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1995年夏、九州弁護士会連合会に手紙が届く
その内容は、らい予防法が人権無視 存続理由のない法案と言われだして どれだけの歳月を空費してきたことだろう ハンセン病患者は、無実の死刑囚にも匹敵する
 
らい予防法が世間から強制隔離していたのは、ハンセン病
この病は、皮膚や神経に症状が現れる感染症で感染すると国により強制的に隔離、療養所に留められ、結婚、出産はもちろん社会との関係を一切絶たれた
しかし実際は、感染力が極めて弱いだけでなく、昭和18年にはアメリカで特効薬が開発、治る病気であることも大昔に分かっていたが、ハンセン病患者を隔離する法律は、現代まで廃止されなかった
世界中でハンセン病に対する見直しが行われる中、なぜか日本だけ全国13か所の施設で平成になっても約6700人を隔離
戦前に作られた法律が、間違っていると分かりながら、現代まで放置し、患者たちを隔離し続けていた
 
手紙は、徳田靖之弁護士に届いた
徳田弁護士は、薬害エイズ訴訟で原告団の中心として国と戦い、厚生大臣が謝罪、他にも数々の大事件を担当した正義の弁護士
弁護士としてこの問題を知っておきながら何もしてこなかった自分を恥じた
徳田は、すぐにハンセン病患者の療養所を訪れ、自分たちが歩んできた人生を返してくれという元ハンセン病患者の思いを聞き、自ら弁護をさせてくれと逆に依頼した
この裁判で負けるようだったら日本で弁護士をやっている意味はない
裁判で戦うために九州の弁護士一人一人に手紙を出し、137人の弁護士が集まった
1998年7月、国家賠償を求めた裁判が熊本地方裁判所で行われた
この裁判で徳田が求めたのは、
1、治療法が確立しているのに元患者たちを隔離したらい予防法は違憲、つまり間違いを認めること
2、この法律によって人生を奪われた元患者への賠償と謝罪
1998年11月、第一回口頭弁論は、元患者の衝撃的な証言から始まった
私たちハンセン病療養所の入所者は、日本国民ではないのでしょうか?と
親族の死以外、外出は禁止
免許証もパスポートも取りに行くことができなかった
裁判で次々と明かされたのは、世間が知らなかったらい予防法の実態だった
しかし圧倒的に証言してくれる元患者が少ない
徳田は原告探しのため、全国のハンセン病療養所を駆け回った
結果、当初13人だった原告が586人に増えた
2001年5月11日、熊本地裁は、らい予防法は間違いであることを認め、間違った法律を放置した国を断罪した
国は、らい予防法が間違いと認めるわけにはいかない、必ず控訴してくる。元患者は高齢、最高裁まで待てない、彼らが元気なうちに決着をつけるには、どうしたらいいか?控訴させないよう国を説得しかない、と徳田は考えた
 
2001年4月26日、世論の圧倒的支持を得て、第一次 小泉内閣が誕生
判決から控訴までの期限は14日間、国が控訴しなければ裁判は終了
その判断は、小泉内閣に委ねられた
徳田は、自民党の重鎮 野中広務 元幹事長と会う
元患者たちの話を坂口厚生労働大臣に聞いて頂きたいとお願いした
野口は、すぐに坂口と出会えるように手配してくれた
ところが坂口大臣が元患者に会う直前、厚生労働省の官僚が坂口を説得
官僚は、国の負けを認められないという考えだった
坂口大臣は、官僚の反対を押し切り、元患者と面会した
医師でもある坂口大臣は、元患者の話に真剣に耳を傾けた
判決後、初の閣議が行われる
そこで「ハンセン病の裁判のこと、どうお考えですか?」と小泉総理が聞き、「私は控訴断念だと思っております」と坂口大臣は答えた
国が法津の間違いを認め、、控訴しなかった事例はない
 
