ果てていた

この国は農作物が育つ環境から整えなければいけない

荒れ果てた土地に緑を…それが最初に掲げた目標だった

その足ががかりに彼が選んだ場所が、デリーとアムリッツァルを結ぶ国際道路

やはり そこは見渡す限り荒れ果てた土地が広がっていた

龍丸は、道沿いにユーカリの木を植林する事にした

ユーカリは根が深く水を吸い上げる力が強い

ユーカリの木を植林する事で地中に張った根が水を貯め、土壌を潤す

龍丸は周辺の村へ植林を手伝ってもらうようお願いしに行った

しかし日本人の言葉など簡単に受け入れる筈もなかった

龍丸は諦めることなく自ら鍬を握り、植林を始めた

不可能と思わなければ全て可能だ、と不屈の精神で植林を続けた

そんなひたむきな龍丸の姿は、次第に村人の心も動かした

村人たちが次々に龍丸の植林を手伝うようになっていった

 

そして今、かつて不毛の土地と言われた国際道路は、

15mにも達する緑のユーカリが連なっている

その街路樹が並ぶ道のりは、470㎞にも及ぶ、その数、26万本

ユーカリは地下水を吸い上げ、大地を潤し、

そのおかげで周辺では稲作をはじめ、麦や芋の栽培も可能となった

国際道路沿いの緑化に成功した龍丸は、インドの人々に緑の父と称えられた

 

そんなある日、龍丸はインドの州政府に呼び出された

「あなたの力でシュワリックレンジを救ってもらえませんか?」

シュワリックレンジとは、ヒマラヤ山脈の裾野に広がる全長3000㎞に及ぶ地帯

そこは斜面の土が乾き、大規模な土砂崩れが長年置き続けている荒れ果てた丘

「私でよければ全力で引き受けさせてもらいます」

 

龍丸は現地に赴き、状況を見て回った

そこで見つけたのが、サダバールという植物

乾燥した土地でも2~3ヵ月で根を張る生命力の強い植物

サダバールを植えて土砂の崩落を止め、

土壌が安定してから他の木を植樹すれば良いと考えた

50歳を超え、銃弾が灰を貫通した後遺症がひどくなる中、

龍丸は先頭に立ち働き続けた

現地の人達の手伝いもあり軌道に乗った植林

そんな時に、インドで大規模な干ばつが起きた

雨期になっても雨が降らず、作物は枯れ深刻な食糧不足に陥った

国の緊急事態で州政府からの援助はストップ

植林を進める資金が足りない状態になった

龍丸は国連本部に足を運び、何のツテもない中、援助を願い出た

インド政府は餓死者の数を把握できない状況だったため餓死者をゼロと発表していた

国連は、餓死者がいないのに援助はできないと判断

龍丸は、福岡に残していた4万6千坪の農園をすべて売却

その額は現在の価値で100億円以上

「農園をアジアの人のために使え」父の言葉を体現した

全財産を投げ打ち、シュワリックレンジの緑化を進めた

1987年、龍丸は脳溢血で他界 享年68

インドを緑にするために人生を捧げ、

志半ばで この世を去り福岡の墓地で安らかに眠っている

しかし龍丸がいなくなってからもインドの人達は、龍丸の意志を継ぎ、

シュワリックレンジの植林を続けた

 

そして現在、かつて不毛の土地と呼ばれた土地は、一面 見事な緑の木々に覆われている

土砂の崩落はなくなり、荒れ果てた土地が生まれ変わった

インド全土で龍丸の緑化技術は広まり、農作物の生産量は当時の約3倍に上昇

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