異色の日銀マンと呼ばれた日銀神戸支店長:遠藤勝裕

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●異色の日銀マンと呼ばれた日本銀行 神戸支店長:遠藤勝裕

1945年、疎開先の山形で生まれた

戦後、復興が進む東京で幼少期を過ごした

そして高校2年生の時、人生を左右する1冊の本と出会う

それは城山三郎の著書「小説 日本銀行」

若手日銀マンが戦後のインフレに苦しむ貧しい人々の為、

何ができるかを考え奮闘する物語

 

日銀に入って困っている人々を救いたい

その思いを胸に早稲田大学 政治経済学部へ入学

晴れて憧れの日銀へ入行

順調に出世していく遠藤だったが、初心を忘れる事はなかった

 

1991年、日銀青森支店長の時、

台風19号によってリンゴ農家が壊滅的な被害を受けた

すると遠藤は、日銀の業務を逸脱し、農家からリンゴを

大型トラック1台分買い取り、東京銀座で自ら袋詰めして無料で配布した

並んでいる人々に青森のリンゴをアピールして農家を励ました

1994年、日銀神戸支店長に就任

 

1995年1月17日、阪神・淡路大震災、激しい縦揺れが発生

遠藤の脳裏には,

ロサンゼルス地震で起きた生活物資を強奪し合う金融パニックが浮かんだ

皆にお金が渡るような環境を整え、金融パニックを絶対に防いでみせる、

そう決意した遠藤は、ある行動を起こした

支店に午前7時に到着、日銀の中は当然 大パニックだった

日銀の支店の金庫には緊急事態にも

他の銀行にお金が無くならないよう常に大量の現金が保管されていた

しかし日銀は無事でも建物自体が潰れてしまい、

物理的に業務を行えない銀行も多かった

遠藤は建物が潰れてしまった銀行の為に

日銀の中に、その銀行の臨時窓口を造った

手書きの張り紙の臨時窓口 14行

それは戦後 日銀初めての事だった

 

お金をおろそうにも家事や建物の倒壊で

通帳や印鑑を無くした人々が数多くいた

預金があり銀行が営業していてもお金をおろす事が

出来ない人々の為に、遠藤は金融特別措置を出した

遠藤が実際に手書きで書いたその1行目には、

“預金証書、通帳を紛失した場合でも預金者であることを確認して払い戻しに応じること”

何もない場合は、口頭での確認も信じて応じてくれと各銀行に訴えた

「もし嘘をつかれたらどうするんですか?」という質問に

「義援金だと思って渡してあげて下さい」

こうした遠藤の常識破りの行動により、

お金の面で大きな混乱が起こる事はなかった

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