たった一人で戦争を止めようとした斉藤隆夫

明治3年(1870年)8月18日、兵庫県出石町で誕生
実家は貧しい農家で冬は豪雪地帯となる寒村
当時、人々のまだ身分に対する意識は、江戸時代と変わっていなかった
農民が暮らしやすい国をつくるには、どうしたらいい?
幼い時から、そう考えていた斉藤は、18歳の時に上京した
しかし汽車や船に乗るお金はない
斉藤は18日間かけて歩き続けた
 
上京した斉藤は苦学の末、明治45年(1912年)衆議院議員に初当選
 
太平洋戦争に突入する真珠湾攻撃の1年前、
軍部は暴走、政治に介入し議会を牛耳ろうとしていた
政府の要人たちが青年将校により
暗殺された二・二六事件が起きる中、
斉藤は危険を顧みず、軍部を徹底批判する本を出版
戦争に突き進もうとする日本を何とか止めようとしていた
軍部は、斉藤を護衛という名目で四六時中 警察や軍に監視
 
昭和12年(1937年) 日中戦争勃発
さらに昭和13年(1938年)、
議会の承認なしに国民を戦争に
動員できる国家総動員法が成立してしまう
 
日中戦争で疲弊している国民を救わなければならないと、
昭和15年(1940年)2月2日、第75帝国議会
当時の政府は、軍部の思いのままに傀儡状態
批判すれば殺される可能性もある中、
国民の声を届けるため斉藤はタブーを発言した
「一体 日中戦争はどうなるものであるか?いつ済むのであるか?いつまで続くものであるか?我々が日中戦争の処理を考えうるにあたりましては、寸時も忘れてはならぬものがあるのであります。それは何であるか?他の事ではない二年有半の長きにわたって我が国家国民が払いたるところの絶大なる犠牲であるのであります。ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがありましたならば、これは現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」
斉藤の発言は問題視され、議長により議事録から削除されてしまう
そして聖戦を冒とくしたとして懲罰委員会にかけられ、最も重い議員除名処分となる
斉藤の自宅には、脅迫を意味する短刀が送りつけられた
自分はこのまま殺され歴史に埋もれてしまうかもしれない
斉藤は、決死の思いで色紙に一詩を書いた
“私の言ったことは国民の声 批評は世間に委ねるが 百年後の歴史をみて欲しい 正しいか間違っているかは、おのずと明らかになる”
 
戦争が終わり、平和が当たり前となった時代、歴史学者:磯田道史は、露天商でその色紙と出会い、歴史から抹消されながらも戦争を止めようとした斉藤隆夫を知った

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