事態は一向に進展しない
どんどん過ぎていく時間
残された手段は、小泉総理への直談判
全国から官邸前に集まった元患者たちの数は、100人
それでも小泉総理は、元患者と会わない
控訴期限まで残り2日となった5月23日朝、坂口大臣が辞意
元患者の話を受けた坂口大臣は、自身の進退をかけて小泉総理を説得しようとしていた
 
そして福田康夫官房長官が坂口大臣を呼び出す
「控訴断念という考えに変わりはないですか?」
「変わりません」
「厚労の考えはどうですか?」
「官僚の考えは、別です」
「大臣の考えと官僚の考えとどちらが厚労省としての考えですか?」
「私が厚生労働大臣です。私の考えが厚生労働省の考えです」
坂口大臣は改めて控訴断念の考えを伝えた
午後4時、小泉総理と面会
ただ元患者の話を聞いていた小泉総理
10分の予定だった面会時間が、40分にも及んだ
午後6時、坂口大臣と森山法務大臣を官邸に呼び、
「法務大臣は大丈夫ですか?」
「総理が決断なさるなら私は大丈夫です」
「坂口さんは?」
「依存ございません」
両大臣の考えを再確認したのち、小泉総理は一人 部屋を出て、囲み取材に答える
「今回の判決を重く受け止め、極めて異例な判断ですが、政府声明を出して控訴を行わないことに決定いたしました。ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決を図りたいと思いました」
 
弁護士たちの思いが、国を動かした

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ノーベル医学・生理学賞を受賞した北里大学:大村智

 

1935年、山梨県韮崎市神山村

村の有力者である父と小学校教師だった母の間に生まれた5人兄弟の長男

喧嘩っ早いガキ大将だったが、家の中では、違っていた

寝る前は必ず家族全員の下に行き、正座して

「お父様 おやすみなさい」「お母様 おやすみなさい」を言う

親のしつけも厳しく、食事も家族全員が揃わなければ始まらなかった

 

学校以外の時間は農作業(家の仕事)を手伝っていた

ある日、落ち葉などを拾い、堆肥を作っていた時のこと、

微生物の力で発酵し、60℃近くにもなる堆肥に触れた

これが最初に科学に目覚めた瞬間だった

 

●「人のためになるってことが大事なんだよ」

祖母が口癖のように語っていた言葉だった

人のためを体現していたのは、他ならない父親だった

当時、村には水道がなかった

そこで地下水を引き、簡易水道を張り巡らせ、

村のために無償で提供したという

 

英語は必ず必要になると戦時中にもかかわらず、

親が英語の勉強にこだわった

 

高校時代は卓球の国体選手に

山梨大学時代はスキーに没頭し、国体選手に

農業とスポーツ、勉強は少し…

卒業後は上京し、工業高校 定時制の教師となった

生徒から信頼が厚かったという

 

・研究の道へ

期末テストの最中、大村の目に飛び込んできたのは、

油の付いた生徒の手だった

工場で仕事をした後、登校し、テストを受けていた

「家が貧しいとか色んな事情があるでしょうけど私は一体何をやってるんだ。スキーばっかりやっていて、ようやく単位をとって卒業した状態で。これでもう一度やり直そうと勉強を始めました」

 

一念発起し、研究の道へ

失明を引き起こす感染症の特効薬:イベルメクチンを開発

毎年3億人を救っている

 

「人のために少しでも役に立つことないか。微生物の力を借りて何かできないか、これを絶えず考えております」

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1942年、両親共にオックスフォード大学 卒業という超エリート一家に生まれた

子供のころクラスメイトに付けられたニックネームは、アインシュタイン

周囲と比べ桁外れの知能を持ち合せていた彼は、

数学の先生が教科書から宿題の出すと

問題を解いた上で教科書の全ての間違いを修正して提出

 

1959年、飛び級して17歳でオックスフォード大学の物理学部に入学

ボートクラブに入り、毎日パーティーをして遊んでいた

しかし彼の身体に異変が起きる

大学の最後の年、突然転んでしまうことが何度か起きた

大学を首席で卒業すると20歳でケンブリッジ大学の大学院に進学

そこで当時、科学界の最大の争点、宇宙の始まりについて研究を始めた

 

体の異変がおさまらず2週間入院して精密検査を受けた

運動ニューロン疾患(筋委縮性側索硬化症)と診断された

手足や口など身体の筋肉を動かす神経が障害を受け、

徐々に体が動かなくなり最悪の場合 呼吸不全で死に至る難病

医師からは余命2年と宣告された

体がいつ動かくなってしまうのか?彼は途方に暮れた

研究していたことも全て無駄になるのではと自暴自棄になった

 

そんな彼を絶望から救ってくれたのが、

ジェーン・ワイルドとの出会いだった

彼は恋におち、生きる望みとなった

彼女と結婚するにはお金が必要、そのためには生きなければならない

そんな彼が生計を立てるには、物理の道しかなかった

すると世界を揺るがす事になる新たな説に辿り着いた

それは 宇宙はビッグバンと呼ばれる大爆発によって始まったという説

彼は限られた期間で、ビッグバン宇宙論を証明するしかない

研究を続けることで大学から奨励金を貰う事が出来た彼は、

ジェーンと結婚

 

だが彼の体を徐々に病気が蝕んでいく

ハネムーンはニューヨーク州にある大学の物理学会議だった

2人は子宝にも恵まれ、いつしか余命の2年も過ぎていた

 

大学院で博士号を取得した彼は、

宇宙の研究を続けながらケンブリッジ大学で物理学を教えることに

その頃になると彼は立つことが出来なくなり以来、車いす生活を余儀なくされる

体が衰弱する一方で、ビッグバン宇宙論の理論を組み立てることに成功

多くの科学者を納得させるもので

やがてホーキングの理論が科学界の定説となった

 

だが病気はさらに進行

手がほとんど動かなくなり文字や計算式を書く事もできなくなった

彼は髪やペンを使わず頭の中で宇宙の図式を組み立てることにした

もはや時間は残されていないと思い、宇宙の始まりについての研究を本に残そうと決意した

 

そんなある日、肺にばい菌が入り、それが元で肺炎に

こん睡状態で生命維持装置に繋がれた

医師はジェーンに生命維持装置のスイッチを切ることを提案した

ジェーンは拒否

数週間に渡る治療の末、何とか一命をとりとめる

この時の手術で喉を切開したため話す事は完全にできなくなった

常に人工呼吸器に繋がれ、24時間の看護が必要となった

もはや本を書き上げることは不可能と誰もが思っていた

だが彼はわずかに動く手でマウスを握り、執筆を再開した

そして数か月後、驚くような速さで書き上げた本が「ホーキング、宇宙を語る」

世界40カ国で翻訳され、発行部数は1000万部以上となった

そしてホーキングは研究以外にも様々な事にチャレンジし、人生を謳歌していく マスコミに追われる事でストレスを感じるようになったジェーン

結婚から26年後に離婚した

1953年、53歳の時 看護師のエレインと2度目の結婚したが、11年後に離婚

 

「私は死ぬことを恐れていません。ただ死ぬ前にしたいこと発見したいことが山ほどあるのです」

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その日本人は、野内与吉

1895年11月18日、福島県安達郡大玉村の裕福な農家に生まれ育った

与吉は21歳の時、日本人移民としてペルーへ渡った

当時、ペルー国内の大木を伐採して外国に輸出する仕事に携わった

材木商として技術と知識を身に付けた与吉は、

マチュピチュ周辺のジャングルに目をつけていた

1911年、、アメリカの考古学者:ハイラム・ビンラムが

ジャングルに埋もれ廃墟と化していたマチュピチュを見つけてから

12年後の1923年、鉄道が通り、幻の都への道が開けた頃だった

そこはわずか4家族の先住民だけが暮らしていた集落があった

 

前向きな与吉は、人が何かしてくれるのを待つような性格ではなかった

村人は川から水を汲んで飲んでいたが、

与吉が山の中腹にあった湧き水から水路を通してキレイな水を分け与えた

 

ある日、大木が倒れた拍子に大きな穴が開いて温泉が湧いてきた

与吉は石で囲って入れるように整備して村人に開放した

その温泉は現在、遺跡以外の重要な観光名所として観光客を招いている

 

遺跡と温泉で多くの客を見込んだ与吉は、

1935年 村で初めてとなる木造3階建てのホテルノウチを自らの手で建設

しかも1階は、郵便局や交番として使えるよう村に提供していた

さらに村人と共にダムを造り、

水の力を利用して大きなタービンを回して発電させた

与吉が作った発電機は、いまは役目を終え解体されたが、

発電に使ったタービンは広場に展示されている

 

マチュピチュに来て18年、与吉は誰もが信頼する存在になっていた

灯りがともる村の噂を聞きつけ、徐々に住民も増えていった

 

1941年、太平洋戦争が勃発

その影響な南米にも拡大、当時 連合国側であったペルーは

日本人移民を捕えて次々とアメリカの強制収容所へ送った

ペルー政府は、与吉の下にも憲兵を派遣した

村人は身を挺して憲兵から与吉を守った

 

1947年、記録的な大雨が発生、村を土石流が襲った

与吉は塞ぎがちな村人励まし続けた

村に尽くした与吉は次の世代にバトンを渡すと、

晩年はクスコで子供たちと余生を過ごした

 

1958年、三笠宮殿下がマチュピチュを訪問した際、

与吉の娘が父の事を話し、

その存在が日本にいる与吉の親族に伝えられた

野内家の人達は10年かけて100万円を集めると

そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開いた

 

1969年、家族と200人の村人が見守る中、ペルーに骨をうずめた

 

野内与吉の最初の妻との息子:ホセ野内は 村でホテルを経営している

父の後を受け継ぐように村長も務めた

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ザ!世界仰天ニュースで紹介された

福岡ダイエーホークス:藤井将雄 最期の1年間

気迫あふれる強気のピッチングで1年目から活躍

1999年、ホークス悲願の初優勝に貢献した中継ぎのエース

パリーグ最多ホールド賞を獲得

体に異変が現れ始めたのはリーグ優勝を決めた直後

これから日本シリーズという時だった

 

幼い頃、両親は離婚、母は女手一つで子供たちを育てた

毎朝 休むことなく朝市で店を出し、一家を支えた

家計が苦しくても息子に不自由な思いをさせなかった

そんな母の想いに応えるように藤井は練習に励んだ

社会人野球で頭角を現すと1994年、広島アジア大会では

日本代表に選ばれ金メダルを獲得

そしてその年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団

●愛する仲間のために生きた藤井将雄

1999年10月13日、健康診断を受けた藤井の肺に影が見つかった

「すぐに入院の手続きをしてもらえますか?」

「来週から日本シリーズが始まる大事な時期なんです。チームにも迷惑かけられないし」

このタイミングで入院する訳にはいかない

藤井は医師を説得し、試合に出た

日本シリーズでは第2戦と第5戦に登板

そしてダイエーホークスはチーム創設以来、初の日本一

1999年11月7日、福岡で凱旋パレード

佐賀に住む母と妹も藤井の雄姿に喜んでいた

この翌日から藤井の闘病生活が始まった

 

1999年11月10日、精密検査の2日後、藤井の実家に病院から連絡が…

本人に伝える前に家族が呼ばれた

「悪性度の高い肺がんになります」と宣告

がんは肺の広い範囲に広がっており、首のリンパ節にも転移していた

抗がん剤や放射線も効果はほとんどない、と説明を受けた

「半年もつかどうか…早くて余命3ヵ月」

血中の酸素量を表す酸素飽和度は通常95%以上だが、

肺機能が低下した藤井は80%ほど

かなり息苦しい状態だという

「本人には伝えていません。ご家族のお考えをお聞きできればと」

 

思い悩んだ末、母と妹はある決断をする

「告知の件なんですが、息子には言わないでください。野球が出来なくなると分かったらあの子は生きる希望を失います」

こうして藤井には隠し通す事を決めた

藤井は余命3ヵ月とは思えない元気な姿

母は妹と藤井の前では気丈に振る舞うと約束していたが…

母は息子を前にして感情を抑えられなかった

「ちょっと明日の仕事の支度をしないといけないから帰るね」

それ以来、母は病院へ行く自信がなくなった

 

病気の事を球団に黙っているわけにはいかない

しかし病気が分かれば来年の契約はない

そうなれば息子は希望を失ってしまう

何とか公にせず王監督に事情を説明したかった

そこで後援会事務局長:北方伸一に協力をお願いした

全てを知った北方は、若田部健一に電話をかけた

藤井と最も仲が良かった当時のエース

若田部の計らいで王監督に直接会う段取りが組まれた

「将雄はもって半年、来シーズンはもう無理です。だからクビで構いません。でも息子には残りの人生 生きる希望を失ってほしくないんです。嘘でいいので契約更改をして頂けないでしょうか?形だけでいんです。お願いします」

と母は王監督にお願いした

「何も心配しなくていいですよ。契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」

と王監督は母と妹に話した

1999年12月4日、藤井は正式に来季も契約更新され、年俸は倍増だった

命の保証のない選手にこの契約はプロスポーツの世界では考えられない事

契約更改後、王監督から藤井に連絡が、

「ゆっくり焦らず治療してください。若手がバテ始める6月に照準を合わせて戻ってくれればいいですから」

「分かりました。6月には完全復活しますので」

もう一度マウンドに立ちたい、この思いが藤井の心の支えになった

 

藤井の復活への気力は凄まじかった

足腰を鍛えるため、10階の病室まで階段で上り下り

血中の酸素が足らないので激しい運動は無理なはず…

体は病魔に蝕まれていたはずだが、人前では決して苦しい姿を見せなかった

藤井の気迫は病気に勝っていた

2000年1月、これといった治療をするわけでもないので一時帰宅が認められた

王監督との約束を果たすため藤井はトレーニングを続けた

 

そしてついに3月3日、死の宣告から5か月 2軍キャンプに復活した

息苦しさ、体力の低下など本人はかなり辛かったはずだが、

それらを気力で乗り越え、

2000年5月18日、およそ半年ぶりの実践登板

この日計測した球速は最高139キロ

急速は落ちたが、22球の気迫の投球だった

この時、藤井が末期がんを患っているなど誰も思いもしなかった

 

最後に1軍で投げさせてあげようと考えたスタッフから

1軍に上がれと言われたが、「いやまだ2軍で成績残していないから」と断った

 

その後も藤井は2軍の試合に出場。復帰後 6度の登板を果たした

2000年6月15日の登板直後、藤井は突然倒れた

緊急入院

肺に溜まった水を抜くための管が取り付けられた

その頃、がんによる激痛が度々襲った

「痛み止めを出しましょうか?」

「痛み止めなんて、どうしても必要な時は言いますから」

薬を飲めば病に負けたことになる、そう考え痛み止めを拒み続けた

 

2000年9月、ダイエーは2連覇に向けて首位争いをしていた

藤井は少しでもチームの力になれればとチームメイトを勇気づけるメールを送った

ダイエーはリーグ優勝まであと一歩

藤井はチームと共に戦った

2000年10月7日、ダイエーは見事2連覇

王監督胴上げの時、藤井の背番号15のマスコットを持った若田部が映っていた

マスコット人形は王監督と一緒に宙を舞った

優勝から6日後、藤井は31歳の若さで力尽きた

10月16日、葬儀が行われた

去年までチームメイトで藤井を可愛がっていた工藤と若田部は最後まで席を離れなかった

2000年10月21日、第1戦 奇しくも先発のマウンドに立ったのは工藤と若田部

藤井への思いを胸に力投した

 

福岡ドームの15番ゲートは、背番号にちなんで藤井ゲートと呼ばれている

選手のロッカールームにも藤井選手の写真が飾られている

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